第15話 告げぬ声

 ――兄を罰するために、私は呼ばれたのか。


 その考えが浮かんだ瞬間、

 筆を持つ手が、紙の上で止まった。


 村瀬庄三郎――いまの兄を告げられるのは、

 この京都で、澄弥ただひとり。


 けれど、それならなぜ、柴田は黙したままなのか。

 なぜ、榛名はあの場で何も言わなかったのか。

 そして、なぜ彼は、ここにいるのか。


 油皿の火が小さくなり、墨の香が濃くなる。

 志乃の名が胸をよぎる。

 彼女が、何を思ってここにいるのか――それも分からない。


 帳簿を見ても、数はすべて整っている。

 間違いはない。

 けれど、合っているはずの数に理がない。


 兄、志乃、柴田、榛名。

 それぞれが何を抱えてこの場にいるのか、

 澄弥には掴めなかった。


 ――見えぬことが、多すぎる。


 筆先の墨が乾き、紙の繊維を裂いた。

 小さな音が、静寂の底をかすめて消える。


 澄弥は筆を置き、仰向けに倒れた。

 畳が、藺草の香りとともに背を静かに受け止める。


 天井の格子の間を、火の光が淡く流れる。

 その光に、薄い塵が舞っていた。

 一つ、二つ、三つ――

 思わず数を追って、息を整える。


 虫の音が、遠くで鳴きはじめる。

 それが耳に届くころには、胸のざわめきがわずかに遠のいていた。


 ――兄ではない。

 ――けれど、誰かが。


 目を閉じると、あの声が浮かぶ。


 『その流れを殿に告げたのは、どなたなんでしょうな』


 室田のぼやくような声。

 あのときはただの愚痴と思っていた。

 いまは違う。

 それが、糸の端のように思えた。


 澄弥は身を起こし、

 卓の上の帳簿に目をやった。

 火の光を受けて、静かに並んでいる。


 ――もし告げた者がいたのなら。

 誰が、何を告げたのか。


 柴田の下で起きたことなら、京の留守居役である彼自身が処せば済む。

 それを、わざわざ“改め”として立てる理由はない。

 では――あの人自身なのか。

 だが、この件が藩の正式な沙汰ならば、津の国から判事が来るはずだ。

 それもない。


 ならば、柴田より上。

 藩の外、津国そのものにかかわる筋か。


 火皿の油が尽きかけ、灯がかすかに明滅する。

 澄弥の瞳が、その光を追った。


 ――この不自然な役目は、なぜ、わたしが負わされているのか。


 その問いが胸に浮かぶと同時に、

 澄弥は思考に引かれるように立ち上がっていた。


 机の上に並ぶ帳簿へと歩み寄り、

 次々と頁を繰る。


 墨の香が立ちのぼり、

 紙の音が、夜の静けさを細く裂いた。


 何かが、どこかで――繋がっている。

 その確信だけが、指先を導いていた。

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