第3話「氷の皇帝の閨」
皇帝・蒼焔の勅命は絶対だった。
翌朝、鈴蘭は毒見係たちが暮らす薄汚れた長屋を出て、皇帝の住まう宮、麒麟宮(きりんきゅう)へと移ることになった。荷物といっても、着古した数枚の服と、父の形見である古い薬草の覚え書きだけだ。
同僚の女官たちは、遠巻きに彼女を見ているだけだった。嫉妬、羨望、そして憐れみ。様々な感情が渦巻く視線を感じながら、鈴蘭は黙って頭を下げ、その場を後にした。
麒麟宮は、鈴蘭がこれまで暮らしてきた後宮のどの建物よりも壮麗で、静寂に包まれていた。磨き上げられた黒檀の床は鏡のように彼女の不安げな顔を映し、壁にかけられた水墨画の山々は、まるで生きているかのように荘厳な空気を放っている。
案内されたのは、皇帝の寝室の隣にある小さな侍女の部屋だった。簡素ではあるが清潔で、窓からは手入れの行き届いた庭が見えた。
「ここで陛下のお世話をしていただきます。くれぐれも、粗相のないように」
先輩の女官長にそう言い渡され、鈴蘭は深々と頭を下げた。側仕えといっても、具体的に何をすればいいのか分からない。ただ、毒殺未遂事件の犯人捜しに貢献したとはいえ、罪人の娘である自分が皇帝の側にいることを、快く思わない者も多いだろう。
息を潜めるようにして、一日を過ごした。
その夜、初めて皇帝の閨(ねや)へと足を踏み入れた。
昼間とは違い、最低限の灯りしか灯されていない広大な寝室は、まるで深海の底のように静まり返っている。中央に置かれた巨大な寝台の周りには薄い紗の帳が下ろされ、その向こうに微かに蒼焔の寝姿が見える。
鈴蘭の役目は、彼が眠っている間、不寝番をすることだった。
(眠っておられる……)
鈴蘭は、物音を立てないように慎重に部屋の隅に置かれた椅子に腰掛けた。
こうして間近で見る蒼焔の寝顔は、昼間の冷徹な皇帝の顔とは少し違って見える。眉間には深いしわが刻まれ、どこか苦しげな表情を浮かべていた。安らかとは言い難い眠りだった。
噂では、皇帝は長年、不眠に悩まされているという。激しい権力争いを勝ち抜き、常に命を狙われる立場にある彼の心が、休まる時などないのかもしれない。
鈴蘭は、ふと、部屋に漂う香りに気づいた。安眠を誘うための香が焚かれているのだろう。だが、その香りはどこかちぐはぐだった。白檀(びゃくだん)の落ち着いた香りに、気分を高揚させるはずの茉莉花(まつりか)の香りが混じっている。これでは、心を落ち着かせるどころか、かえって神経を苛立たせてしまうだろう。
(これでは、眠れるはずがない……)
調合した者の知識不足か、あるいは意図的なものか。後宮では、目に見えない毒が常に渦巻いている。香もまた、使い方を間違えれば、人を害する毒になり得るのだ。
夜が更け、鈴蘭の意識が朦朧とし始めた頃、帳の向こうで蒼焔が身じろぎするのが見えた。魘されているのか、時折、苦しげな呻き声が漏れる。鈴蘭は、どうすることもできず、ただじっと彼の姿を見守っていた。
明け方近く、蒼焔がふと目を覚ました。帳の隙間から、彼の鋭い視線が鈴蘭を捉える。
「……そこにいるのは、鈴蘭か」
「は、はい。お目覚めでしょうか」
「いつからそこに」
「昨夜、お休みになられてから、ずっと……」
蒼焔は、ゆっくりと体を起こした。寝起きだというのに、その眼光は少しも衰えていない。
「そうか。……また、夢を見た」
彼は誰に言うでもなく、ぽつりとつぶやいた。その声には、日中の彼からは想像もできないような、かすかな弱さが滲んでいた。
「血の夢だ。俺が殺してきた者たちの……」
鈴蘭は、何と答えていいか分からず、ただ黙って彼の言葉を聞いていた。玉座に至るまでに、彼がどれほどの血を流してきたのか、想像もつかない。冷酷皇帝という仮面の下に隠された、生身の人間の苦悩が、垣間見えた気がした。
「下がっていい。朝餉の支度をさせろ」
しかし、次の瞬間には、彼はいつもの冷たい皇帝の顔に戻っていた。
鈴蘭は、慌てて立ち上がり、深々と一礼して部屋を辞した。
その日から、鈴蘭の側仕えとしての日々が始まった。
蒼焔は、鈴蘭に難しい仕事をさせるわけではなかった。ただ、彼が書を読むときには隣で墨をすり、食事の時にはそばに控えさせ、そして夜には閨の隅で不寝番をさせた。彼は鈴蘭にほとんど話しかけなかったが、その視線は常に彼女の存在を捉えているようだった。
鈴蘭は、夜の不寝番のたびに、蒼焔の苦しげな眠りと、ちぐはぐな香のことが気になっていた。このままでは、陛下の心身がすり減ってしまう。
(私に、何かできることはないだろうか……)
父の知識が、ここでも役立つかもしれない。
鈴蘭は、後宮の薬師に事情を話し、特別な許可を得て、いくつかの薬草を分けてもらった。安眠効果のある甘松(かんしょう)、心を落ち着かせる効果のある迷迭香(めいてつこう)、そして、悪夢を払うと言い伝えのある薰衣草(くんいそう)。
その夜、鈴蘭は蒼焔の寝室に入ると、いつもの香炉の代わりに、自分が調合した小さな匂い袋をそっと置いた。それは、父が母のために作っていたものと同じ、優しい香りだった。
「何を置いた」
寝台の向こうから、蒼焔の声がした。眠っていると思っていた彼は、起きていたらしい。
「恐れながら、陛下。安眠に良いとされる薬草を、少しだけ……。もし、お気に召さなければ、すぐに下げさせます」
鈴蘭は、罰せられることを覚悟して言った。皇帝の寝室で、許可なく私物を置くなど、本来なら許されることではない。
しばらくの沈黙の後、蒼焔の静かな声が響いた。
「……いや、いい。そのままにしておけ」
その声には、驚いたことに、拒絶の色はなかった。
鈴蘭がいつものように椅子に座って夜を明かすと、その日の明け方、帳の向こうから聞こえてきたのは、これまでとは違う、穏やかで深い寝息だった。
鈴蘭は、その音を聞きながら、知らず知らずのうちに、自分の口元が少しだけほころんでいることに気づいた。
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