金沢絵描きごはん

花野 りり

一章 始まりは金沢。幸せのハントンライス① 

大きな斜めになった太く力強い赤い木のような板が重なり合っている。太鼓の紐と本体のようなしっかりとした土台。そして、屋根のような四角の穴の塊。屋根と柱を繋ぐ箇所は太く大きく、なんだかすごく小洒落ている、加賀百万石のセンスの良さを感じさせる。


 パーツのどれもが和風で素敵で、雄大でなんとも言えない美しさ。一本一本が太くて、漆食器のように美しい。確かライトアップもされることもあるらしい。なんか色も色々あったはずだ。加賀五彩とかなんかだったはず。ぜひ、一度は見てみたいと思う。それが鼓門。スケッチする手が止まらない。


 二つの太鼓を柱のようにして板を乗せて豪快に門にしたような、迫力満点の鼓門は、なんだか見ているとゾワゾワするようで思わず筆を走らせたくなる。実は能楽が関係しているとか、そんな噂も聞いた事があって、なんとなく納得する。その大きさは圧巻で、サイズはわからないけど通りゆく人が物凄く小さく見える。


 見上げる形になりながら、私はスケッチに夢中になっていた。すると、何か騒がしい。


 まあ、そんなどうでもいい事は気にするほどではない。それより目の前の鼓門だ。早くしないと絵の具が乾いてムラができてしまう。ソレも味かもしれないけれど。私は白いシャツが汚れるのを無視して絵を描いていた。デニムは地面に擦り付けて、もう誰にどう見られようが気にならない。それが、私が絵を描くときのいつものスタイル。


「ねぇねぇ、玉城でしょー。あたし雑誌いつも見ているんだよねぇ」

「応援しているよーだから一緒にどこか行こうよぉ」


 なんだ。積極的な女の子達だな。甘えるように声を跳ね上げて、媚びるように顔をすりつけるように男の子にくっついていく。くっつかれようとされた男の子は鳥肌を立てるように吐きそうな顔をして嫌がって仰反る。


「やめ、ろ」


 本気で困った様子の嫌そうな男の子。なんか女の子自体が苦手なのかな? 声も震えているし、苦しそう。それに対して女の子達は喧しい。


「こっちはファンなんだから、サービスしてもいいじゃん」

「そうそう。写真撮っていい?」


 あ。私の赤くて広々とした今から描かれるはずの世界が。門の前に女の子たちが入ってきて赤い柱も屋根も見えなくなった。私が描こうとしていた場所に女の子達が割って入ってきた。これは無理だ。私は静かに立ち上がる。


「ちょっと、邪魔なんだけど」


 化粧が濃くてヒールが高いギラギラした靴を履いた女の子達が私を見下ろす。鼻につく香水か化粧品かはわからないけど、いくつもの化学的な匂いが混ざり合って正直臭い。


「何このブス! 芋女じゃん!」

「ちっちゃ! すっぴん! ダッサ!」

「絵なんか描いてるぅ。金沢駅で!」

「玉城ぃ、見てぇ。ダサくない?」


 大笑いしながら女の子達は玉城と言われる、背の高い、ベージュに全体的に近い色素の薄い髪の、深緑を基調とした着物の男の子を見た。どこか外国の血でも入っているように見える。


 切れ長だけど吊り目気味の睫毛の長い涼しげな瞳。薄い唇に白い肌、長身でスタイルのいい身体。いかにもモデルという感じ。


 玉城と呼ばれた男の子はすごく冷たい目で彼女達を見た。そして虫ケラを見る様に、心底軽蔑する様に吐き捨てるように言った。


「お前らのほうが声でかいし知らない人を罵ってダサい。撮影の邪魔だ。金沢の美しい風景を汚すな。この珍獣」

「えー、うちら玉城のSNSの宣伝を見てきてあげた観光客だよぉ」


  自分達はもてなされる側だと言わんばかりにふんぞりかえる女の子達。側から見ても、傲慢すぎて嫌気がする。ああいう人が必要以上のクレームを出す客になるんだろう。そう思うと私は怒りさえもわかなかった。


