NEXUS THEORIA -視聴者数を力に変えるダンジョン攻略-

亞酩仙介

第一章 万象の収束点

第1話 初配信

 息を吸うたび、肺が凍てつくような気がした。


 目の前にそびえるのは、巨大な亀裂——『ダンジョン』の入口だ。その奥から吹き付ける淀んだ空気は、背後にある瓦礫の街の埃っぽさとは明らかに異質で、生き物の呼気のように湿り気を帯びている。


 リヒトは、その圧倒的な光景を前にごくりと喉を鳴らした。

 16歳の彼にはまだ少し大きい中古のプロテクター。そして、唯一の得物として握りしめたやたらと重い金属の棍棒。それが今の全財産だ。


 スラムの薄暗い路地裏が昨日までの全世界だった彼だが、そこから抜け出してただ「生きる」ために金を稼ぐ。そのための唯一の道が、この亀裂の先にあった。


 ダンジョンを攻略し、その死闘を全世界に配信して富と名声を得る者たち——『ダイバー』。今日この瞬間から、リヒトもその一人になるのだ。


 スラムに残してきたものを思う。いや、そもそも彼には帰る場所も、惜しむような過去もなかった。これは単なる金稼ぎではない。ここで生まれ変わるか、あるいは犬死にするか。その二つしか、道は残されていなかった。


 ゲートの両脇には、アビス・コーポレーションのエンブレムを刻んだ装甲服に身を包んだ警備兵が、微動だにせず立っている。彼らのヘルメットの奥の視線は、ゲートの向こう側なのか、あるいはリヒトたちのようなゴミ屑に等しい存在なのか、判別もつかない。


 リヒトと同じように、ゲートを前にして立ち尽くす新人たちの姿が目に入る。祈るように胸の前で手を組む少女。虚勢を張って仲間と軽口を叩き合う少年。誰もが皆、同じように恐怖を押し殺していた。錆びた武器の匂いと汗の匂いが混じり合い、死と隣り合わせの仕事に挑む直前の、独特の緊張感が広場を支配している。


 威圧感を放つ亀裂を前に躊躇するリヒトたちの横を、静かな足取りで一人のダイバーが通り過ぎていった。


 それはリヒトたちの持つ中古品とは明らかに次元の違う、スポンサーのロゴが鈍く輝く使い込まれた高級装備だった。その人物はリヒトらに一瞥もくれずさっさと横を通り過ぎていき、まるで散歩でもするように滑らかに巨大な亀裂の奥へと吸い込まれていった。


「……おい、見たかよ今の人。迷いゼロだったぞ」


 呆然と見送っていたリヒトの隣で、親友のゼノが感嘆の声を漏らす。


「もしかして、トップランカーなのかな……?」


 自分たちがこれから死地に赴くというのに、あの圧倒的な手練れの風格。住む世界が違うとはまさにこのことだ。


「俺たちも、いつかあんな風になれるかな……」


 ゼノの呟きに、リヒトはどちらともつかない返事をする。ベテランダイバーの風格を見た後では、虚勢を張ることすらできなかった。


「なあ、リヒト。お前、リリックのパーソナリティ、どっちにした?」


 空気を変えるようなゼノの問いかけに、リヒトは意識を引き戻す。


「……女性型、かな」


「だよな! やっぱそっちの方が視聴者ウケいいって話だし」


 カラッと笑うゼノに、リヒトは曖昧に頷く。そんな打算だけでなく、孤独なダンジョンの中で少しでも温かみのある声が聞きたかった、などとは言えなかった。


 ゼノの視線が、亀裂の奥へと向けられる。


「そうそう、視聴者ウケと言えば、良いスキル、もらえるといいな」


「ああ。どうせなら、ウンと派手なやつがいい」


「派手なのが良いのか? 俺はとにかく強い方がいいな……圧倒的な力でモンスターを倒した方が盛り上がると思うけど……それに、怖いし」


「強さも必要だけど、配信じゃ派手な方が視聴者が増えるだろ?視聴者が増えてトップランカーになれば、とんでもないEC(エーテルコイン)がリワードで貰えるって話じゃないか」


 強がりだと、リヒトは自分でも分かっていた。しかし恐怖に呑まれたら、スラムで飢えていた頃と同じだ。


「まあな……。俺も、もうECが30も残ってないし」


 ゼノの言葉に、リヒトは少しむっとした顔で返す。


「昨日お前にソイルを奢ってやったからな」


「うるせえ。生きて帰ったら、もっといいモンで返してやるさ!」


 憎まれ口を叩きながらも、その言葉が互いの生存を祈る約束になっていることに二人は気づいていた。


「本当に、武器もオービターもタダでよかったよな。自分で揃えろって言われたら、一生ダイバーになんてなれなかったわ」


「だね。中古だけど。……初日の目標は視聴者10人、だってね。そしたら有望株だし、一日のリワードで一ヶ月は暮らせるって」


「……そんなに来てくれるかな。ま、やるしかないか」


 ゼノからも弱音がこぼれる。さっき見たランカーの姿が、自分たちのちっぽけさを際立たせていた。


「……じゃあ、俺は先に行くわ」


 互いの沈黙を破ったのはゼノだった。彼はリヒトの肩を強く叩く。


「また生きて会おうぜ」


 それはこの街で交わされる、最高の友情の証であり、最悪の別れの言葉だった。


 ゼノの背中が亀裂の奥の暗闇へと消えていく。残されたリヒトは再び一人になった。いや、違う。傍らには白いドローンが静かに浮遊している。孤独なダンジョン内での唯一の相棒であり、命綱。


