第32話 あの子の水筒
――ジリジリジリジリ。
蝉の鳴き声と授業のチャイムは一斉に鳴って耳障りだった。
このチャイムの音はすなわち俺が殺人を犯す合図だ。
男子は、教室で着替え、女子は向かい側の更衣室で体操着に着替える。
当然織姫は、更衣室へ向かった。
その時、サブの言った通り水筒は教室に置いてあった。
「(勇者)お前着替えねえのかよ?制服黄ばんでるぞ。早く着替えた方がいいんじゃねえか?」
(うるさい、耳障りだ。)
俺は平然を装いながら、ゆっくりと着替えをした。
皆が教室に出るのを待ちながら、俺がおもむろに絝を脱いでいると、一人一人運動場へ向かっていた。
俺が着替え終わる頃には、教室には俺ただ一人になっている。
今のところイチカ達による、計画は順調だ。
織姫の席には、水筒が寂しげに置かれている。
まるで、俺が薬を入れやすいようにしているようだった。
先程粉々にした薬をポケットで揉みほぐし、誰も見ていないことを確認して、掃除用具からゴム手袋を着用した後、素早く薬を混入させ、この前の蟻を閉じ込めた空き缶のようにシェイクする。
ゴム手袋の中は汗がベトベトにへばりついていた。
水筒の蓋を元通りに締め、指紋を残さないよう、丁寧に水筒を机に置く。
耳の奥で、蝉の鳴き声がやけに大きく聞こえて、教室の静けさが逆に俺の罪を叫んでいるようだった。
「(勇者)完璧よ」
イチカの声に少し安堵した。
振り返っても、もちろんイチカの姿はない。
当たり前だ。
イチカはイマジナリーなのだから、現実世界には来れない。
前にニアが言っていたように、ゲームキャラクターは現実に来れない。
でも、イチカの声はいつだって生々しい。
「これで、いいんだよな。」
俺は思わず、そう呟いていた。
「偉いわ、満点よ。(勇者)は、自分自身と私たちの未来のため、清き選択をしたのよ」
イチカが褒めてくれたその優越感は大きかった。
俺の罪を慰めるようなイチカの言葉。
イチカ、やはりイチカが正しい。
「(勇者)様。まだ終わっていませんわよ。後は織姫様が水筒を飲むのを待つのみです。今日は暑いですからね。炎天下の中動いた後は尚更喉が乾き、ガブガブと水筒を飲むことでしょう。そして、計画通り夜に効き目が起きますわ。家族が気づいた頃には....手遅れですわね」
「....そうだな」
俺は水筒をじっと見つめた。
百円ショップで売っていそうな安っぽい水筒。だが、可愛らしい猫の柄が入っていてピンク色のデザインで織姫らしいと言ったらそうかもしれない。
今俺はそれを汚した。
いや、今俺が汚したのは水筒ではなく、織姫の命だ。
遠くから体育の先生の声や笛の音が聞こえる。時間がない。
俺はゴム手袋を脱ぎ、掃除用具入れに綺麗に戻す。
手袋の不快な感触がまだ手に残っていた。
体育の授業はいつだって退屈だった。
だが、今日は織姫の姿を見る度に罪悪感に囚われていた。
織姫は仲間と笑いながら運動場の周りを健気に走っている。
汗を流しながら水筒を手にしていた。
(まだ、飲まないでくれ。)
と心の中で叫んでいた。
「(勇者)少しリラックスして、少し顔に出てる」
イチカの言葉にハッとする。顔に出ていたら怪しいじゃないか!俺は急いでみんなの元へ、何食わぬ顔でグラウンドを一周走る。
地獄の授業が終わり、皆が次々と教室へ戻ってくる。
織姫も汗だくで、いつもの笑顔を浮かべながら席に着席した。
「今日めっちゃ暑いね!(勇者)しっかり、水分補給した?」
無邪気でいつも通りの織姫。
それなのに俺は、その織姫を殺害しようとしている。
俺は目を合わせられず適当に、頷く。
「う、うん。したよ。織姫も、気をつけて。今日暑いからさ」
あれ程イチカ達に言われたのに言葉がぎこちなくなる。
「うん!ありがとう。じゃ、ちょっと飲もうかな」
織姫が、水筒の蓋を開ける時、俺の視界は、スローモーションになっていた。
水筒を傾け、唇に近づける瞬間、俺は思わず立ち上がった。
「や、やめ....!」
俺は今更何を言っているんだ?声が出かけたが、幸い喉で詰まった。
織姫は、不思議そうに俺の顔を見ていた。
「え?どうしたの」
「なんでもないよ...ちょっと頭痛が、」
俺は慌てて席に座り直し、机に突っ伏した。
心臓が鳴り止まない。
織姫が、水筒から一口飲むと、満足そうに蓋をしめた。
「ぷは〜!生き返る〜。」
その笑顔が、俺の罪悪感を煽った。
織姫は、まだ生きている。
当然だ、そんなにすぐ死ぬわけがない。
でも、あの水がじわじわとこれから....。
イチカの計算だと、夜には全てが終わる。
「(勇者)、後は待つだけだね、偉いわ。よく頑張った!」
イチカの声が、優しく俺を包み込んだ。
俺はイチカを愛しているし、信じている。
イチカも俺を愛しているし、信用されている。だから、この選択は正しい。
イチカは俺の犯した罪を優しく包み込んでくれる。
俺たちの未来のため。そう自分に言い聞かせるしか、なかった。
電気を消し、ゲームのスイッチをONにする。
以前のイマジナリーのような暗闇の中、ベッドに横になり冷たいゲーム機を俺は離せなかった。
こうでもしないと気を間際らせない。
毎日の予習のようにフレンドリストを確認すると、杜若のオンライン通知が消えていた。
やっと俺をブロックしたんだな、アイツ。
いつもなら緑の点がそこにあるのが普通だったのに、画面はただの空白だ。
別に驚くほどのことじゃないだろう。
いつブロックされてもおかしくない状態だったのだから。
今はそれ以上に織姫のことが頭から離れられない。
今頃死んでいるかもしれない織姫のことが、頭の中でずっとぐるぐると回っている。
ソワソワして、眠気なんてどこにもない。
「寝れないの?」
眠気を遮るようにイチカは言った。
短いワンピースからは素足が俺を誘惑するようにちらりと見える。
一拍おいてから低い声で俺は答える。
「うん。怖くて、寝れない」
「大丈夫だよ、(勇者)は正しい判断をした紳士さんなんだよ」
情けない俺を宥めるようにイチカは言った
「今から、こっち来れる?私の住む、101号室に」
「え、なんで?」
「私の部屋で……一緒に寝ましょ。(勇者)」
「いいの……?」
マジか。この空気、なんかヤバくないか?
「うん、ほら早く来て」
イチカのスベスベで柔らかい指先が俺の手をゆっくりと握った。
動悸が激しいほど鳴る。
まるで母にベッドの下のヌードな漫画がバレた時のような緊張感。
「(勇者)が怖くなくなるまで、私傍にいるからね」
イチカはベッドに滑り込み、思春期の俺を誘うように見つめる。
ワンピースの襟元から谷間が覗く。
俺は喉を鳴らしガチガチに緊張しながら隣に横たわる。
――スースー、イチカの吐息が近く、ほんのり温もりが伝わる。言葉のない甘い沈黙の中、俺たちは二人で夜を明かした。
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