「感謝してくれてもいいんじゃないの?」


 ネチャネチャに噛んでいる最中の甘ったるいチューイングキャンディのようにべっとりと媚びる女の子達は私の描こうとする絵の邪魔でもあった。


「お前らふたりが来なくても、金沢には客が沢山来る」

「えー」

「酷い」


 まるで雄叫びを上げるように女の子は言うけれど、無理にどかせばもっと大騒ぎになりそうで、玉城と呼ばれた男の子は困っているようだ。他の撮影スタッフらしき人々も、同じく。彼らは業界人だろうから、何かすればネットで拡散されそうだし。

 そこで私は思いついた。


「あっ、ごめんなさい」

「きゃっ」


 私はわざとじゃないふりをして、バケツの水を玉城にかけた。女の子の方にかけると文句言われそうだし、高そうな着物だけど、仕方がなく彼に。


「ごめんなさい、着替えないとシミになるから、スタッフさん、一旦撤収しませんか」


 我ながらわざとらしい、とは思った。


「あ。はい。そうですね。玉城君」


 スタッフさんは察して玉城に目配せをする。


「ああ。お前もついて来い」


 空気を読んだ玉城も従う。


「片付けは」


 急に絵のことが心配になる私。

 あのままじゃ誰か色んなものが蹴っちゃうし、迷惑じゃ。


「爺。頼む」


 え? 誰?爺?


「はい」


 いきなり白髪に燕尾服の可愛らしい雰囲気の上品なおじいさんが現れて、私の画材達を丁寧に素早く片付け始める。それを見ている間に、私は大きな黒いワゴン車に乗せられた。中にはクーラーボックスがあったり、いかにも芸能人仕様だった。私に、玉城が加賀棒茶と書かれたペットボトルを渡してくれる。どこまでも玉城は石川県が好きなようだ。


「助かった。本当に助かった。あのまま騒ぎになっていたら色々面倒な事になっていた。が、この着物……」


 苦笑いするスタッフ。あ、しまった、着物だし高いよね。


「ああああ!? すみません、絶対この着物って高額ですよね。弁償します。どうにかします、許してください、玉城さん」

「そんなのどうでもいい。これぐらいなら、家に沢山ある」


 いくらするんだろうか。着物は布の質が良さそうなのは素人目でもわかる。それが沢山あるって、どんなお金持ちなのだろうか。


「えっと、お前。……名前」


 少し困ったように私を見て何かを考えるように私を見る。なんか心なし、彼の耳が赤い気がする。


「桃井咲良です。二十六。呼び捨てでいいです」

「じゃあ、咲良。……やっぱり、俺は前田玉城、二十歳。久しぶりだな」


 ボソリと玉城は一瞬、パッと花が咲くように嬉しそうに、懐かしげに言った。そしてハッとした顔をして首を振り俯く。


「え?」


 私達、どこかで会っただろうか。

 もしかして、あの子だろうか、と正直思う子はいる。でも、さすがにない。すごい似てはいるけれど、そんな都合のいいことあるわけがない。記憶ないけど私あまり人の顔に興味ないから……よく弟は美形と言われるけど、それすらよくわからない。顔なんか、見分けられればいいと思うし。


「いや、なんでもない。咲良。って、クシュ」


 もちろん三月だから、まだ少し肌寒い。雪もまばらに降っているし当然だろう。


「とりあえず、着替えて」

「いや、その」


 何か言いたげな玉城。目が泳いで、どこか頼りなげに視線を逸らす。


「後ろ向いているから」


 私は玉城に接近する。なのに、逃げ惑う玉城。何故。それを見てスタッフが目を逸らす。なんだか変な雰囲気。


「お前も着替えろ! 全部透けている!」

「え!」

「誰か! 何か咲良に服を!」


 私が少し恥じらいながら後ろを向いて黒いTシャツを借りている間に、玉城は別の紺色の着物に着替えた。予備も着物なのか。着慣れている感じがする。まるでTシャツを着るかのように自然に、彼は着物を着て私を見ている。


