第2話 宝石の知と、小石の言い訳

『そういえば……これ、私……だよね? 私の身体……だよね……?』


 細く華奢で、肌の色も違う。


 袖口を見やれば、そこにあるのは薔薇色のドレスではなく、黒と白を基調とした簡素な布服。



【……あなたの身体……】



 言葉にした瞬間、胸の奥を冷たいものが撫でていった。


 私は浅く息を整える。動揺を悟られるのは好ましくない。



【あなた……ずっと“あなた”では呼びかけるのに困りますので、差し支えなければお名前を教えていただけますか】

 

『えっと……藤崎千尋。……千尋、って呼んでくれたほうが嬉しいかも』


【千尋さん、ですね】


『あ、さん付けはやめて!』


【……千尋さん】


『いや、だからさんはいらないってば!』


【千尋さん】


『もうっ! わかった! 千尋さんでいいよ!』



 私は小さく吐息を洩らし、改めて問いかける。



【では千尋さん、お尋ねします――この場はどこなのです】


『……ここは学校。授業の合間の休み時間だよ』


「……がっこう?」



 思わず口に出してしまった。


 耳慣れぬ響きを舌で転がすたび、異質さが胸に沈む。


 私は周囲を観察した。

 

 規則正しく並ぶ机と椅子。


 同じ年頃に見える若い男女が思い思いに談笑し、歩き回り、薄く小振りな板のようなものを眺めては笑い合っている。


 全員が揃いの服を着ていて、そこに個性は感じられない。



【……これは何の集会なのです】


『集会じゃないって。先生が来て、勉強する場所。だから“学校”』


【勉学の場、ということですか】



 ――つまり、これが“学校”。

 私が知るものとは、似ても似つかない。



【……これほど雑然とした有様が“学校”と呼ばれているのですか。まるで牢に入っていない囚人の群れのようです】


『ちょ、囚人って! やめてよイリス、物騒な例え方! ここはちゃんとした学校だから!』


【……私が存じている“学校”とは、貴族の子女、それも選ばれた少数に学者が知を授け、互いに論を交わし、思考を鍛える場でした。……このような喧騒の中で、いかなる学びが成り立つというのです】


『う、うーん……たしかに騒がしいけどさ。授業が始まれば静かになるし。みんなで一緒に学ぶのが“普通”なんだよ』


【……皆で一緒に、ですか】


──────────────────────


 そのとき、どこからともなく奇妙な音が鳴り響き、周囲の若者たちが一斉に動きを止めた。


 先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返り、皆が一斉に席へと戻っていく。



『うわっ、チャイム鳴った! やば、もう時間! 先生来ちゃう!』



 私は周囲の光景に目を見張った。


 雑然としていた群れが、一瞬で整然とした姿へと変貌する――。


 扉が開き、一人の男が入ってきた。


 周囲の若者たちと違い、彼だけが簡素だが整った服をまとっている。


 その腕には、分厚い本を数冊抱えていた。



『あの人が先生だよ』



 なるほど――だからこそ皆が一斉に席へ戻ったのだ。


 先生は教壇に本を置き、手にした白く短い棒を黒い板に走らせた。


 キイ、と乾いた音がして、白い線がすべっていく。数字と記号が次々と刻まれていく。



【……あれは何をしているのです。魔法陣に見えなくもありませんが】


『あれはチョークっていうもので、黒板に文字や式を書くの。授業では基本の道具なんだよ』


【……チョーク、ですか。黒板とは……あの黒い板のことですね】



 黒板と呼ばれた板には、数字と記号が次々と連なっていく。


 ひとつひとつの記号は読める。言葉としても理解できる。


 だが、それらが組み合わさった途端、意味は霧のように霞んでいった。



【……これは……数の理でしょうか。しかし……私の知るどの学問よりも複雑で、未知の呪文のようです】


『……難しいよね。私もこういうの、ほんとわかんなくて。嫌いなんだよ』


【……なっ!? これほどのものを“わからないから嫌い”で切り捨てるだなんて……! あなたは贅沢すぎて耳が腐ってしまったのですか!? それとも、知を宝石ではなく小石とでも思っているのですか!?】


『ええっ!? 耳は腐ってないし! 小石だなんて思ってないから! ただほんとにわかんないだけなの!』


【……知らぬことを嫌うのではなく、学ぶものでは? あなたの心は鎧より厚い鋼で覆われているのですね】


『ちょっと待って!? それ全然褒めてないよね!?』


【……ご判断はお任せします】


『だ、だいじょうぶ。点さえ取れれば――進級、できるから!』


【……進級? それは何ですか】


『学年がひとつ上がること。テストで点が取れないと落第して、同じ学年をやり直しになるの』


【……ですが、もしその“テスト”に落ちたらどうなるのです】


『えっ? えーと……もう一度同じ学年を、かな』


【……つまり、あなたもまた一生をこの牢……“学校”で過ごす危険があると】


『いやいやいや! そんなホラーな話じゃないから! ちゃんと卒業できるから!』

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