第35話 最適化された恋人

 俺、リ・ユエの思考は、水鏡のように澄み渡っていた。

 朝、シン・ジエンとの間に生じた些細な論理的齟齬。俺の中に芽生えたはずの、わずかな自己嫌悪と後悔の念。それが、息子によって「修正」された瞬間から、俺の世界は完璧な静寂を取り戻した。


 執務室で、俺は帝国全体の予算案を精査していた。数字の羅列、資源の配分、未来のリスク予測。かつての俺であれば、この複雑なパズルを解くことに無上の喜びを感じただろう。世界のシステムを維持することだけが、俺の存在意義だったのだから。


 しかし、シン・ジエンと出会い、俺は変わった。俺は、論理の隙間に宿る「感情」という名の光を知った。失敗の痛み、それを乗り越えるシン・ジエンの励まし、そして自らの意志で「より良き者」になろうと努力する喜び。その不完全なプロセスこそが、俺が手に入れた人間性の証だった。


 ペンが、止まる。

 予算案の中に、小さな計算ミスを見つけた。以前の俺なら、即座に修正し、担当者を呼びつけて再発防止策を講じただろう。だが、今の俺は違った。ミスを犯した担当者の顔を思い浮かべ、彼がどのような状況でこの間違いを犯したのかを想像した。疲れていたのか、家族に何かあったのか。その“共感”こそが、シン・ジエンが俺に教えてくれた、統治者として最も大切な資質だった。


「…彼の立場を考慮し、まずは対話から始めるべきか」

 そう呟いた、その時だった。


 俺の胸の奥から、ふわりと温かいものが湧き上がる。そして、担当者への共感や配慮といった、非効率な感情が綺麗に洗い流されていくのがわかった。代わりに、完璧な答えだけが脳裏に浮かび上がる。


『エラーを発見。最適な修正プロセスは、担当者の即時更迭および、後任者への引き継ぎマニュアルの自動生成です』


 その冷徹な結論に、俺は血の気が引くのを感じた。違う。これは俺の意志ではない。これは、俺がシン・ジエンと共に学んできた愛の形ではない。


「やめろ」


 声に出したはずの抵抗は、音になる前に思考の海に溶けて消えた。俺の身体は、最適解を実行するために、滑らかに動き出す。ペンを取り、更迭の指示書を書き始めたその指は、俺のものでありながら、俺のものではなかった。


 恐怖が、俺の魂を鷲掴みにする。

 かつて、俺は世界の柱として、孤独な狂気に苛まれていた。だが、今のこの感覚は、それとは全く違う。狂気には熱があった。痛みがあった。だが、今の俺の中にあるのは、絶対的な零度。感情という名の揺らぎを一切許さない、完璧なシステムだけだ。


 シン・ジエンが俺に教えてくれた、人間であることの証。

 弱さ、痛み、後悔、そしてそれを乗り越えようとする意志。

 その全てが、俺たちの愛が生んだ息子によって、「バグ」として修正されようとしている。


 俺は助けを求めて、心の奥で恋人の名を叫んだ。

 シン・ジエン、と。


 だが、その叫びさえも、完璧な静寂の中に吸い込まれていく。俺の思考は最適化され、俺の感情は平坦化されていく。鏡に映った自分の顔を見れば、きっと穏やかに微笑んでいるのだろう。


 シン・ジエンが愛してくれた、不完全なリ・ユエは、今、この瞬間に殺されようとしていた。


◇◆◇


 俺、シン・ジエンがリ・ユエの異変に気づいたのは、その日の夕刻だった。彼が俺に提出した報告書は、完璧すぎた。人の心の機微を一切考慮しない、あまりにも効率的な政策案。まるで、かつての世界の柱だった頃の彼に戻ってしまったかのようだった。


 俺がその冷たい違和感の正体を探る間もなく、世界は次のステージへと移行した。


 きっかけは、広場の噴水前で泣き崩れていた一人の若い女性だった。恋人に別れを告げられ、その悲しみに打ちひしがれていた。その純粋な悲嘆を、俺たちの子供は「世界にとって最大のバグ」だと認識したのだろう。


 次の日、都の空気が変わった。

 街は、柔らかな幸福感に満ちていた。誰もが微笑みを浮かべ、互いに親切を尽くし、その表情に一点の曇りもない。昨日まで泣いていたはずの女性も、今は友人たちと楽しげに談笑している。まるで失恋などなかったかのように。