「着替えました。ありがとうございます」

「お前本当人の目気にしなさすぎだろ」


 はあ、と玉城のため息が聞こえる。耳が少し赤い気がする。ほっぺたも桃色だ。私も少し照れている。今日、どんなブラジャーだっけ……考えないでおこう。


「それより、咲良。お前はなんであんなとこで絵を描いていたんだ」

「そこに綺麗なものがあったから」

「まあ、それに異論はないが。金沢駅周辺は見るものが多い。咲良が描いていた鼓門以外にも米林雄一氏の作品「微宇音・微宙オン・微界音」だとか、キャッチーで可愛いやかんのオブジェもある。何より、買い物スポットも多い。一ヶ所で色々なものがまとめて買えるぞ」


 凄い饒舌だ。普段は淡々としているのに物凄いマシンガンになって大人びた印象が一気に消え失せる。まるで玉城が年相応どころか、かなり幼い子供のように見える。


「まるで金沢の宣伝部長見たいね」


 目をキラキラさせて、子供みたい。後で見てみようかな、と思うぐらいの熱意を込めて語るから、本気で好きなんだなと伝わる。


「俺はそのつもりだ、せっかく金沢に生まれ、モデルになれるようなルックスに生まれて、注目を浴びたんだ。できるだけ金沢を宣伝したいと思うのは普通だろう」

「坊っちゃまは金沢が大好きなんですよ。それはもう、ウザいぐらいに」

「爺」

「あ、さっきの方。画材の整理ありがとうございました」


 さっきのお爺さんが画材を持ってワゴンにやってくる。


「顔彩使ってでも、どうしても金沢の風景を描きたくて」

「なんだそれは」


 玉木が首を傾げる。ああ。普通の人は知らないのか。


「固形水彩みたいなものです。和風な水彩絵の具って感じの画材」

「通行人の多いところはやめとけ。写真を撮るとか工夫しろ」


 腕を組んで呆れ顔の玉城。確かに言えている。あそこはまさに金沢駅に向かう人が通る場所だ。


「その場にしかない空気もあるのでつい、冷静に考えれば全くもってその通り」


 私は猛烈に反省する。すごく色んな人の邪魔だったよね。


「気持ちはわかるが。何度来ても、毎日通っても同じ日の金沢はないからな」


しっとりとした口調で玉城は言った、爺もうんうんと頷く。夜行バスを乗ってきたため、あまり金沢の風景は見てないのだけど、それでも金沢の情景は綺麗だと聞く。歴史もあるし、自然もあるし、加賀も能登も、どちらも魅力的で海も山もある。いろんな要素のものがバランスよくあって、どれも平均点以上と何かで見た。でも私は今、一文無しだ。


 ぐううう、とお腹が鳴る。お腹と背中がくっつきそうな感じ。そう言えば、夜行バスにこっそり乗るために家を出る前に、夕飯を食べたっきりだ。画材を詰めて、あの子が私の家に来る前にって思ったら、料理なんかできなくて、そもそもお金もないし小銭握りしめて買ったコンビニの味気のないパン。むしろ、味、涙味。


「お、お腹すいた」

「咲良、お前まさか何も食べてないのか?」

「色々あって、家を飛び出してきてバタバタしていて食べてなくて」


 多分、仕事をするなり絵を描けばどうにかなるだろうし、そもそも出会ったばかりの玉城に頼るべき事柄ではないと思う。親戚とかならまだわかるけれど、彼はまだ若い他人の男の子だ。


