第3話 図書館

 で、僕が通ったのは、地元にある、本当に利用者の少ない図書館だったのだけれど、そこは、人なんかほとんど居ない割には、閲覧用のテーブルは十分に間を空けながら結構な数が置かれていて、何か静かな森に一人で座っているようで、とても居心地が良いのだった。

 おまけに、閲覧スペースとは別に、個々の座席の左右を仕切りの壁で遮蔽しながら、背中合わせに四つずつ席が並ぶ音楽鑑賞ブースもあった。それぞれの区画にCDプレイヤーとヘッドホンが置かれていて座席の横幅も広めに取ってある、結構贅沢な空間だ。そして、この鑑賞ブースのコーナーの入り口にあたる場所に、アンティークというのかな、外国のファンタジー映画に出てきそうな、木製でいかにも高価(たか)そうな大きなCDラックが二つ置かれていて、そこに作曲者のアルファベット順に、なかなかの量のクラシックCDが並んでいた。

 棚の横に、〇〇氏寄贈コレクションと記した、これも木製で結構気合の入った造りの表示板があるから、誰か亡くなったお金持ちの遺品なのかも知れない。

 僕は時々、そこから気の留まった一枚を抜き出して、空いていれば、決まって一番奥の席でそれを聴いた。とにかく、時間は十分に抱えていたから、とても寛いだ気持ちで、ラーメン屋さんのカウンター席みたいにも感じるそのテーブルに肘を付き、目を閉じて、組んだ両手に顎を乗せたりなどしながら、じっとその音楽に耳を傾けた。同じ曲目を、異なる指揮者とオーケストラで演奏しているものが何枚もあって、時にはそれを聴き比べたりした。

 ある日、ラックのCDをあれこれ物色していると、中に、アップにされた覆面の女の人の顔に、目の部分だけが眼鏡のようにくり抜かれて見えているという、とてもきれいな写真がジャケットに使われている一枚を見つけた。中の解説にはアラビアンナイトの物語を題材にしていると記されていた。四つのパートに分かれていて、曲全体では四〇分もあった。交響曲と記されているものはどれも一曲が長くて、聞いているうちに飽きてしまいそうな気がして、それまでは敬遠していた。けれども、アラビアンナイト、の一言に惹かれた。物語なら、何時間でも読んでいられるのだから。

「シェエラザード」。意味は分からないけれど、そのタイトルの響きがまず不思議にかっこ良かった。そして演奏は、これがまた物凄かった。聴いているうちに僕は、自分がゆったりとした大きな波に揉まれていて、次第に広大な音楽の海に沈んで行き、深い場所で瞑想するみたいな気分になった。壮大な物語の中で、僕は船の上で荒ぶる波に揉まれ、やがて嵐の後の青空を見上げ、そして異国の地にたどり着いた。僕は確かに音楽を読書していて、聞こえてくる旋律に溶け込んで行くその感覚がとても心地よかった。曲は最後壮大に高まり、静かな静かな旋律で終わった。ライブの録音で、止むことの無い拍手とあちこちから飛ぶブラボーの声がそれに続いていた。聴き終えた僕は、ちょっと腰が抜けたみたいになっていた。立てなかった。

 以来僕は、その場所に頻繁に座るようになった。横に誰もいない、一番隅っこのその場所は、幼児の頃に父の使うパソコンデスクの下に潜り込み、周りを段ボールで囲んで自分だけのお城のようにずっとその中に籠って遊んだ、あの時に気分に似ていた。