「……よし」


 最後の覚悟を決めて小さく呟き、リヒトはオービターの配信スイッチに触れた。


『――配信を開始します』


 かすかに電子音が混じる流暢な女性の声と共に、彼の人生を懸けた最初のショーが幕を開けた。


 ◇


 一歩足を踏み入れた瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。ゼリーの中を進むような奇妙な圧力が肌を撫で、数歩進んで振り返れば、今しがた潜ってきたはずの入口が水槽の中から地上を眺めるように不確かに揺めいていた。


 空気の味が違う。スラムの埃っぽく錆びついた匂いとは違う、湿った土と、嗅いだことのない甘い腐臭、そして微かな金属臭が混じった空気が肺を満たす。自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえる、不気味な静寂。


「!? どこだ、ゼノ!」


 思わず叫ぶが、声は壁に吸い込まれるように響かず、返事もない。直前に入ったはずの親友の姿は、どこにも見当たらなかった。スラムのスクリーンで流れる『オフィシャル・キャスト』は、トップダイバーの華々しい戦闘シーンを切り取ったものばかり。ダンジョンに入った直後がどうなっているかなんて、リヒトは一度も見たことがなかった。


『リヒト』


 オービターに搭載されたアシスタントAI、リリックの声が、混乱するリヒトの思考に割り込む。


『アビス・スフィアの浅層は、侵入したダイバーごとに個別の空間位相を割り当てます。ゲート通過時に観測される高エネルギー反応が、侵入者ごとに一時的な次元断層を形成するためです。同一座標に複数の存在が重複できない、本領域の物理法則とお考えください』


「つまり……?」


 リリックの淡々とした解説はリヒトの理解力を遥かに超えている。何となく、これは普通で問題ないのだというニュアンスを汲み取るだけで精一杯だ。


「まあ、大丈夫なんだよね?」


 リヒトは考えることを放棄し、目の前に続く一本道を進んだ。ここは『誓いの路』と呼ばれているらしい。だが、それは単なる静かな洞窟ではなかった。壁の至る所に、爪か何かで引っ掻いたような無数の痕跡が刻まれている。先人たちの名前。家族の名前。『必ず帰る』という悲痛な願い。『ここから先は地獄だ』という絶望の警告。リヒトは、壁に彫られた『妹エリーのために』という文字を、そっと指でなぞった。この文字を刻んだ男は、果たしてエリーの元へ帰れたのだろうか。


 道の隅に、錆びついたマチェットが落ちていた。恐怖に負けて逃げ帰った者の残骸だろうか。ここは、ダイバーとしての覚悟を固めるための道などではない。数え切れないほどの希望と絶望を飲み込んできた、巨大な墓標の参道だった。


『リヒト。コメントが一件、届いています。読み上げますか』


 オービターからのリリックの問いかけに、リヒトははっと我に返る。そうだ、もう配信は始まっている。今日が初日で、まだ何もしていない自分に視聴者がいるという事実に、驚きと少しの喜びが胸をよぎった。


「いや、大丈夫……自分で見る」


 意識を集中させると、視界の隅に半透明で表示されていたA.R.I.S.(アリス)のウィンドウが、くっきりと輪郭を結ぶ。


 ・死なない程度に新人がんばれー


 たった一行。それでも、見ず知らずの誰かが自分を見ているという事実に、リヒトの心臓は大きく脈打った。いつの間にか、視聴者数は5人に増えていた。ケルカ、暇人、プロメテウス、神、リッチマン……この5人が、自分の最初の観客だ。


「は、はい!頑張ります!」


 思わず声に出して応えてしまう。この応援一つ、視聴者一人一人が、自分の稼ぎ——『リワード』に直結し、今後の生活に繋がる大事な収入源なのだ。


 不意に、道が二つに分かれていた。右は洞窟の岩肌が青白い燐光でぼんやりと照らされ、奥から微かに美しい歌声のようなものが聞こえる脇道。左は、全ての光を吸い込むような、完全な闇の道。

 リヒトが立ち止まった瞬間、視界の端のウィンドウが激しく明滅を始める。


 ・右。右だって。光が見えてるだろ

 ・歌声はセイレーンのものだぞ。気をつけろ~

 ・『恐怖の先を見据えよ、若者よ』

 ・↑出たw P様w

 ・第一声。同じことしか言わないbotのプロメテウス

 ・他も2割はbotだろ


 無秩序な意見で溢れるコメントが、リヒトの思考をかき乱す。これが、視聴者の意見にリアルタイムで晒されながら進むということ。一体、誰を信じればいい?

