第12話 偶然の被写体

ー-「コンクリートのジャングルには、狩人と獲物がいる。だが時として、その境界は曖昧になる。スクープを追うジャーナリストと、悪を追うヒーロー…どちらも、同じ深い影をストーキングしているのだから。」ー-



 ヴァーミリオン・シティの犯罪多発地帯、通称「影溜まり」。マヤ・グレイソンは、古びたビルの屋上から、獲物を待つ豹のようにじっと息を潜めていた。ここ数週間、ベルベット・ナイトメアの目撃情報が最も多いエリアだ。警察さえ近づきたがらないこの場所こそ、ヒーローが姿を現す舞台だと、彼女は確信していた。


 その時、下の路地裏で怒声が響いた。チンピラ数人が、一人の男性を取り囲んでいる。ありふれた、しかし切迫した暴力の気配。マヤはすぐさま望遠レンズを構えた。


(来る!)


 だが、マヤのファインダーが最初に捉えたのは、ヒーローではなかった。スーパーの袋を提げた、地味なスーツ姿のOL。事件現場のすぐそばを、何食わぬ顔で通りかかろうとしている。カイラだった。

 他の通行人が足早に通り過ぎる中、彼女だけが違う。恐怖も、嫌悪もない。その瞳は、まるで状況を分析するかのように冷静にチンピラたちの動きを観察している。


(普通のOLが、この状況で、落ち着きすぎている……)


 マヤは強烈な違和感を覚えた。それは、ジャーナリストとしての勘が発する、鋭い警告だった。彼女は咄嗟にレンズをその女に向け、その横顔を一枚、写真に収めた。


 次の瞬間、高架線を走る電車の轟音が響き渡り、一瞬だけ路地の光と影が激しく明滅する。カイラはその影に溶け込むように、すっと姿を消した。


 そして、入れ替わるように。

 カイラが消えた路地のビルの屋上、月光を背にした給水塔の上に、黒いシルエットが浮かび上がった。



ー-「それは、影から生まれた芸術品だった。彼女の存在そのものが、暴力と美の矛盾を体現していた。」ー-



 体に吸い付くような漆黒のスーツは、ベルベットのような艶を放ち、鍛え上げられたアスリートの肉体、そして女性的な曲線美を惜しげもなく強調している。顔を覆うマスクの下から覗く瞳は、獲物を定める黒豹のように鋭い。


 ベルベット・ナイトメアは音もなく地上に舞い降りると、一瞬の舞踏でチンピラたちを無力化した。流れるような回し蹴りが一人の顎を捉え、しなやかな身のこなしでナイフをかわすと、その腕を掴んで関節を極める。力任せではない、正確無比な技術。その戦いぶりは、荒々しい暴力ではなく、洗練されたアートだった。


 マヤは、その美しさに一瞬息をのんだ後、我に返って夢中でシャッターを切り続けた。カメラのモータードライブ音が、静かになった路地に響く。ヒーローはちらりとマヤのいる屋上を一瞥したが、何も言わずに闇の中へと消えていった。


 翌朝、「ヴァーミリオン・デイリー」の一面は、街の度肝を抜いた。

 夜の闇を切り裂き、美しい蹴りを放つベルベット・ナイトメアの姿。これまでに出回っていた不鮮明な写真とは比較にならない、鮮烈で、ダイナミックな一枚。


 編集長室では、上機嫌な編集長が新聞を叩いてマヤを絶賛した。

「やったな、マヤ!これほどハッキリした写真は初めてだ!街中がこの話題で持ちきりだぞ!お前のおかげで、うちの新聞の売れ行きも鰻登りだ!」


 マヤは、ありがとうございます、とだけ短く答えた。

 編集長は満足げに頷くと、彼女に次の指令を与える。


「この記事で、彼女は本物のスターになった。スターには、素顔のゴシップが付き物だ」

 彼は、マヤが撮った写真の、ヒーローの顔部分を指差す。


「次は、このマスクの下を撮ってこい。彼女の素顔をな」


 その言葉に、マヤは静かに、しかし力強く頷いた。その瞳には、ハイエナと呼ばれたジャーナリストの、冷徹な光が宿っていた。


ー-「一枚の写真は、都市伝説を現実に変えた。そして、ジャーナリストの欲望に、新たな燃料を投下した。ヒーローの素顔…その禁断のベールを剥がすため、ハイエナの追跡が、今、本格的に始まろうとしていた。」ー-

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