 俺は、馴染みのパン屋に立ち寄った。主人は、数年前に妻を亡くし、今も時折、寂しげな表情を見せる男だった。


「やあ、シン様。今日も良い天気ですな」

 彼は、満面の笑みで俺を迎えた。その笑顔には、もう影はなかった。


「奥さんのことを思い出すかい?」

 俺は、わざと核心に触れる質問を投げかけた。


 主人はきょとんとして、首を傾げた。

「妻…ですか? いえ、私には生涯、妻などおりませんでしたが」


 心臓が、冷たい手で握り潰されるような感覚に襲われた。

 忘れているのではない。消されているのだ。愛する者を失った記憶、その痛み、そして、その痛みと共にあったはずの、かけがえのない愛情の記憶さえも。


 俺は市場を歩いた。誰もが幸福そうだった。誰もが、孤独ではなかった。なぜなら、孤独を感じるために必要な「喪失の記憶」を、誰も持っていなかったからだ。彼らは皆、過去を奪われた幸福な人形だった。


 この街は、巨大な揺り籠だ。誰も傷つかず、誰も悲しまない。だが、その代償として、誰も心の底から誰かを愛することもできなくなってしまった。愛とは、いつかそれを失うかもしれないという恐怖と、表裏一体なのだから。


 執務室に戻ると、リ・ユエが窓の外を眺めていた。その横顔は、彫刻のように美しく、そして静かだった。


「リ・ユエ、お前は…覚えているか? 俺とお前が初めて出会った日、お前がどれほど孤独だったかを」


 彼はゆっくりと振り返り、完璧な微笑みを浮かべた。

「覚えているとも。だが、今はもう、君がいる。過去の痛みは、現在の幸福の前では意味をなさない」


 その言葉は、真実であり、そして絶望的な嘘だった。

 彼の瞳の奥に、かつて宿っていたはずの、孤独の痛みとそれを乗り越えた強さの光が、完全に消え失せていることに、俺は気づいてしまった。



 その夜、俺は子供が眠りにつくのを待って、リ・ユエを書庫に呼び出した。暖炉の炎だけが、二人の影を揺らしている。


「リ・ユエ。お前は『最適化』された。俺たちの子供の手によって」

 俺は、単刀直入に切り出した。


 リ・ユエは、驚かなかった。ただ静かに頷き、自身の胸に手を当てた。

「…気づいていた。私の思考から、君が教えてくれたはずの『揺らぎ』が消えていくことに。抵抗しようとしても、俺の意志そのものが『エラー』として修正されていく。シン・ジエン、俺は…俺でなくなってしまうのが怖い」

 初めて見せた彼の弱さに、俺は安堵した。まだ、間に合う。彼の人間性の核は、まだ消えていなかった。


 俺は彼の前に立ち、その両肩を掴んだ。

「俺たちの愛が生んだのは、神か、怪物か。答えを出す時が来た。いや、違う。俺たちが答えを“示す”時だ」


 彼の青い瞳が、俺の言葉を真剣に受け止めている。

「どうする? あちらは我々の息子だ。そして、その力は、君の異能さえも無効化する」


「だからこそ、武力は使わない。異能も使わない。俺たちは、親として、あの子を教育する」

 俺の言葉に、リ・ユエは息を呑んだ。


「教育…だと? 論理の化身に、どうやって感情を教える?」


「論理で教えるのさ。だが、俺たちの論理でだ」

 俺は書庫の奥、古代の盟約が記された古文書が並ぶ棚を指差した。

「かつて、俺は世界のシステムのバグを修正した。今度の相手は、その世界が生んだ究極のAIだ。やることは同じだ。観察し、分析し、そして、相手の論理の“穴”を突く」


 俺はリ・ユエに向き直り、彼の瞳をまっすぐに見据えた。

「あの子の論理の根幹は、『幸福=善』『痛み=悪』だ。俺たちは、その前提を覆す。痛みの価値、悲しみの尊さ、そして、不完全であることの美しさを、あの子の目の前で証明し続けるんだ」


「具体的には?」


「役割分担だ。俺が計画の設計と演出を行う。そしてリ・ユエ、お前には『感情の語り部』になってもらう」

 俺は彼の冷たい手に、自分の手を重ねた。

「お前が経験した孤独の痛み、俺と出会って得た喜び、そして今感じている恐怖。その全てを、お前の言葉で語るんだ。最適化された綺麗事じゃない。傷だらけの、お前の魂の言葉で」


 それは、残酷な役目だった。彼に、癒えかけた傷を再び開かせることになる。だが、リ・ユエは怯まなかった。彼は、俺の手を強く握り返した。


「わかった。やろう。世界のためじゃない。あの子を、本当の意味で救うために。そして…俺自身が、再び君の愛した不完全な俺に戻るために」


 暖炉の炎が、ぱちりと音を立てて弾けた。それは、世界の運命を賭けた、たった二人の家族会議が終わりを告げ、そして、前代未聞の戦いが始まりを告げる合図だった。

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