「事情は言えないのか」

「ちょっと、今は」


 出会ってあの子の命の関わるような話なんか早々には重すぎる。引かれるに決まっているし、なんか、何を頼まれても大体の人が断りにくい。あの事件も、胡散臭いし。


「さっきのお礼に、せめて食事を食べていかないか」

「いいの?」


 それぐらいなら、と思い私は頷く。


「スタッフ、すまない。俺の日常の撮影は後日で」

「はい、私達も桃井さんに助けてもらったので文句はないですよ、ありがとうございます」


 スタッフらしき男性が頭を私に下げた。


「いえ、こちらこそ急に割って入ってすみません」

「そう言えば桃井さん、玉城君、東京でも見たことないですか? 人気のモデルなんですが」

「私雑誌もテレビも見ないんですよ」


 大体絵を描いて過ごしてきたし、モチーフ探しに散歩する方が有意義に感じられたから。それか、あの子のそばにいるのが普通だったから。


「有名人気モデルなんですよ。愛想ないんで、テレビはインタビューとCMぐらいしか出ないんですけどね」

「そうなんですか。すごいですね」


 いわゆる芸能人って事だ。まあ、一般人には見えないビジュアルだから、当然って気はする。凄い華がある子だから。いるだけで名画級の価値があるとは思うし。


「華道の家元の息子さんで、お母様は外国人の元パリコレモデルさんなんだよ」

「スタッフ! マネージャー、スタッフの口を止めて」

「いいじゃないか、玉城。お前の自慢ぐらい」


 やり過ぎだったかな、と自分でも思うけど、止められなかったし。あれはさすがに個人の権利を無視し過ぎだ。自己中すぎる。好きを盾に相手の自由を奪うのは自己愛だ。むしろ暴力だ。愛情じゃない。


 そして、結果玉城の提案で、撮影は後回しになった。すごく申し訳ない感じだ。本当私は考えが浅いから。昔からノリと勢いで動きすぎるとは言われてきた。それが絵の世界では才能と言われてきたけれど、実生活では足枷にもなってきた。

 そしてまた、お腹がダメ押しするようにぐうううう、と鳴る。


「早く帰るぞ。爺、家のものに何か温かい料理を頼んでおいてくれ」

「わかりましたぞ。坊っちゃま」


 敬礼をする爺。可愛い。


「咲良。何か好きなものは? 爺はなんでも作れるぞ」


 フフン、と得意げな玉城は、嬉しそうに言った。爺も嬉しそうに胸を張る。その好意は今は素直にありがたい。


「食べさせてもらえれば全てがありがたいよ。感謝だよ」


 本当に、その善意だけでもありがたい。でも、これからどこで夜を明かせばいいのだろうか。宿無しは正直苦痛だ。


「じゃあ、なるべく用意がすぐできるものにする。家はここから近いから、我慢しろよな」


 強い口調で玉城は言う、少しキリッとした顔は、やっぱ本当にモデルなんだなって思うぐらい引き締まって見えた。


「うん。わかったよ。ありがとう、玉城」

「ん……」


 口をモニョモニョして、玉城は居心地悪そうにする。

 もしかして、照れてる? 露骨に目を逸らす玉城に私は微笑んだ。


***


 雪景色が綺麗な和風の庭園付きの平屋に、私は通された。黒い瓦に積もった白い雪のコントラストが、なんだか豪奢で綺麗でいかにも豪邸な風貌で華道の家元らしく、あちらこちらに生花が飾られていた。


「あー美味しかった! 白米は噛めば噛むほど甘いし、味噌汁は具沢山で美味しいし、漬物もいい塩加減!シンプルだけど最高だった。焼き魚もホクホクで、味が柔らかくて……ごちそうさまです」

