第16話 大惨事※イザベラ視点

 噴水から水が溢れ出して、あっという間に会場の床一面に広がっていく。


 最初は中央だけだった水たまりが、波紋のように外側へと広がっていく。まるで川が氾濫したように、容赦なく。止める術もなく、ただ広がり続ける。高価な絨毯が水を吸い込み、色が濃く変わっていく。


「きゃあ!」

「まあ! 私のドレスが!」

「なんてこと!」 


 貴婦人たちの悲鳴が、次々と上がる。皆、ドレスの裾を持ち上げようとするが、もう遅い。水は容赦なく広がり、彼女たちのドレスを濡らしていく。


 テーブルに水が飛び散り、せっかく用意した料理が台無しになる。皿が落ちる音。陶器が割れる鋭い音。グラスが転がる音。食べ物が床に落ちる鈍い音。白いテーブルクロスが、水でべちゃべちゃになっている。異国の香辛料が水に溶けて、変な臭いが漂い始める。


 音楽隊の楽器にも水がかかり、演奏が止まった。


 奏者たちが慌てて楽器を守ろうとするが、ダメだった。楽器が、水浸しになっている。バイオリン奏者が悲鳴に近い声を上げる。


「これ、弁償していただけるのでしょうね!」


 怒りに震えた声で叫ぶ奏者たち。その顔は真っ赤で、目には涙が浮かんでいる。


 私の足元にも、冷たい水が一気に流れ込んできた。足が取られて倒れそうになる。ドレスの裾が重くなる感触。水を吸った布地が、足に纏わりつく不快感。せっかくの完璧な衣装が、台無し。純白だったシルクが、灰色に濁っていく。


「すぐに水を止めなさい! 早く! 何をしているの!」


 私は必死にスタッフに叫んだ。声が裏返る。だけど、そんなこと気にしている場合じゃない。とにかく、この惨事を止めないと。これ以上、悪くなる前に。。


「申し訳ございません、配管の弁が故障したようでして……! 想定していた以上の水圧がかかり、制御装置が……!」


 スタッフが慌てた様子で答える。顔面蒼白で、額に冷や汗が浮かんでいる。


「故障? どうにか水が出るのを止められないの!? 何か方法があるでしょう!」

「わかりません、設置業者に確認を……!」

「じゃあ、さっさと対処できる業者を呼んで! 今すぐ!」


 何人ものスタッフが噴水の周りに集まり、必死で対処しようとしている。でも、誰も噴水を止められない。ある者は配管を手で押さえようとし、ある者は布で水を塞ごうとし、ある者は床に広がる水を拭こうとする。でも、全て無駄。次々と流れ出る水は止まらない。止まる気配すらない。


 ゴボゴボという不気味な音が、ずっと鳴り響いている。


 会場が、どんどん水浸しになっていく。床が水で覆われて、浅い池のようになっている。足首まで水に浸かっている場所もある。装飾が濡れて、色が滲んでいる。せっかくの異国風の金色の布地が、水を吸って重たく垂れ下がっている。使い古した雑巾のように。


 参加者たちの冷たい視線を感じる。


 スタッフたちの視線も。


 冷たい視線。非難の眼差し。


 「だから言ったのに」と言っているような、無言の非難。「警告したじゃないか」と責めるような視線。


 彼らが何を考えているか、わかっている。でも、認めたくない。これは、私のせいじゃない。私の指示は完璧だった。悪いのは、実行した側よ。ちゃんとやらなかった、彼らのせいよ。


「ロデリック様! どうすれば……!」


 助けを求めて彼を見る。彼なら、何か助けてくれるはず。公爵家の嫡男なんだから。権力があるんだから。何とかしてくれるはず。


 でもロデリック様は、ただ呆然と立ち尽くしているだけだった。


 助けを求めて彼を見ると、ロデリック様も完全に困惑した表情だった。何も言わずに立ち尽くしていた。困ったというような表情のまま固まっている。助けてくれそうにない。


 頼りにならない。全く、頼りにならない。


 対処できる者が来るのを待つしかない。時間が経過する。どれくらい待ったかわからない。五分か、十分か、それ以上か。永遠のように感じられた。一秒一秒が、拷問のように長い。


 会場に残っている参加者たちは、明らかに不快そうな表情をしている。濡れたドレスを気にしながら、壁際に避難している。ひそひそと囁き合う声が聞こえる。


「信じられませんわ」

「こんな杜撰な準備で、よくパーティーを開こうと思ったものね」

「公爵家の威信が、地に落ちますわ」


 ようやく業者が到着した。


 慌ただしく作業をする。工具を持って、配管の奥へと潜り込んでいく。金属音が響く。怒鳴り声が飛び交う。「こっちだ!」「いや、そっちじゃない!」「早く!」


 こんなの、私の想像していたパーティーの光景じゃない。なんなのよ、これは。


 しばらくして、ようやく水が止まった。噴き上がっていた水が、ゆっくりと弱まり、そして止まる。最後の一滴が、静かに落ちる。




 会場に、一瞬の静寂が訪れた。


 噴水の問題は解決した。でも――


 会場の惨状は、変わらない。


 床は水浸しのまま。靴が水に浸かって、歩くたびに水の音がする。装飾は濡れて台無しに。布地は垂れ下がり、燭台は倒れている。料理は散乱している。テーブルの上も、床の上も、食べ物と割れた食器で溢れている。


