第12話 残火(ざんか)
藩士たちは三々五々に広間を後にし、
畳に残った熱だけが、まだ息を保っていた。
澄弥はその場に留まっていた。
帳簿を抱えたまま、指先で紙の端を撫でる。
墨の感触がまだ生々しく、胸の奥のざわめきを鎮めてくれなかった。
廊下に出ると、夜風が油の匂いを薄めていた。
志乃と時雨が待っていた。
澄弥は軽く頭を下げ、「ここに残ります」とだけ告げた。
抱えた帳簿の端を、指がそっと押さえる。
紙がわずかに鳴り、灯の影がその手に揺れた。
時雨は動かなかった。
志乃が小さく首を振り、そっとその袖を引く。
ふたりの影が、廊下の灯を横切る。
板の軋みだけが残り、やがて闇の奥へと溶けていった。
夜の匂いが、ゆるやかに屋敷を包む。
外の音も遠のき、時の流れが息をひそめる。
――程なく、藩邸の奥の間に灯が残っていた。
留守居屋敷の奥座敷。
灯はまだ消されず、灯皿の火が細く燃えている。
柴田は卓に肘をつき、手の中の扇を開いては閉じていた。
「……若い声は、よう響くな」
軽く笑ったが、その目は笑っていなかった。
障子の影から榛名が現れる。
「殿のお言葉にも、よく響くものがありました」
「わしのは腹に響く。河合のは胸に響く。――似て非なるものよ」
柴田はそう言い、卓の上の茶碗を指先でゆるりと回した。
「河合はまっすぐで、よく通る。だが……折れるな」
榛名は息を整え、軽く頷く。
「折れる前に、誰かが叩き折るやもしれません」
「ふむ。叩き折る側の言葉じゃな」
柴田の声音に、かすかな笑みが混じる。
榛名は目を伏せた。
「殿は、なぜ彼を放っておかれたのです」
「放っておいたわけではない。痛い目を見るのも勉強じゃ」
「痛みを覚える前に、命を落とすこともあります」
「それでもだ」
柴田は扇を閉じ、“とん”と膝に落とす。
「痛みを知らん者ほど、平気で人を斬る」
榛名は、その言葉の奥に自分への釘を感じた。
だが、口には出さない。
「……殿は優しいのですね」
「そう見えるか」
「そう見えぬところが、優しさです」
柴田はふっと目を細めた。
「おぬしは河合のような若いのを、どう見る」
「まっすぐで眩しいです。……ただ、眩しすぎて、目が焼ける」
「おぬし自身も、そう見えることがあるぞ」
榛名は沈黙した。
「河合の熱は正しい。だが、正しさは人を焼く」
柴田の声が低く落ちる。
「だから、誰かが火の番をせねばならん。
消すでもなく、煽るでもなく、ただ見ておく」
柴田は扇をひとひら動かし、火皿の残り火を見やった。
「滝川のような男が、火を囲うにはちょうどよい。
あいつは熱にも冷たさにも染まらん。……そこが惜しい」
榛名はその言葉に、かすかに眉を動かした。
だが、柴田はそれ以上を語らなかった。
外の風が障子を撫で、炎がわずかに揺れた。
榛名が、ふと声を落とす。
「――もし、河合が道を誤るとすれば」
柴田は短く息を吐いた。
「そのときは、正しい奴が止めればいい」
「正しい奴、ですか」
「……おぬしのことを言っとる」
榛名は微かに笑い、頭を下げた。
「そのときは、殿が笑ってお見送りください」
「笑うさ」
柴田は言いながら、行灯の灯を指でひと撫でした。
炎がかすかに揺れ、音もなく消える。
その静けさの中で、外の囃子がいつのまにか遠のき、
かわりに、夏虫の声が夜気の底を満たしていた。
祇園の熱は静まり、京都の月がゆるやかに姿を現す。
柴田は障子の向こうに目を向けた。
薄雲を透かす月光が、庭の石畳に白く落ちている。
「……まったく、冷たいもんだな」
そう呟き、扇で肩を軽く叩いた。
「火が消えたあとが、本当の夜じゃ」
その声が闇に溶けるころ、
月の光だけが、屋敷の中を照らしていた。
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