第5話 闇市の囚われの少女

夕暮れの光が、領主館の大広間を朱に染めていた。


 静謐な時間を破ったのは、泥に汚れた鎧を鳴らしながら駆け込んでくる兵士の声だった。




「領主様、ただいま戻りました!」




 膝をついたのは、兵士ベルンハルト。歴戦の槍兵でありながら、その表情には焦燥が浮かんでいた。


 視線が集まる。領主ライナルトは重厚な椅子に腰を掛け、皺を刻んだ額に険しさを増した。


 娘リリアーネは読んでいた書を閉じ、立ち上がる。家令クラリスは細い指で扇をたたみ、隣席の魔女セリナはワインの杯を軽く揺らしている。そして一番奥の席に、黒衣の男――ディランが黙して座していた。




「何があった」ライナルトの声は低いが、響き渡った。


「はっ……街道沿いの村々に、不穏な噂が広まっております。闇市が……」




 その言葉に、空気が一気に緊張へと傾く。




「闇市……」クラリスが眼鏡越しに目を細める。「盗品や禁制薬物の取引ならまだしも、この辺境でそんな組織的な市場が?」


「それだけではございません」ベルンハルトは唇を噛んだ。「奴隷の売買が行われているとのこと……」




 言葉が終わるか終わらぬかのうちに、リリアーネが椅子を蹴るようにして立ち上がった。


「奴隷!? なんてこと……! この領地で、そんな非道が!」


「落ち着け、リリアーネ」ライナルトは厳しい声で制する。


 だが娘は拳を握り、青い瞳を怒りに燃やしていた。


「父上! もし本当なら、一刻を争います! 無辜の人々がどれほどの目に遭っているか……!」




 セリナが紅の唇を歪め、杯を置いた。


「まぁまぁ。熱いことですこと。けれど、確かに見過ごせませんわね。……ねえ、ディラン様?」




 黒衣の男は、窓の外に目をやり、低く答えた。


「……俺が行く」




 短い一言。だがその場にいた全員の呼吸が止まるほどの重みがあった。




「なにを申す、ディラン殿!」ライナルトが身を乗り出す。「盗賊どもが徒党を組んでいるならば、危険は計り知れん!」


「盗賊風情に遅れを取るつもりはない」


 淡々と放たれた声には、揺るぎない自信と冷徹さが宿っていた。




 クラリスがくすりと笑い、扇を口元に寄せた。


「やはり頼もしい。ですが、せめて護衛は必要ですわ。リリアーネ様、あなたも行かれるのでしょう?」


「もちろんです!」リリアーネは迷いなく言い切った。


「人々を救うためなら、この剣を振るいます!」




 セリナも肩を竦めながら腰を上げた。


「ではわたしも。面白い品物があれば……いえ、人助けをしましょう」


「戦利品を探すつもりだろう」ディランがぼそりと呟くと、セリナは妖艶に笑った。




 こうして一行は調査に赴くこととなった。




翌日、街道沿いの小村。


 茅葺き屋根が並ぶ素朴な集落は、どこか沈鬱な空気に包まれていた。


 馬を引く農夫にリリアーネが声をかける。




「すまない。最近、妙な商人を見かけなかったか?」


 農夫は一瞬躊躇した後、声を潜めて答えた。


「……あんたら、領主様の方々か? なら話す。夜な夜な、森の外れに奴らが集まっとる。獲物は……女や子どもだ」


「やはり……!」リリアーネの瞳が怒りに揺れた。


「けど、言わない方が身のためだ。口を割った村人もおるが、次の日にはいなくなってな……」




 農夫の恐怖に満ちた顔を見て、ディランは静かに言った。


「安心しろ。もう誰も攫われはしない」




 その声音に、農夫の肩が震え、わずかな安堵の色が浮かんだ。




夕刻。森へと踏み入る前、隊は装備を整えていた。


 リリアーネは剣を磨き、クラリスは薬瓶を確認し、セリナは呪符を編んでいる。


 一方のディランは、闇に溶けるような漆黒の外套を羽織り、腰に短杖を差した。




「相変わらず簡素ね」セリナが肩をすくめる。


「必要最低限でいい」ディランは答える。


「ふふ。けれど、その“最低限”で全員を守るつもりなのでしょう?」


 ディランは返答せず、森を見やった。夕陽が沈み、影が濃くなっていく。




森に足を踏み入れると、湿った空気と夜の気配が彼らを包んだ。


