03 階段ですれ違う小さな気配

 朝の踏みしめる音が少しだけ速くなる。登校ラッシュの波に流されるように、俺は階段を上っていた。胸の奥にぽつりと芽生えた好奇心が、昨日見た青い糸の残像と結びついて、妙に落ち着かない。


 踊り場の明かりが一瞬揺れて、誰かとすれ違う気配がした。視線を向けると、紗弥が一歩手前で立ち止まり、ポケットから何かを取り出しているところだった。暗い服の隙間から覗く白い紙片に、細い指先が慎重に触れている。


「おはよう」

「おはようございます」


 挨拶を交わしても、紗弥はすぐに目を逸らす。だが、白い紙は封書のようにも見え、端が少し折れている。彼女の動きはいつになくぎこちなく、胸がざわつく。


「それ、また展示のこと?」

「はい……でも、今日は少し違うんです」


 ぽつりと零れた言葉に、俺は足を止める。違う、とはどういう意味だろう。封書を抱えた彼女の表情に朝の光が差して、まるで人形の瞳が潤んだように見えた。


 その瞬間、階段の踊り場に小さな影が落ちた。隣のクラスの男子が慌てた様子で駆け上がり、紗弥の前で足を止める。彼の手には先ほどの封書と同じような白い紙が一枚あった。


「ごめん、これ、落としたの見つけて」

「え……あ、ありがとうございます」


 受け取るとき、紗弥の指先が微かに震える。二人のやり取りは短く、言葉にならない何かが階段に残る。俺は胸に収めた糸の先を触れて、無意味に安心しようとした。


 すれ違いざま、男子の笑顔がどこか羨ましくて、俺は自分の矮小さを自覚する。けれど同時に、目の前にいる彼女の秘密が少しずつ日常へ溶け込んでいく感覚があった。


 教室に着いても、視界の片隅が何となくざわつく。ノートを開く手がやけに重く、授業の声が遠く感じた。机の上に置いたポケットの中の糸を指で撫でると、あの朝の冷たい感触が戻ってくる。


 昼休み、古本屋で見つけた小さな地図の話を友達から聞かれるが、俺はうわの空で返事を濁した。心の中で、今日紗弥が抱えていた封書の中身を幾度も想像する。手紙なのか、招待状なのか、それとも別の何かなのか。


 窓の外を眺めると、校庭の桜の枝に小さな鳥が一羽止まっていて、軽く羽を震わせた。景色はいつもどおりなのに、俺の世界だけが少し色づいているようだった。


 放課後にでも、さりげなく手伝いを申し出ようか。そんな考えがふと頭をよぎる。だが、声にすると彼女の秘密を侵す気がして躊躇する自分もいる。結局、俺は今日もただの隣人のまま終わるのかもしれない。


 休み時間が終わり、教室に再び静寂が戻る。窓の外の風がカーテンを揺らし、紙片の匂いをかすかに思い出させる。糸を撫でる指先が、次第に小さな決意へと変わっていった。


 俺はノートの余白に小さな丸印をつける。それは次に紗弥に会ったら自然に話しかけるための合図だ。合図なんて必要ないのに、なぜか用意してしまう自分を可笑しく思いながら、俺は息を吐いた。


 放課後、階段の踊り場でまた会えますように、と心の中で静かに願った。


 チャイムが放課後を告げると同時に、教室のざわめきが一斉に弾けた。椅子を引く音や鞄のファスナーの開閉が重なり合い、いつもの帰り支度の喧騒が広がる。俺はゆっくりとノートを閉じて、机の端を指で叩いた。小さな合図を残した余白が、妙に心を落ち着かせる。


 帰り道に同じ階段を使えば、きっとまた会える。そう思うだけで、胸の奥が落ち着かなくなっていた。


 廊下に出ると、夕方の光が窓の隙間から差し込み、床に細長い影をつくっている。階段の方へ足を向けると、前方に小柄な背中が見えた。紗弥だ。今日も膝に小さな箱を抱えて、踊り場で立ち止まっている。


「こんばんは」


 声をかけると、彼女は少し肩を揺らして振り返った。


「相原さん……こんばんは」


 箱の上に置かれた白い封筒が、光に反射して薄く輝いている。俺の視線に気づいたのか、彼女は箱を抱え直し、恥ずかしそうに微笑んだ。


「それ……展示の準備ですか?」

「ええ。でも、これは……少し違うんです」


 彼女は封筒をそっと持ち上げ、言葉を選ぶように間を置いた。


「……知り合いに渡す予定のものです。ずっと前から、ちゃんと渡さないとって思っ

ていたのに、なかなか勇気が出なくて」


 そう言って視線を落とす姿は、いつもの静かな彼女とは違い、脆さを帯びて見えた。


「勇気がいるんですね」


 俺の言葉に、紗弥はかすかに頷く。


「……もし、相原さんだったら。どうやって渡しますか?」


 思わぬ問いに息を呑んだ。俺だったら――。そんなことを想像したこともない。けれど、彼女の瞳は真剣で、軽い冗談で返すことなどできなかった。


「……正直に言うと思います。下手でも、相手に伝わればそれでいいから」


 答えながら、胸の奥が不思議に熱くなった。まるで自分がその手紙を受け取る側になったような錯覚を覚えたのだ。


「そう……ですよね」


 紗弥は小さく微笑み、封筒を箱に戻した。


「ありがとうございます。少し、勇気をもらえました」


 その表情は穏やかで、雨の日に見せた笑顔と重なる。


 階段を降りる途中、彼女の足取りは少し軽くなっているように見えた。俺は一歩下

からその背中を追いながら、心の奥に決意が芽生えるのを感じた。


 彼女の秘密を知りたい。だけど、それ以上に――彼女が抱えるものを守りたい。


 夕暮れの校門を出る頃、風が吹き抜けて、俺のポケットの中の青い糸を揺らした。まるで「ここから始まる」と告げるように。


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【あとがき】

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