第8話 津藩御留守居方御屋敷(つはん ごるすいかた おやしき)

 夜の京都。

 祇園囃子の笛が、三条小川の向こうで霞のように揺れていた。

 黒塀の奥、灯火がひとすじ。

 津藩留守居屋敷つはん・るすい・やしき――京における津の“耳と口”。

 ここで交わされるひとつの言葉が、藩の行く末を決める。


 もとは公家の旧邸。

 幾度も雨を吸った土塀の匂いが回廊にこもり、

 廊下の木目は足跡に磨かれて艶を帯びていた。

 蝋燭の火が風に揺れ、障子の影をわずかに震わせる。

 そのたびに、部屋の空気が一度膨らみ、また静かに沈んだ。


 澄弥は、その中央に座していた。

 呼び出しを受けてから、どれほどの時が経ったのか。

 蝋燭の火がひと筋、溶け落ちるのを見送るたび、

 胸の奥の時間だけが、少しずつ硬くなっていく。


 無意識に、指先が膝の上で動いていた。

 並ぶ藩士の肩――十を超える影。

 帳簿の山、その段。

 灯火の間隔、障子の桟の等分。

 目が捉えるものすべてが“数”へと変わっていく。

 数えたいのではない。

 ただ、そうしていなければ、この静けさに呑まれそうだった。


 その最奥に、扇を手にした男が座している。

 津藩留守居役・柴田主膳しばた・しゅぜん


 五十を少し越えたばかり。

 痩せた体に着物の襟が余り、皺が笑みとともに動く。

 笑っても叱っても、声の高さは変わらない。

 だが、その穏やかさの奥に、誰も触れられぬ深さがあった。


 柴田は扇をゆるりと開き、軽く首を傾ける。

 「――さて、皆。急な呼び出しで済まんな。

  わしもこの歳で夜更かしをすると、腰が痛むんだがね」


 藩士たちの間に、小さな笑いが走った。

 柴田は、そのわずかな緩みを逃さない。


 「だがまぁ……痛む腰で呼んだからには、それなりの理由がある。

  今宵は少し、“数合わせ”をしてもらうとしよう」


 声に棘はない。

 それでも、誰も断るという選択を思いつかなかった。


 蝋燭の火が、ひとつ、揺れた。

 光の数がずれたように見えたのは――気のせいだったのかもしれない。

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