 遠くで梟が鳴き、枝葉が揺れるたびに小さな影が走る。


 兵士たちは緊張に喉を鳴らしたが、ディランは平然と歩みを進めていた。




「怖くはないのですか」クラリスが問う。


「闇は俺の領域だ」


 淡々と返すディランに、リリアーネは不思議そうに彼を見つめる。


「闇が……領域?」


「そのうち分かる」




 セリナはくすりと笑い、囁いた。


「女の子はそういう謎めいた言葉に弱いものよ」


「な、なっ……! わたしは別に!」リリアーネが顔を赤らめると、クラリスが静かに「ふむ」と眼鏡を押し上げた。




 そうした掛け合いの裏で、森は次第にざわつき始めていた。


 小道の奥からかすかな灯りが漏れる。


 ――闇市は、すぐそこだ。













 森の奥深く、忘れ去られた廃村がある。


 かつては街道を行き交う旅人たちの休息地として栄えていたが、魔獣の襲撃や疫病の流行で人々が去り、今では崩れた壁と枯れた井戸だけが残る幽霊村となっていた。


 だが――その夜だけは違った。




 闇に沈む廃屋のあちこちに篝火が焚かれ、赤い炎が不気味に揺れている。


 炎の明かりに照らされて、粗野な笑い声と金属のぶつかる音が響き渡った。


 かつて子どもたちが遊んだ広場は、今や汚濁の市場へと変じている。




 ――闇市。




 盗賊と人買いが結託し、禁じられた品々を取引する違法の市。


 禁制薬物、盗まれた武具、異国の宝飾品……そして――人。




 檻に押し込められた人間たちが、松明の赤に照らされて震えていた。


 骨ばった男が呻き声を漏らす。痩せこけた子どもがすすり泣く。


 女たちは口に布を詰められ、恐怖に目を見開いている。


 その一人一人に札が下げられ、値段が付けられていた。




「おい見ろ、この女は若いぞ! まだ十六になったばかりだ!」


「鉱山奴隷にぴったりの骨太の男だ! 五年はもつ!」


「こっちの子どもは声が綺麗だ。歌わせて慰み者にでもどうだ!」




 粗野な掛け声が飛び交い、笑い声が混ざり合う。


 金貨袋が投げ渡されるたびに、誰かの運命が無情に値段へと変わっていった。


 人の尊厳が取引の対象となる、その異様な光景。




 広場の中央、ひときわ厳重な檻があった。


 鉄格子には鎖が幾重にも巻かれ、二人の盗賊が常に張り付いている。


 他の囚人と違い、檻の中にはただ一人。




 ――獣耳の少女。




 年の頃は十四、十五ほどか。


 淡い灰色の髪が乱れ、尖った獣耳がぴんと立ち、恐怖に震えていた。


 背には布切れ同然の衣しか纏っていない。


 瞳は琥珀色で、涙の粒が光を受けてかすかに輝いていた。




「見ろよ、珍しい獲物だぜ」


「獣人の娘なんざ、辺境じゃなかなかお目にかかれねぇ。高く売れるぞ」


「しかも耳と尾が揃ってる。欠けも傷もねぇ……貴族様が飛びつくに決まってる」




 見張りの盗賊たちはいやらしい笑いを漏らした。


 少女は必死に後ずさり、尻尾を抱き寄せる。


(やだ……やだ……! こんなところで……売られるなんて……)




 思い出すのは数日前のこと。


 森に暮らす獣人の里に、突如として盗賊が襲いかかった。


 焚き火を囲んでいた仲間が斬り伏せられ、母が叫びながら自分を庇い、そして視界が暗転した――。




「おかあ……さん……」


 掠れた声が零れた。


 だが、その声はすぐに鞭の音にかき消された。




「うるせぇ! 泣き喚くんじゃねぇ!」


「大人しくしてろ。どうせすぐに売られていくんだ」




 鞭の痛みに、少女の身体は震え、瞳から涙があふれる。


 檻の外では、すでに買い手の視線が集まり始めていた。


 絹のマントを羽織った肥えた男。金の指輪をいくつも嵌めた商人。


 そして、冷酷そうな顔立ちの貴族風の男。




「ほう……獣人の娘か。まだ幼いが、悪くはない」


「耳も尾も完全だ。品種としては上等だな」


「値は張るが……俺の屋敷に飾るにはちょうど良い」




 彼らの声が、少女の心をさらに締め付ける。


 身体が小刻みに震え、心臓が破裂しそうなほどに高鳴った。


(いやだ……助けて……! 誰か……!)