「米はコシヒカリだぞ。美味しいだろう。ふんっ」

「石川のブランド米なんだ?」

「ああ」


 鼻を高くして言う玉城。なんかタブレットを出してきて、石川には他にもブランド米がいっぱいあるのだと語り出したので、ゆっくりそれを見る。さすが自然あふれる県だな。玉城が満足してふと外を見たので、私も外を見る。


「雪がすごいね」

「そうだな、お前、ホテルは取ってあるのか?」


 疑問に思うのも当然な部分に、どう誤魔化すか考える。常識的に考えて、遠征でホテルや宿泊先を決めないのは変だとは自分でも思う。


「えっと、その」


 どうしよう。さすがに言うか。このままじゃ、野宿は無理だ、凍え死ぬし、そうなったら責任感を感じるのは玉城達だろうだから、言ったほうがいいだろう。私は正直に、打ち明けることにした。


「実は事情があって本当に一文無しで」


 唖然とする玉城。爺はポカンとしている。


「じゃあ、ここで住み込みで働け。むしろ、絶対そうしろ。じゃないと困る」

「え? 事情は聞かないんですか」

「そんなのどうでもいい。困っているんだろう」

「玉城」


 私は目を感激で滲ませる。


「あれ? 人手足りていませんでしたっけ? 坊っちゃま」


 おちょくるように爺は言う。


「爺は黙っていろ!」


 すごく凄みのある顔で玉城。眉間の皺、何本入っていただろうか。


「冗談です」


 本気で怯えた様子で爺は縮こまる。そして古風な咳払いを玉置がする。


「よし、今度からお前には石川の本当の郷土料理を食べさせるかわりに、この家の使用人をさせてやる。給料はあまりないかもだが、いいな?」


 え、郷土料理って事は、石川の、金沢の料理って事? すごく楽しみだし、美味しそう!


「坊っちゃまの言うあまりないはそこそこですぞ、咲良様」


 ご両親に許可は取ったのだろうか。多分スマホを使って取ってくれたんだろうけど。


「爺、黙っていろ」

「もちろん! ねえ、それって絵に描いてもいい? 絶対美味しそうだし、記念になるよ」


 どんな視覚的にも味覚的にも色鮮やかな料理が出てくるのだろうか。すごく楽しみだ。私、食べる事って大好きなんだよね。


「私、金沢のご飯の絵を絵描きたい! 思い出にしたい! この後どうなるかはわかんないけど、使用人として働いて、お金貯めて、色々考えるまでの間、記録として」

「いいんじゃないのか」


 吹き出すようにした後、得意げに玉城は笑う。私もご機嫌な猫のように目を細めて笑う。


「名付けて、金沢絵描きごはん! よし、バリバリ頑張って働くぞー」


 私は持ってきたスケッチブックにそう金ピカのマーカーで書き入れるとそれを手にして叫んだ。玉城は頭を抱えて、爺は爆笑していた。


***


 いつだって、弱いものは大切に守られるべきである。


「死なないで、死なないで! 咲夜、私、頑張るから」

「お姉ちゃん、お姉、ちゃん」


 担架で運ばれていく咲夜を見るのは何十回目だろう。

 のんびりと病室で話していた咲夜が体調を崩したのはある意味いつもの事だった。バタバタと看護師さん達が動き出し、私はおばあちゃん達に連れて帰られる。


「家で待っていて、もう高校生なんだから、大丈夫だよね」


 どこか困ったように、でも願うように言うお母さんとお父さんはもう私を見ていない。


「でも」


 私だって。私だって。私だって。


「大丈夫だから、咲良。この手術をすれば咲夜は治るよ、大丈夫」


 お母さんはそう言って私を撫でた。私が咲夜の絵を描くために普通科を我慢して入学した通信制高校を卒業する頃に、弟の咲夜は最後の手術を受けた。

 咲夜がクローン病という難病と聞いて、子供なりにショックを受けた私。咲夜の病状と両親の多忙さを見た私は、テレビで見た画家の絵がすごい金額で売れているのを見て、絵を売る事を思いついた。バカみたいだと思う。でも、それは近所のフリーマーケットから始まって、同情からかもしれないけれど、話題になって、売れていった。テレビにも出たし、新聞にも載った。