 プロメテウス、という名前には見覚えがあった。オフィシャル・キャストに神出鬼没に現れては、課金を伴うコメント『ハイライト・アプローズ (Highlight Applause)』、通称ハイアプでダイバーたちに的確な助言を与える謎の人物だ。おそらく、スラムの住人でさえ彼の名を見たことない者はいない。ただ、今回はハイアプではないようだが。


「恐怖の、先……」


 リヒトは覚悟を決め光に背を向けた。完全な闇が支配する左の道へと足を踏み入れる。しかし1分も歩くと道は再び合流し、結局は同じ一本道に戻っていた。ただ視聴者に遊ばれるためだけにある分岐のように思えてくる。


 そのまま少し進むとやがて道が開け、やや広くなった空洞の中心に鎮座する巨大な黒い丸岩——『同調石』が姿を現す。

 その表面は磨き上げられた黒曜石のように滑らかで、周囲の僅かな光すら吸い込んで、絶対的な『無』として存在していた。岩からは、耳には聞こえない低い振動が発せられているような気配がする。

 ダイバーに一度だけ与えられる、人知を超えた能力『スキル』。あれに手を触れるだけで、自分も特別な力を手に入れられるのだという。


(1位の『絶対王権』とか、シリウスの『王の財宝庫』みたいなのがいいな……俺は、あんな風になれるだろうか?)


 スラムのスクリーンで見た英雄たちの姿が脳裏をよぎる。同時に、親友の顔が浮かんだ。


(ゼノは、どんなスキルを手に入れたんだろう。無事だろうか……)


 期待と、もしつまらないスキルだったらどうしようという不安が胸の中で渦巻く。リヒトはごくりと唾を飲み込み、逡巡した。その一瞬の迷いを、視聴者は見逃してはくれない。


 ・ねーまだー?

 ・おー早くしろー。もう飽きてきたぞ

 ・面白スキル期待~


 矢継ぎ早に表示されるコメントに、リヒトの顔が熱くなる。街で見ていたクリーンな応援とは違う、もっと生々しく、遠慮のない言葉のナイフ。視界のウィンドウがまるで生き物のように明滅を繰り返し、思考を遮る。これがフィルターのない『リアルタイム・フィード』の現実だった。


「ご、ごめ なさい!やります!」


 半ばパニックになりながら、リヒトは叫んだ。


「で、では!スキル、お願いします!!」


 深呼吸も忘れ、勢いよく黒い岩に両手を叩きつける。

 その瞬間、脳が焼き切れるような衝撃と共に、膨大な何かのイメージが精神になだれ込んできた。

 コメントがいくつか流れるが、思考を割く余裕はない。様々な絵の具で脳内が塗り潰されていくような感覚と、鉄錆の匂いが鼻をつき、無数の嘲笑が頭蓋に直接響くような幻聴が襲う。なにか恐ろしく巨大なものが魂の奥底まで覗き込み、自分という存在を値踏みしているような気持ち悪さに、リヒトは膝から崩れ落ちそうになる。


「う……あああああっ!」


 だが、苦痛は一瞬だった。岩に当てた手のひらがほんのりと温かくなる。

 じわり、と手を当てた岩肌から燐光が生まれ、それはまるで生き物のように真っ黒な表面を駆け巡り、やがて意味を持つ文字の形を成した。


 ――我は万象の集束点(ネクサス・セオリア)――


「……我は、万象の……?」


 これがスキルなのだろうか。意味を理解できず、呆然と呟くリヒトをよそに、コメント欄は一気に加速していく。


 ・おーユニークスキルじゃん

 ・厨二病すぎるw

 ・名前だけのカススキルに1票


 その時、リヒトは自らの身体に起きたもう一つの変化に気づく。魂の奥から熱い力が湧き上がり、血管を駆け巡って全身を作り変えていくような、痛みを伴う歓喜。骨が軋み、筋肉が一度分解され、より強靭に再構築されていく感覚。今までずしりと腕に重かった金属の棍棒が、まるで木の枝のように軽く感じられた。

 これがスキルと同時に取得できるという『アビスの加護』。ダンジョン内限定ではあるが、超人的な動きで視聴者を沸かすため、そして恐ろしいモンスターと戦うための、重要な能力だ。


「すごい……本当に、体が……軽い……!」


 棍棒を数回、ぶんぶんと振り回す。これなら、戦える。希望が湧き上がったのも束の間、無慈悲なコメントがそれを遮った。


 ・いいから進んでモンスターを倒そうぜ。スキルは使わんとわかんねー

 ・はよはよ


「は、はい! すみません! 行きます!」


 涙目になりながらも、リヒトはコメントに急かされるようにして先を急ぐ。生まれ変わったような身体の感触を確かめる余裕もないまま、彼は道の先に見える新たな空間の歪みへと逃げるように足を踏み入れた。

 この先に待つのが、本物の魔境だとわかっていながら。



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