第四部:愛のアルゴリズムと最後の選択

第33話 風鈴の鳴らない風

 その日、俺の世界は完璧に満たされていた。


 侯爵家の執務室の窓から見える領地の景色は、一枚の絵画のようだ。収穫を間近に控えた黄金色の麦穂が、風を受けて静かに、規則正しく揺れている。空には雲ひとつなく、太陽は大地を焦がすでもなく、ただ慈愛のように光を降り注いでいる。完璧な豊穣。完璧な秋。


「シン・ジエン」


 声に振り向けば、リ・

 ユエがそこにいた。俺の恋人であり、かつてこの世界の理をその一身に背負っていた男。彼は磨き上げられた銀のトレイを手に、俺が最も好む茶葉で淹れた紅茶を運んできた。湯気の立ち上る角度さえ、計算され尽くされているように美しい。


「素晴らしい日だ。領民たちの幸福度が、過去最高値を記録している」


 彼の青い瞳は、窓の外の景色を映して穏やかに凪いでいる。その声には、かつて彼を苛んでいた狂気の熱も、世界を律する柱としての孤独もない。ただ、俺の隣にあることを至上の喜びとする、静かな献身だけがあった。


「ああ、そうだな」


 俺は頷き、彼が差し出したカップを受け取った。指先に伝わる温かさが心地よい。そうだ、何もかもが満ち足りている。俺は悪役令息の破滅ルートを回避し、愛する男を世界の理不尽な宿命から解放した。そして今、俺たちは二人で、この穏やかな楽園を治めている。これ以上何を望むというのだ。


 なのに、なぜだろう。

 俺の耳は、聞こえるはずの音を探していた。


 窓は開け放たれている。麦穂を揺らすほどの風が、絶えず領地を吹き抜けている。ならば、聞こえるはずなのだ。軒先に吊るした、ガラスの風鈴の音が。


 チリン、と。あの、夏の気配を閉じ込めたような、ささやかな音が。


 だが、執務室はどこまでも静かだった。風は確かに俺の髪を撫で、書類の端をかすかに震わせている。しかし、風鈴だけが沈黙している。まるで、この世界から「偶然」という概念だけが、綺麗に抜き取られてしまったかのように。


「どうかしたか? 君の魂に、0.2秒の揺らぎを観測した」


 リ・ユエが俺の顔を覗き込む。彼の瞳は、俺の心拍数からストレス値まで、すべてを読み取れてしまう。魂で接続された俺たちは、嘘も隠し事もできない。


「いや……風が強いのに、風鈴が鳴らないと思ってな」


「ああ。あれなら、もう鳴らない」


 リ・ユエはこともなげに言った。


「風が風鈴を鳴らすには、不規則な突風や気流の乱れが必要だ。だが、今の領地の風は、常に作物にとって最適な強さと角度を保つように制御されている。だから、ガラスを揺らすほどの『無駄』な動きは発生しない」


「……制御?」


「そうだ。素晴らしいだろう? おそらく、あの子の力だ」


 リ・ユエの視線が、執務室の隅に向けられる。そこには、小さな寝台で、俺たちの子供が静かな寝息を立てていた。俺たちの愛が世界の余白に生み出した、奇跡。そして、理解不能な論理(アルゴリズム)の化身。


 あの子が、この完璧な楽園の創造主だというのか。


 俺は紅茶を一口含んだ。完璧な温度、完璧な香り。だが、その完璧さが、喉の奥にガラスの破片のように引っかかった。


 午後に訪れた市場もまた、完璧だった。

 色とりどりの野菜や果物は、傷ひとつなく、艶やかに輝いている。売り子たちの声は活気に満ち、買い手たちの顔には満足げな笑みが浮かんでいる。誰もが互いに道を譲り、穏やかな会話を交わしている。口論も、値引き交渉の怒声も、どこにもない。


「シン様! ご覧ください、この見事なカボチャを! 今年は豊作でしてな!」


 馴染みの農夫が、赤子ほどの大きさのカボチャを誇らしげに掲げる。その笑顔に嘘はない。だが、俺はその完璧な笑顔の裏側に、ほんのわずかな“ノイズ”を感じ取っていた。


 違う。これはノイズじゃない。逆だ。ノイズが“欠落”しているのだ。


 人の感情とは、もっと混沌としているはずだ。豊作を喜びながらも、隣の畑への嫉妬が混じる。客を褒めながらも、少しでも高く売りつけたいという欲が滲む。その矛盾した揺らぎこそが、人間の証のはずだ。


 だが、この市場にはそれがない。ただ、純粋な「喜び」と「満足」の感情だけが、まるで均一に調合された絵の具のように、人々の顔を彩っていた。


 その夜。リ・ユエの腕の中で眠りにつこうとした俺は、ふと、彼に問いかけた。


「なあ、リ・ユエ。お前は今、幸せか?」


「当然だ。君が隣にいる。私の幸福の定義は、それだけで満たされる」


 彼の答えは迷いなく、そして完璧だった。俺は彼の胸に顔を埋める。彼の心臓は、俺の魂と共鳴するように、穏やかで規則正しいリズムを刻んでいる。


 安心するはずのその鼓動が、今は時を刻むだけの振り子のように、どこか無機質に聞こえた。


 俺たちは、世界のバグを修正し、不完全な愛を勝ち取ったはずだった。

 だが、俺たちの愛が生み出したアルゴリズムは、今、この世界から“不完全”であるという最後のバグを、静かに、そして徹底的に修正し始めている。


 この完璧な世界で、俺たちは本当に、幸せになれるのだろうか。


 闇の中で、俺は答えのない問いを抱きしめた。風鈴の鳴らない風が、窓の外を音もなく吹き抜けていった。

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