 しかしその祈りは、夜の喧騒にかき消されていく。




檻の中は、夜の空気が淀んでいた。


 湿った土と錆びた鉄の臭い。腐った藁が敷かれているが、そこからは酸っぱい臭気が立ちのぼり、吐き気を誘う。


 獣耳の少女――ミュナはその隅に小さく身体を縮めていた。




 両手首には鉄の枷がはめられ、鎖で背後の鉄格子に繋がれている。少しでも身じろぎすれば、錆びついた鎖がぎりぎりと軋んで音を立てた。


 身体は痩せて小さく、まだ年端もいかない。だがその耳と尾は柔らかな毛並みを持ち、獣人の特徴をよく表していた。


 その珍しさゆえに、今まさに商品として値踏みされようとしているのだ。




(……なんで、わたしが……こんな目に……)




 心の中で、ミュナは何度も自問した。


 思い返すのは数日前の出来事――あまりに突然の襲撃だった。







 彼女の故郷は森の奥の小さな獣人の集落だ。


 人間たちとは距離を置き、狩りと採集で慎ましく暮らしていた。


 木の実を採り、川で魚を獲り、母が煮込む野草のスープを食べて笑い合う――それがミュナにとっての「世界」だった。




「ミュナ、今日はこれを干すのを手伝っておくれ」


「はーい、おかあさん!」




 母の笑顔は、陽だまりのように優しかった。


 里の仲間たちも皆温かく、子どもたちは耳や尾を揺らして駆け回り、長老たちは昔話を語って聞かせてくれた。


 そのどれもが、何よりも大切な日常だった。




 けれど。




 それは、血と炎にあっけなく呑み込まれた。







 森に響いたのは、怒号と剣戟の音だった。


 黒ずくめの盗賊たちが突如として集落に雪崩れ込み、矢が放たれ、火が放たれた。


 仲間が次々と倒れ、悲鳴が夜空を裂く。




「逃げろ、ミュナ!」


 母が叫び、彼女の手を強く握った。


 だが、その腕はすぐに荒々しい力で引き裂かれた。




「この娘だ! 獣人の娘だ!」


「捕まえろ、売れるぞ!」




 屈強な男たちが笑いながら迫ってくる。


 母が必死に抗ったが、あっという間に殴り倒され、血を吐いて地面に崩れ落ちた。




「おかあさんっ!」


 叫ぶ声も、布を噛まされて塞がれた。


 視界が涙で滲み、意識が闇に飲まれていく。




 ――そして目を覚ませば、この檻の中だった。







(おかあさん……生きてるの……?)




 答えはない。


 あの時、倒れた母の姿が脳裏に焼き付いて離れない。


 助けに行きたい、でも檻からは出られない。


 鎖に繋がれたまま、ただ恐怖に震えるしかないのだ。




 篝火の赤に照らされる闇市の喧騒。


 人々の売買の声は絶え間なく響き続ける。




「こいつは腕力があるぞ、鉱山用だ!」


「この子どもは歌えるらしい、舞姫に仕立てろ!」


「ははは、もう少し泣かせてみろ! その方が値が上がる!」




 耳に入る言葉はどれも人を人と見なしていない。


 ミュナは耳を塞ぎたい衝動に駆られたが、鎖が邪魔をして自由に動けない。


 小さな肩が震え、尾が縮こまる。




(わたしも……このまま……どこかに売られて……)




 想像するだけで、呼吸が詰まりそうだった。


 母のいない場所で、知らない人間に連れて行かれ、道具のように扱われる――。


 未来が黒い闇に塗り潰されていく。







 やがて檻の前に一人の男が立った。


 黒い外套を羽織り、目つきの鋭い盗賊の頭目だ。


 片手には金貨袋を握り、もう片方で檻の格子をがんと叩いた。




「聞け、小娘。お前は今夜、この市で売られる。買い手は貴族だ。お前の耳と尾なら、高値で落とされるに違いねぇ」


「……っ」


「泣いても喚いても無駄だ。お前の運命は、すでに決まってるんだよ」




 言葉は冷たく突き刺さり、心を凍りつかせる。


 ミュナの瞳から、再び涙が零れ落ちた。




(……助けて……誰か……)