「お姉ちゃん、ありがとう、大好き」


 咲夜が絵を見ていつも喜ぶたびに、元気が出た。


「咲良、お母さん達、働くからいいのに」

「いいの。無理しないで。咲夜のそばにいて」


 そう言って、お父さんだけ教師でいてもらうようにしたりもした。せめて、お母さんだけでも、つきっきりでいてあげれるようにして、代わりに私は自分からおばあちゃんの家に住むようにもした。


「でも、咲良もお友達と遊びたいでしょ?」

「私だって、咲夜のお姉ちゃんだから、力になりたい」


 今なら、高額医療費負担があるとわかるけれど、子供だから病気=すごいお金がいるって思っていたし、両親がそのお金を稼ぐために時間を使うなら私が頑張って咲夜に両親との時間を与えたくて、必死だった。疲れている両親を見るのも嫌だった。

 何より、凄く咲夜が苦しんでるのに指を咥えて見ているのは、情けなくて嫌だった。


「神様、私なんでもするから、大事な弟を連れてかないで」


 どうするのが正解なんだろう。わからない。私は自分の中で想像する「いいお姉ちゃん」でいる事を選んだ。弟もそれを喜んで受け入れて、私に懐いてくれた。


 私は何かを殴るようにスケッチブックを取り出して絵を描いた。叩きつけるように鉛筆を走らせ、笑顔の咲夜ばかりを描いた。咲夜。咲夜。咲夜。私の片割れ。私の家の中心。いなくならないで。いなくなればきっと私の家族は、歪になる。


 過去の弟と地球が沈む中、未来の大人になった弟が手を伸ばし生きようとする絵を、私はイメージしていく。これを、仕上げよう。金箔も貼る。きっとこれは現実になる。だっていつだってそうだったじゃないか。


 その願いは叶って、弟の病気は無事完治した。そのまま高校卒業認定もとり、通信制大学を卒業して有名IT企業に正社員として無事就職できた。


「咲夜君、就職おめでとう、あの大手企業に正社員雇用なんて、まるでエリートだね。無理はしないように」

「お祝いに何か買ってあげようね」


 家の近くのカフェで小太りのおじさんの親戚がそう言う。


「お姉ちゃんは通信制高卒の絵描きだけど、僕は通信制だけどのいいとこの大学出て、IT業界に就職だからね! 頑張らないとね。お姉ちゃんの分も何か買ってね」

「偉いねぇ、お姉ちゃんの分までお願いして」

「僕、いっぱい稼いでお姉ちゃんを養うんだ! 美味しいご飯食べさせてあげるんだ! お姉ちゃん勉強できないし! お姉ちゃん結婚できないだろうから、僕、ずっと幸せにする!」

「こらこら、咲良ちゃんも可愛いんだから、いずれ結婚するよ」

「ダメ! お姉ちゃんは僕の!」


 私がバカなのは絵を描いてばかりで勉強できなかったのもあるんだよ、と心の中で反論する。それでも、私に贈り物をしようとする弟はやっぱり可愛い。だいぶ背はデカいけど。でも本当に、中身はそこら辺の小学生より子供で、これで社会人になっておもちゃにされないか心配である。一応会社に事情は説明されているとは言うけど。


 生意気な声が聞こえた。長めの前髪の黒髪を揺らし笑う弟が少し憎らしく思えた、誰の努力のおかげで、と思う自分が最低だと思った。相手は元病人なのに。


 私は泣いた、その気持ちを込めて、また私は絵を描いた。いつも双子の弟を救いたいと言う気持ちを込めて絵を描くと、なぜだかそれが叶った。そしてそのたびに絵が売れて、手術代に化けた。


