第28話
数カ月が過ぎたある朝——
倉田との交際も順調で来年には正式に結婚しようという運びになっていた。
夏海はいつもより早くに目を覚まし、身なりを整えて階段を下りていた。
けれど、突然—— 目の前が暗くなった。
「えっ…!?」
ごろごろ……どすん!
階段を転げ落ちる音が、家中に響いた。
「夏海!!夏海!!しっかりして!!」
母の叫びに、父がすぐに救急車を呼んだ。
ピーポーピーポー……
数分後、救急隊が到着し、夏海は病院へと搬送された。
幸い、外傷は大きくなかった。
けれど—— 検査の結果、医師が告げたのは思いもよらぬ事実だった。
脳腫瘍——
まだ小さく、手術をすれば後遺症もなく済む可能性が高いという。
それでも、両親の胸には重い衝撃が走った。
「……なんで、夏海が……」
病室で、頭に包帯を巻かれ、点滴を受けながら眠る娘を見て—— 母は、静かに肩を震わせて泣いていた。
父は、夏海の職場に連絡を入れた。
そして、倉田にも事故のことが伝えられた。
数時間後—— 夏海は、意識を取り戻した。
病室には、両親、倉田、そして三浦が揃っていた。
夏海は、ぼんやりと天井を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……ご、ごめんなさい……」
その言葉に、母は後ろを向いたまま、肩を震わせて泣いていた。
夏海はその様子を見て…これは何かあったなと悟った…。
倉田は、そっとベッドのそばに立ち、静かに言った。
「夏海ちゃん…大丈夫かい?」
その言葉は、温かく優しかった…。
「うん…倉田さん…お仕事は?」
「夏海ちゃんが階段から落ちてケガしたって聞いて…。」
「倉田のやつが血相変えて言うからさ…。」
「あはは…そうだったんですか…ゴメンなさい…。」
そのやり取りを見ていた父が倉田を呼び病室を出て行った…。
「お父さん…?」
「大丈夫よ…ほら婚約者だから…ね!」
それを聞いていた三浦が驚きの声をあげた…。
「え…結婚!?夏海ちゃんと倉田が!?」
夏海が少し照れたような顔で…。
「はい…。」
「あ、三浦さん…澪さんにはまだ言わないでください…。」
「あ、うん…でも、どうして?」
夏海は少し沈黙して言った…。
「澪さんには私から直接言いたいから…。」
「そっか…そう言う事なら黙っておくよ。」
「ありがとうございます…。」
病室の外——
父から夏海の病気のことを聞かされた倉田は、言葉を失っていた。
「え……夏海ちゃんが……脳腫瘍!?」
「そんな……まさか、あんなに元気だったのに……」
顔色を変え、拳を握りしめる倉田に、父は静かに言った。
「倉田くん……」
「なんで……なんで夏海ちゃんが、こんなつらい目にばかり遭わなきゃならないんだ……」
その声には、悔しさと悲しみが滲んでいた。
「……夏海には……」
「はい……黙っておきます」
「すまんな……」
倉田は、涙をぐっと堪えて病室へ戻った。
すると、三浦が茶化すように倉田の背中を叩いた。
「この幸せ者が!」
バシ!バシ!
「いて、いて〜よ、三浦!」
「夏海ちゃんと幸せになれよ!」
「お、おう……ありがとな!」
「先越されたなぁ……」
夏海が、少し笑いながら三浦に尋ねた。
「三浦さん。澪さんにプロポーズしてないんですか?」
三浦は、照れくさそうに頭を掻いた。
「いや、しようとは考えてるんだけど……タイミングがさ……あはは……」
倉田がぽつりと口を挟む。
「澪も待ってるんじゃないか?」
「うるせーよ……お前はなんて夏海ちゃんにプロポーズしたんだよ?」
その問いに、急に沈黙が走った。
——そうだ。 倉田は、まだ夏海にプロポーズしていなかった。
夏海は、ベッドの上で倉田の顔を見て、そっと笑っていた。
(……言わなきゃ。ちゃんと、言葉にしなきゃ…。)
倉田の胸に、静かに決意が芽生えていた。
意識が戻ったことを父が看護師に伝えると、しばらくして担当医が病室に現れた。 夏海は、少し不安げな表情で医師の顔を見つめた。
(……思ったより、ケガがよくないのかな……?)
医師は、静かに告げた。
「ご家族以外の方は、席を外していただけますか」
倉田と三浦が立ち上がろうとしたその時——
夏海が、少し声を震わせながら言った。
「……あの、婚約者は同席しても?」
医師は、すぐに頷いた。
「……そういうことなら、どうぞ」
倉田は、そっと夏海の手を握りながら、椅子に座り直した。
夏海は、意を決して尋ねた。
「……私、良くないんですか?」
医師は、少し驚いた顔をした。
「……ご両親から聞いたのかな?」
「……いいえ。何も聞いてません」
その言葉に、医師は一瞬しまったという表情を見せた。
けれど、すぐに表情を整え、静かに頷いた。
「……お父さん、お母さん。よろしいですね?」
父と母は、無言で頷いた。
その表情には、覚悟と祈りが混ざっていた。
医師は、カルテを手にしながら、ゆっくりと口を開いた。
「夏海さん。検査の結果、脳に小さな腫瘍が見つかりました。
それが視神経を圧迫してるんです」
「 今の段階では手術で取り除ける可能性が高く、後遺症の心配も少ないです」
病室の空気が、静かに張り詰めた。
夏海は、倉田の手をぎゅっと握りしめた。
その手は、震えていたけれど——確かに温かかった。
倉田は、夏海の耳元でそっと囁いた。
「……大丈夫。僕がついてる」
その言葉に、夏海は小さく頷いた。
(……怖い。でも、ひとりじゃない)
その確信が、病室の静けさを破った。
「余命は……何年ですか?」
夏海の突然の問いに、医師は一瞬驚いた顔を見せた。
けれど、すぐに静かに答えた。
「余命宣告ですか……敢えて言うなら、放っておけば5年でしょう」
「……あはは、5年か……」
夏海の顔は、意外にも明るかった。
その笑顔には、恐れは無かった…。
そして、ふと口を開いた。
「……あの先生、この病気って……赤ちゃん、産めますか?」
その言葉に、倉田は思わず顔を赤くした。
医師は、少し驚きながらも、優しく答えた。
「はい、大丈夫ですよ。手術が無事終わって、回復すれば——可能です」
その言葉に、夏海は深く安堵した。
胸の奥に、未来への希望が灯った瞬間だった。
「……先生、宜しくお願いします」
夏海の声は、静かで、けれど力強かった。
「はい、わかりました。では、手続きをするので——ご両親はこちらへ」
そう言って、医師と両親は病室をあとにした。
静かになった病室で—— 夏海は、倉田の顔を見つめた。
倉田は、何も言わず—— そっと夏海の額に口づけをした。
「あは…額なんだ…?」
「……。」
「夏海ちゃん…無事手術を終えたら僕と一緒に暮らさないか?」
突然の倉田の提案に少し驚いた…。
「はい…。」
「大丈夫だよ…絶対成功する!」
「倉田さん…。」
夏海は自分に言い聞かせた…。
病気に負けない…。
絶対生きる…。
そして未来を共にこの人と歩むために——
それはある意味誓いだった。
夏海は、そっと目を閉じた。
その胸の奥には、もう“恐れ”はなく——
“生きる理由”が灯っていた。
第29話につづく…。
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