 その祈りは、闇夜の中に溶けていった。




夜の森を吹き抜ける風が、枝葉をざわめかせた。


 月明かりの下、黒衣の男が木陰を縫うように歩を進める。




 ――ディランである。




 彼は辺境伯領に新たに任じられて以来、村々を見回り、盗賊退治を続けていた。


 その最中、耳にしたのだ。


 「廃村で開かれる闇市」――人を奴隷として売買する闇の取引の噂を。




(……放ってはおけない)




 彼の足取りは静かで、気配は風と同化する。


 闇に生きる魔法使い――その本領を発揮する場であった。







 やがて、篝火の赤が木々の間からちらついた。


 笑い声と怒号が混ざり合い、獣の唸りにも似たざわめきが夜気を震わせる。




(ここか……)




 ディランは視線を巡らせ、数を数える。


 ――見張りが十人。


 ――広場に集まる商人や貴族風の客が二十。


 ――盗賊の一団、おそらく三十はいる。




 力任せに突っ込めば数で圧倒される。


 だが、彼は口元に微笑を浮かべた。




(闇は……俺の領分だ)




 掌を広げると、黒い霧が指の間から滲み出す。


 それは夜の闇と溶け合い、音もなく広場を包み始めた。







「なんだ……? 火が……霞んで……」


「ぐっ、目が……! なんだこれは!」




 盗賊たちが慌てて叫ぶ。


 篝火の赤は黒に呑まれ、光は掻き消されていく。


 見渡せば、夜よりも深い闇が渦巻き、方向すら分からなくなる。




「馬鹿な、夜霧か? いや……これは魔法だ!」


「魔導士がいるぞ! 皆、警戒しろ!」




 動揺の声が飛び交う中、一人の影が音もなく踏み込んだ。


 その瞬間、盗賊の一人の喉が闇の刃に裂かれた。


 呻き声を上げる暇もなく崩れ落ちる。




「な、何だっ! 見えねぇっ!」


「う、後ろだっ!」




 次々と悲鳴が上がる。


 視界を奪われた盗賊たちは、敵の位置すら掴めない。


 その間に、闇の刃は静かに、確実に命を刈り取っていく。







 一方で、檻の中のミュナは震えていた。


 突然広場を覆った黒い闇。


 盗賊たちの悲鳴と、血の匂い。




(なに……? なにが起きてるの……?)




 恐怖と希望が入り混じる。


 彼女の視線の先、檻の前に人影が現れた。




 黒衣を纏い、闇を背負った男――ディランだった。




 彼は無言で鉄格子に手をかざした。


 低く呟いた言葉と共に、格子が黒く腐食し、音もなく崩れ落ちる。




「……大丈夫か?」




 その声は驚くほど穏やかだった。


 ミュナの目に涙があふれる。




「た、助け……て……」


「ああ、必ず」




 彼は少女の枷に触れ、闇の力で鎖を断ち切った。


 自由になった腕を抱きしめるミュナに、ディランは外套を掛ける。




「少しの辛抱だ。すぐにここから出す」


「……うん……」







 だが、広場の混乱は収まらない。


 盗賊たちの中から、ひときわ大柄な男が姿を現した。


 傷だらけの顔に、眼光だけが爛々と輝いている。




「……お前か、魔導士!」


 頭目が唸るように叫んだ。


「闇を操るとは……いい獲物を連れてきやがった!」




 手にした大斧を振りかぶり、闇を裂くように突進してくる。


 その一撃は大地を抉り、檻を粉砕するほどの力を秘めていた。




「くっ……!」


 ディランはミュナを抱き寄せて身を翻す。


 風圧が髪を撫で、背後の地面がえぐれる。




「小娘を返せ! そいつは俺の金づるだ!」


「……くだらない」




 ディランの瞳に冷たい光が宿る。


 掌から奔る闇が、大斧を包み込み、軋ませる。




「な……馬鹿な……!」


「闇に飲まれろ」




 刹那、大斧ごと男の腕が闇に呑まれ、悲鳴と共に消え失せた。


 頭目は膝をつき、地に倒れ伏す。




 広場を覆う闇の中、盗賊たちは総崩れとなった。







 静寂が訪れる。


 篝火は消え、夜の森は再び暗闇に支配されていた。




「……もう、大丈夫だ」




 ディランは腕の中のミュナを見下ろした。


 彼女は震えながらも、必死に頷いた。


 涙に濡れた瞳が、初めて希望の光を映していた。

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