 私は弟を愛する天才画家としてもてはやされた。小学校の頃、初めて描いた入院中の弟と自分の絵で注目されてから。


 次第に弟しか描けなくなった。周りに求められているのは、咲夜だと、わかってきたから。描けて自分の後ろ姿。風景は描けるのに。何が描きたいかじゃなく、何が望まれるか、そればかり考えてキャンバスに向かう。その度に時通り、なぜかあの頃描いた着物の男の子をほんのりと思い出す。あんな、一瞬しか会ってない男の子なのに、時たまに薄ぼんやり描こうとしては記憶が遠くて描けるわけもなく虚しくなる。


 でも、あの沈む地球をベースにした最後に描いた絵だけは、なぜか一部にしか両親が見せなくて、家にあって、ある日突然盗まれた。もしかして、このままじゃ何かが壊れるんじゃないかと怖くなった。私は間違っていたのだろうか。そう思うとどこかに旅をしたくなった。でも、大量に絵に描いた咲夜を破り捨てた私はバカだった。冷静になって、何を馬鹿なことをと思った。私は最低だと思った。


 咲夜はまだ子供だ。ずっと小さな頃から入退院を繰り返してきて世間を知らない子供なのだ。それなのに、他の成人男性と同じものを求めて、恨んで、私は何をしているのだろう。何の援助もなく一人暮らしだってできるぐらいの私と、そこに甘えて週二で住み着いてくるようなお姉ちゃん大好きな弟。そんな弟が、粉々にされた自分の絵を見たら?


 死んでしまうかもしれない。私は慌ててその絵を黒いゴミ袋に詰めて、捨てた。この汚い感情を捨てないと。


 恨む気持ちがあるのは仕方がないかもしれないけど、今の自分を作ったのは咲夜じゃない。咲夜に自分の存在価値を依存したのは私だ。


「弟想いのいいお姉ちゃんだねえ」

「咲良ちゃんは優しいねぇ」

「咲夜君はお姉ちゃんが大好きだって言っていたよ。いっぱい自分の絵を描いてもらえて、テレビでも特集してもらえてすごいね、咲良お姉ちゃん、この前はスーパーマンになった咲夜君を描いてあげたんだって?」


 色んな人にそう言われて悦に入っていたのは誰だ。自分だろ。この自己愛女。

 そう思った時、飾ってあるあの絵を見た、地球の絵だ。


「お姉ちゃん、お姉ちゃんの好きなお菓子買ってきたよ!」


 両手にでっかい袋六つもお菓子を持った咲夜を見ると、嫉妬心が溶けていくのがわかった。


 ああ。やっぱり可愛い弟だ。無邪気で、幼くて、純粋で、頭がいいけどお馬鹿さんで。これ、結構高いやつでしょ。咲夜お金の管理できないから、お小遣い制でしょ。エリートになっても、お金は自由じゃないってわかっているのかな。それにこれで、今週の自由に使える分もうなくなったんじゃないの? 全くもう。仕方がない子。


「おかえり、咲夜」


 私は咲夜を思わず子供のように撫でる。


「僕、明日からお仕事だよ。頑張るね」


 子犬のようにはしゃぐ咲夜。本当は人見知りのくせに、強がっているのが私にはわかる。だって、手が震えているんだもん。


「最初は時短勤務だっけ。無理しないでね」


 直属の上司に医者の知り合いが偶然いて、体力面について口添えしてくれたらしい。それも受かってから。咲夜ったら運がいいよね。自分からは言えなかったみたいで……プライド高いから。


