第17話

いつ以来だろう—— こんなに落ち着いた休日の午後を過ごすのは。


レンガ造りの喫茶店。

窓から差し込む柔らかな光が、テーブルの木目を優しく照らしていた。

カップの中のコーヒーは、まだ湯気を立てている。


倉田の話は、意外と面白かった。

好きな映画の話、昔観た洋画の感想、休日の過ごし方—— 他愛もない話なのに、なぜか心地よくて、ずっと聞いていたくなる。


「俺、昔『ゴースト』観て泣いたんだよ。あれ、反則だよな」


「えっ……意外です。泣くんですね、倉田さん」


「泣くよ〜。ああいうの、弱いんだよ。あと、犬が出てくる映画もだめ」


「ふふっ……」


夏海は、笑いながらカップを口元に運んだ。

コーヒーの香りと、倉田の冗談が、心をふわりとほどいていく。


(何より——一緒にいたいと思った)


その気持ちは、言葉にするにはまだ少し早くて。

でも、確かに胸の奥で灯っていた。


倉田は、時折冗談を交えながら、夏海を和ませてくれる。

その笑顔は、職場で見せるものとは違っていて—— どこか柔らかくて、どこかあたたかい。


「夏海ちゃん、映画館とか行くの?」


「最近はあまり…。」


「今度いっしょに観にいこうか?」


「なんちゃって…あはは。」


「……はい。」


「え!?」


ふたりは、笑い合った。

その笑いの中には、言葉にしなくても伝わる何かがあった。


午後の光が、ゆっくりと傾いていく。

その時間さえも、ふたりにとっては愛おしかった。


楽しい時間はあっという間に過ぎる—— まさにその言葉通りだった。


店内の時計は、もう夕方を過ぎていた。

窓の外はすっかり薄暗くなり、街灯がぽつぽつと灯り始めていた。


「そろそろ出ようか……」


倉田が静かに切り出す。

その声に、夏海は少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。

けれど、倉田はそれに気づかず、いつものように穏やかに立ち上がる。


「帰りましょうか」


夏海は、笑みを浮かべて答えた。

その笑顔には、ほんの少し名残惜しさが混ざっていた。


「ここは僕が……」


倉田は伝票を手にして、レジへ向かおうとする。


「いえ……悪いので私が……」


そう言いかけた夏海に、倉田は笑って言った。


「誘ったのは僕だよ」


その言葉に、夏海は少しだけ甘えることにした。


「……ごちそうさまです」


会計を終え、ふたりが店を出ようとしたそのとき—— 澪が、夏海の耳元にそっと顔を寄せた。


「倉田くんを、よろしくね!」


その言葉に、夏海は一瞬で頬を赤く染めた。

耳まで熱くなって、何も言えなくなる。


それを見ていた倉田が、首をかしげながら尋ねる。


「澪のやつに何言われたの?」


夏海は、視線をそらしながら—— それでも、どこか嬉しそうに答えた。


「……な、内緒です」


ふたりの間に、春の夜風がそっと吹き抜けた。

その風は、少しだけ甘くて、少しだけくすぐったかった。


車に乗り込んだ夏海は、しばらく黙ったままだった。 エンジンの音だけが静かに響き、窓の外には街灯がぽつぽつと流れていく。


倉田は、運転席で穏やかにハンドルを握っていた。 その横顔は、昼間の喫茶店で見た笑顔とは少し違っていて—— どこか落ち着いた、大人の顔だった。


夏海は、意を決して口を開いた。


「あの……倉田さん?」


「うん? なんだい?」


「み、澪さんとは……どういう関係なのですか?」


突然の問いに、倉田は少しだけ驚いたように目を丸くした。

けれど、すぐに笑って答えた。


「澪とは幼馴染なんだ」


「幼馴染……」


「昔は隣同士でさ。幼稚園から中学までずっと一緒だったんだよ。高校は違ったけどね。僕、勉強嫌いだったから」


そう言って、倉田は笑った。

その笑い方は、どこか懐かしさを含んでいて—— でも、澪に対する特別な感情は感じられなかった。


夏海は、少しだけ間を置いて、もう一歩踏み込んだ。


「付き合おうとか……無かったのですか?」


その問いに、倉田はキッパリと答えた。


「無いな」


その言葉は、迷いのない声だった。

夏海は、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。


(……そっか)


それを聞いた夏海は自然に笑っていた。


車は、静かに走っていた。

車内には、心地よい沈黙と、さっきの会話の余韻が漂っていた。


倉田が、ふと笑いながら言った。


「それに澪は、三浦の彼女なんだよ」


「え? 三浦さんって……うちの会社の?」


夏海は、思わず驚いた声を上げた。

あの落ち着いた三浦さんと、あの明るい澪が—— 意外すぎて、すぐには結びつかなかった。


「うん。僕が紹介したんだよ」


「え……」


「こう見えて、僕はキューピットなんだよ?」


倉田は、少し得意げに笑った。

その笑顔は、どこか子供っぽくて—— でも、夏海の心をふっと軽くした。


「……ふふっ」


夏海は、思わず笑ってしまった。

驚きと、ちょっとした安心と、倉田の照れくさい自慢話。

それらが混ざり合って、笑いがこぼれた。


車は、夏海の家の近くにあるコンビニの駐車場に着いた。

エンジン音が静かに止まり、車内は静けさが広がる。


「ここでいいの?」


倉田の問いに、夏海は一瞬だけ迷った。

けれど、心の奥にある“もう少しだけ一緒にいたい”という気持ちが

言葉を引き出した。


「……家までお願いします」


「うん、わかった」


倉田は笑顔で答え、車を再び走らせた。

住宅街の静かな道へと入っていく。


玄関の前で車が止まった。


「倉田さん、今日はありがとうございました」


夏海は、少しだけ名残惜しそうに言った。


「いや、こちらこそ」


倉田の声は、昼間よりも少し低くて、落ち着いていた。


「また……誘ってください」


その言葉は、ほんの少しだけ勇気を出して言ったものだった。

倉田は、少し驚いたがすぐに、嬉しそうに笑った。


「うん、もちろん」


夏海は、静かに車から降りた。

ドアを閉め軽く手を振って、倉田の車を見送った。


その様子を—— 玄関のカーテンの隙間から、母が静かに見ていた。


(……あの子、笑ってる)


母は、何も言わずにそっとカーテンを閉じた。

その表情は、どこか安心したようだった。


風が、夏海の髪をそっと揺らした。




第18話に続く…。

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