第20話 京路の模様
昼の陽が町家の瓦に反射し、細い路地を白く照らしていた。
河合が先に立ち、軽く手を挙げて角を示す。
その指先に従い、三人は京の通りを折れていく。
花街。
暖簾をくぐると、白粉の顔が帳簿を覗き込み、
「津のお侍はん筋かいな」と笑った。
澄弥が丁寧に問い、芸妓は思い出すように金の流れをたどっていく。
その横で河合が「こんな高いもんじゃねぇよ」と口を挟み、
芸妓に「生意気やなぁ」と扇子で軽くあしらわれた。
時雨は静かに会釈するだけで、
その簡潔さが、かえって場を和ませた。
次の角。
河合が黙って袖の端を引き、米屋の店先へ導く。
帳面を見た老主人が「あぁ、これは祭礼の支度銀でな」と語り、
澄弥が「いつ頃お支払いを?」と尋ねると、
主人は迷わず棚奥の控えを指し示した。
澄弥は数字を確かめ、時雨が横で帳簿を軽く押さえる。
その整った動きに、主人が「よぉできたお三方や」と苦笑した。
通りの先。
河合が「こっちや」と顎で示した小路には、
神社の鳥居が赤く立っていた。
祭の準備で人の出入りが多く、
巫女が行き交う中、澄弥は帳の名を尋ね、
手拭いを持った若い衆が「ああ、灯籠の賄いや」と答える。
河合が「ここは毎年遅れん」と補足し、
時雨は鳥居の白い砂利を静かに踏みしめていた。
再び通りへ戻る。
風が熱を含みはじめ、暖簾の影がゆるく揺れていた。
そうして三人は、
ひとつ店を抜け、
ひとつ路地を跨ぎ、
帳簿の線をひとつずつ確かめていった。
やがて道の端を抜けたところで、香ばしい匂いが流れてきた。
河合が立ち止まり、振り返る。
「……ここ、ええ匂いやろ」
通り角の屋台から、焼けた醤油の香りが高く立ちのぼっていた。河合の唐突な言葉に、澄弥が首を傾げる。
「?」
「……ガキの頃から来てたんだよ。祭りのときは特に、な」
屋台の親父が顔を上げる。
「三つでええか?」
「三つ頼む」
河合がうなずく。
「焦げてても中が柔らかい。昔から変わらん味や」
団子が炙られる音が、ひととき風より涼しかった。
澄弥は河合に軽く頭を下げてから、二本の串を受け取る。
村瀬と目を合わせ、その一本を手渡した。
残った串を手の中で転がし、何気なく玉に指を滑らせる。
「……二、三、四」
「おい、数えてどうすんだよ」
河合が呆れたように言う。
「癖なんです。気づくと、全部数にしてしまって」
「全部?」
「はい。団子の数も、客の数も、値段も、隣の間口も」
「……おいおい、怖ぇなそれ」
「私にとっては、数は模様みたいなものなんです」
澄弥が串を少し傾け、団子を骨董のように眺め回す。
「……模様ねぇ」
河合は団子をかじりながら眉をひそめる。
「丸いの四つ並んでるだけだろ。どこに模様があんだよ」
澄弥はふと、店先の香りを吸い込んだ。
「では──河合どの。この匂い、何色に感じます?」
「色?」
「ええ。ほら、焦げた醤油の匂い。
あなたは、どんな色に思われます?」
河合は団子と囲炉裏を交互に見て、鼻を鳴らす。
「……黒。焦げ茶……いや、ちょっと金色混じりか」
澄弥の目がやわらかく細くなる。
「ほら。お分かりじゃないですか」
「は?」
澄弥は小さく微笑んだ。
「匂いに色がつくなら、逆に“色”を見たときに
匂いがふっと思い出されること、ありませんか?」
河合は目をそらし、縁台の端を団子の串でこつ、こつと突いた。
「……まぁ……なくもねぇよ。
焦げ茶見たら団子の匂いが浮かぶ、くらいは」
澄弥は軽く頷いた。
「数も同じです。
周りを見ると、形や色みたいな“並び”が返ってくる。
その並びから、数の気配が、自然と立ち上がってくるんです」
河合は団子の串を握り直し、顔をしかめた。
「……やっぱ変だろ、お前」
澄弥は首を横に振り、やわらかく笑った。
「いえ、私だけではありませんよ。
匂いに“色”をつけたのは、さっきの河合どのです」
河合は言葉を失い、眉を寄せる。
「……おい、なんだよそれ……
まるで俺までお前みたいだって言いてぇのか?」
澄弥は少し首を傾け、やわらかく笑った。
「“五十歩百歩”とも申しますし……
私と河合どのの違いなど、歩幅ひとつ分ですよ」
河合の目が見開く。
「ふざけんな! 百歩はあるわ!」
「……いただきますね」
澄弥はその言葉をふわりと受け流し、
団子をひとつ口へ運んだ。
串を軽く揺らしながら言う。
「例えが悪いなら、“類は友を呼ぶ”にしましょうか」
「もっと悪りぃ!!」
横で時雨が静かに頷く。
河合がすぐ振り返った。
「頷くんじゃねぇ! お前は模様どころか何考えてんのか分かんねぇんだよ!」
時雨は無言で、もう一度だけ頷いた。
澄弥は吹き出しそうになり、団子を頬張りながら肩を震わせた。
「……変な三人ですね」
「おいおい! いつのまに俺まで入ってんだよ」
風鈴がちりんと鳴り、
焼けた醤油の香りが、夏の風にゆるやかに溶けていった。
河合は食べ終えた串を、屋台の隅の桶へぽんと放り込む。
親父が「あいよ」と片手で受け流した。
河合が、丁寧に串を戻した澄弥に言葉を投げる。
「……で、次は?」
澄弥が帳を見下ろす。
「ええと──“丸太町の上がり、伊勢屋・山本家”ですね」
河合が視線を寄せる。
言葉が一拍遅れる。
澄弥は帳面を指で軽く押さえ、静かに言葉を添えた。
「……この“振る舞い銀”の走り先、
河合どののお家筋でしたね?」
動きが止まり、
河合の声がほんの少し硬くなる。
「……ああ、姉貴んとこだ」
「……そうでしたね」
澄弥はわずかに微笑み、時雨の顔を見て静かに頷く。
抱えていた帳簿を脇に抱え直した。
「では、別の筋から確かめましょう。
数は、どこを通っても同じ場所にたどり着きますから」
「……そんな言い方、ずりぃんだよ」
河合が短く吐き出し、目を逸らした。
風が道の端を撫で、暖簾の影が揺れる。
「……ま、どうせ通り道だしな」
河合がぼそりと言い、帯を直した。
「逃げたと思われるのも、性に合わねぇし」
吐き捨てるように言い、道の端に足を向ける。
陽はまだ高い。
だが、京の影は少しずつ形を変えはじめていた。
通りの先に、白い土塀とのれんの影。
人の声が混じる涼やかな空気が流れてくる。
時雨の目が、その先を見据えた。
その横顔に、かすかな光が宿る。
「……行くぞ」
河合が短く言い、歩を進める。
澄弥は帳を閉じ、風に揺れる暖簾を見上げた。
陽はまだ沈まない。
けれど、日差しの底で、
何かがゆっくりと形を変えようとしていた。
――その先に、河合の姉の家があった。
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