「僕ね、お姉ちゃんが描いてくれた、綺麗なキラキラのあの地球の絵が好きなんだ。あの絵みたいに、でっかいものを掴めるように、頑張ろうって思って」


 嬉しそうに咲夜が笑った。


「僕も未来を掴んでみせるって、思ったんだ。だから、絶対に仕事を諦めないよ。辛くても、昇進して、バリバリ働いてみせる。お姉ちゃんにお家を買ってあげるね」

「咲夜」


 そして帰ってきた咲夜が手にいっぱいのお菓子を持っているのを見て、やっぱり可愛いと思った。まるで天使な咲夜を見て涙目になった、それが四年前の出来事。昨夜も仕事は順調だし、私もバイトも絵もそれなりで、やっぱり咲夜を描いていることが多いけど、元気だし。あれから、心のモヤモヤはだいぶ溶けたのに。


 それから。何回だけ人に見せたあの絵が急に盗まれた、と実家から連絡が来た。両親の絶望した声はヤバかった。両親も咲夜のあの絵への思い入れを知っていた。どうにか誤魔化す、と両親は言っていた。私が同じ絵を二枚も三枚もザクザク描けるタイプじゃないのを、両親は知っていた。私は狂ったように泣きじゃくりながら支度をした。私には受け止めきれなかった、壊れていく咲夜は見たくなかった。あんなにもギリギリの状態で働いている咲夜がダメになってくのは、無理だ。


 財布の中身を見る。全部置いてけ。お金を持ってくのはなんか卑怯だ。一文無しになってけ。スマホを見る。とにかくここから逃げよう。咲夜と顔を合わせたくない。泣いてしまうかもしれない。感情的になったら最悪だ。偶然東京から金沢行きの夜行バスが空いているみたいだ。今なら間に合う。それに飛び乗ろう。


「ごめん、咲夜」


 書き置きも何もできない。絶対、泣きながら私を咲夜は探すだろうな。白いキャリーケースに私は画材を詰める。石川は今日も雪。どうしよう。一応着込んではいくけど。白いコートに、分厚目のデニム。黒いブーツはいつ買ったっけ。オシャレも、恋愛も、友達作りも何もしてこなかった。咲夜のため、って言い訳して怖がってチャレンジしてこなかった。元々自分に自信がない性格だ。控えめなわけじゃない。ただ、怖い。お姉ちゃんでしょ、って言われるのが怖い。


 自分がお姉ちゃんだと知られない場所に行けば、違うだろうか。咲夜が嫌い? そんなわけじゃない。咲夜は私のアイデンティティーだ。だからこそ、ダメなのだ。離れないとダメなのだ。このままだと腐るのだ。


「石川県……金沢って何があったっけ? 金沢駅に降りるんだよね?」


 雪が多くて雨も多いんだっけ? 弁当忘れても傘忘れるな、だっけ。そんな言葉を聞いたことがある。


 スマホの携帯充電器をポケットに入れて私は家を出る。早く行かないと、咲夜に出くわす。大騒ぎになる。まあ一週間ぐらいで見つかりそうな気はするけど。お父さんとお母さんそういうの手が速そうだし。それでも、迷惑かけてでも、頭を冷やしたい。


「うわ、やばいこのままだと本当に時間ない」


 そういえば昔、金沢の美術館に展示された事もあったっけな。懐かしい。咲夜と私の、仲良しな絵。ふわふわとした感じのタッチの、柔らかな絵は、後も先もアレだけだ。あの頃は、まだ楽しく絵を描いていた気がする。


 あの頃見た金沢は、自然に溢れていて、神社とか大自然に溢れていた印象がある。咲夜は、まだ行った事がないけど。ああ、また咲夜の事を考えている。薄暗い道を走りながら白い息を吐く。


 私は夜行バス乗り場を目指して、急いだ。一回転んだけど、すぐに起き上がってそのまま走った。膝小僧が血の涙を流していたけど、どうでも良かった。


 金沢行きの夜行バスの中ではぼんやりと薄暗い意識の中、結局眠れないまま朝を迎えた。目はチカチカするし、眠いけど、金沢に着いたと思ったら眠気は飛んで行った。スマホの電源は切った。当然だ。絶対着信履歴やばいだろうから。鬼電だと思う。

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