「申し訳ございません、本日はこれにて失礼させていただきます」


 参加者の一人が、冷たい声で言った。


 その声には、怒りと失望が混じっている。主催者であった私の顔も見ずに、早足で会場から立ち去る。背中で怒りを表現している。


「体調が優れませんので」


 貴婦人が、明らかに嘘だとわかる言い訳をする。ドレスの裾を持ち上げて、足早に出口へ向かう。彼女もまた、私と目も合わせずに去っていった。


「急用を思い出しましたので」


 また別の貴族が、足早に出口へ向かった。濡れた靴が、床で不快な音を立てる。ピチャピチャという、惨めな音。


 参加者たちが、次々と会場を後にし始める。まるで逃げるように。


 濡れたドレスの裾を持ち上げて、急いで出口へ向かう貴婦人たち。顔をしかめながら、不快感を隠さずに去っていく紳士たち。誰も振り返らない。誰も立ち止まらない。


 特に、社交界で影響力があり、味方につけたいと招待した重鎮たちが、早々に退場していく。冷たい視線を残して。軽蔑の眼差しを向けて。その目に映っているのは――失望、怒り、侮蔑。


「お待ちください! まだパーティーは……! まだ終わっていません!」


 引き止めようとしたけれど、誰も立ち止まらない。私の声など、もう誰も聞いていない。冷たい視線だけを残して、去っていく。私の声は、もう誰にも届かない。空しく、会場に響くだけ。


「申し訳ありませんが、私も。どうやら、大変な事態のようなので、私には手伝えることもありませんから……、邪魔にならないよう離れておきます」

「ちょ、ちょっと、ヴィオレット! 待って! あなたまで!」


 一番の取り巻きだったヴィオレット・ハミルトンが、申し訳なさそうに――いえ、申し訳なさそうなふりをして――言い訳をして去っていく。その背中は、逃げるように素早い。


 他の取り巻きの友人たちも、一人、また一人と会場を後にする。


「ごめんなさい、私も帰ります」

「また今度」

「頑張ってください」


 上辺だけの言葉を残して、皆逃げていく。誰一人、残ろうとしない。ただ、自分が巻き込まれないように。私と一緒にいることで、自分の評判が落ちるのを恐れているだけ。


 まだ、衣装替えの予定が二回も残っているのに。


 まだ、終了時間まで時間があるのに。


 でも、それどころじゃなくなった。


 会場には、スタッフと、そしてロデリック様だけが残っていた。


 スタッフたちは、無言で片付けを始めている。濡れた床を拭き、倒れた装飾を片付け、散乱した食器を集める。その背中が、何かを語っている。「だから言ったのに」と。


 ロデリック様は、呆然と立ち尽くしたまま、何も言わない。その横顔は、怒りとも失望ともつかない、複雑な表情をしている。口元が、小さく震えている。拳を握りしめて、何かを堪えているように見える。


「ロデリック様……」


 声をかける。でも、彼は反応しない。黙ったまま、会場の惨状を見つめている。


「どうして……、こんなことに……」


 私の口から、そんな言葉が漏れ出た。声が震えている。涙が溢れそうになる。



 気付いたら、私は一人で控室に戻っていた。


 いつ、どうやって戻ったのか、覚えていない。足が勝手に動いていた。逃げるように。現実から目を逸らすように。


 鏡の前に座る。


 映っているのは、疲れ切った自分の姿。


 完璧だったはずのメイクは崩れ、黒いアイラインが涙で滲んで頬を伝っている。目の下には疲労の影が濃い。せっかく編み込んだ真珠の飾りが取れかかって、髪が乱れている。


 純白のシルクドレスには、水の染みがついている。裾は濡れて、重たく垂れ下がっている。泥水のような色に変わっている。特注のドレス。完璧な衣装だった。それが、こんな無残な姿に。


 これが、『私が輝く日』のはずだった。


 社交界の注目を集め、お姉様なんか軽く超える瞬間だったはずなのに。『イザベラこそが、真の才女』と認められる日だったはずなのに。


「どうして……こんなことに……」


 声が震える。唇が震えている。


 涙が溢れそうになるのを、必死で堪える。でも、もう堪えきれない。目の奥が熱い。


 完璧なはずだった。


 私のアイデアは、斬新で素晴らしいはずだった。


 噴水も、異国料理も、流行の音楽も、全部話題になるはずだった。社交界に革命を起こすはずだった。


 その結果が、これなの?


 水浸しの会場。


 去っていった参加者たち。


 冷たい視線。


 失望の言葉。


 軽蔑の眼差し。


 ――いや、違う。


 心の中で、何かが叫ぶ。


 これは、私のせいじゃない。


 そうよ。私のせいなんかじゃない。


 スタッフが、ちゃんと準備しなかったから。


 噴水の設置を、適当にやったから。確認を怠ったから。


 料理人が、ちゃんと料理を用意して提供しなかったから。香辛料の量を間違えたから。


 音楽隊の演奏が、参加者の好みに合わなかったから。技術が足りなかったから。


 私の指示は、完璧だった。


 悪いのは、準備を失敗した彼ら。


 そう、そうよ!


 私は、何も間違っていない。私のアイデアは素晴らしかった。革新的で、斬新で、誰も思いつかないようなことに挑戦しようとした。それを失敗したのは、彼らのせいでしょ。

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