 そんな日々を繰り返すうちに、ある時、僕はふと思った。


 花を見ることと、本を読んで文章を追うことと、こうして音楽を聴き、その世界に沈み込むことは、一繋がりのことなんじゃないだろうか。


 何だか、自分が物凄いことを発見した気がした。

 そして、そんなことを感じられた自分が、僕は嬉しかった。

 けれども、そんな素敵な気づきについて、語り伝えられる相手はいなかった。それが僕にはとても寂しかった。

 誰かに言っても、こんな風にしか返って来ないような気がしたんだ。


 へぇ、凄いね。自分にはよくわからないけれども。


 凄いってさ、そんなんじゃなくってさ。

僕は、自慢したいわけじゃなくってさ。

同じ感覚を共有する言葉を返してくれそうな人を期待したって言うかさ。

 何て言うか。

 うちの花壇の由来を知った上で、

一番綺麗に咲いている時期に、

家とガレージの間を仕切って導火線のように繋がる花々の列の先に、ぱっと開いた花火みたいに玄関ステップの両側に広がる色とりどりの花の群れを、

 前の道路で、僕は立って父はしゃがんで、ほっぺたをくっつけ合って眺めている幸せみたいなもの

 そんな気分を味わえる人が、友達が、父以外に、欲しくてというかさ。

 僕は切ないくらいに思っていた。ああ、これを誰かに話したい。そしてわかり合いたいって。

 でもいなくってさ。

 簡単に言うと、

 僕は、自分の孤独について、うっすらと気づいてしまったような気がしたんだ。


 図書館ではもちろん、本もたくさん読んだ。時間はたっぷりあるので、僕が手に取る本は、長い物語が多かった。薄めの一冊で終わってしまう物語は、かったるく感じた。母の本棚に導かれた流れで、暫くは古代、中世のローマを舞台にした物語を読み漁り、と言ってもそれはあまり量が無かったら、次にヨーロッパの他の国の物語に手を伸ばし、それが終わると三国志に進んだ。三国志は、同じ登場人物、同じ出来事が描かれているのに、何人かの作家が書いた別バージョンの物があり、それを追いかけて読み比べるのが楽しかった。そして、それが終わってからやっと僕は、日本の、戦国、江戸、新選組から明治期の物語へと進んで行った。

 何でだろう。なるべく遠い国の遠い昔の物語を読みたいと初めは思っていた。聞きなれない名前の登場人物の行いや発言を読むことに、ロマンを感じていたのかもしれない。それは半分、空想の世界を旅するような気分だった。

 僕はそうして、初めて、読書に没頭するということを経験した。読んでも読んでも終わらない。その本の次のページをめくるのが楽しくて仕方がなく、読んでいる間は周りの光景も、人の気配も、まったく僕の意識の世界から消えていた。そして、ふと一息つく時にも、固まった体を伸ばしつつ書架の間を歩きながら、今読んでいるものを読み終わらないのに、これが終わったらあれに行こうと、次の本を物色していた。そんな風にしていると、僕の中学時代は、時間なんか何も動いてはいないような気がしているのに、たどり着いたら年を取っていたというような、不思議な感覚で過ぎて行った。

 毎日の僕の行動パターンは決まっていて、図書館にたどり着くのが四時前。そこから七時くらいまで居ることが多かった。ただし、火曜と木曜には塾に通っていて、それが六時から八時まであった。

 部活を辞めて図書館に籠るようになって、僕は、それで自分が社会性みたいなものを失ってしまうことを恐れてもいた。孤立して、誰とも付き合わない変な奴、みたいなポジションに落ち込むことは、ちょっと怖かった。だから、学校では意識して周りの子と絡んだし、遊びの誘いには積極的に乗った。塾の日は、図書館は一時間くらいで止めておくか行かないことにしていた。その二日は、早めに塾の自習室に入って学校の宿題をするようにした。そうしていると、授業の準備を終えた先生が話しかけて来て、世間話をすることがよくあった。塾の先生は、大学生か三十歳くらいまでの人がほとんどで、どの人も気さくで、話していると楽しかった。そのうちに少しずつ部活を終えた同級生たちもやって来て、僕らの会話に参加する。いつもそうしていると、僕は塾の先生と一番仲のいい奴、みたいに捉えられるようになった。僕はそれで少しほっとした。ちゃんと周りの世界と繋がっている。そんな実感が、ちょっとだけ確かに感じられた。本を読んでいることは隠さない程度に話した。塾の先生と話していると、流れでそんな話になることもあって、そんな時には、嘘をついてまで秘密にしておくことでも無いから、無理には避けなかった。でも、そうすると、横で聞いていた子に、へぇ、雄輝、本読むんだ、と、やけに驚かれたりして嫌だった。僕の周囲に、読書する習慣のある者は一人もいなさそうだったから、出来れば僕も無難にそこに同化していたかった。図書館に通っていることは、言わないようにした。そこに触れられると、うん、たまに行ってる、とだけ答えた。そんな時は、あまりいい気持ちはしなかった。僕は、正体を知られることを怖れているような自分に、むずむずと落ち着かないものを感じていた。

 なんだか、隠れ蓑を着ているみたいだな、と思った。でも、図書館と、図書館の外の世界と、僕にとってどちらの生活が隠れている方なんだろうとも思った。よくわからなかった。


 学校での成績は悪くなかった。高校も、距離的に無理しなくても通える範囲で二番目にレベルの高いところを目指した。合格するためにはちょっと頑張らないといけなかったけれど、塾の先生との面談から、感触としては行けそうだと思えた。中学の担任は、トップ校を目指させようとしているようだった。でも、受験勉強も、入学してから授業について行くのにも疲れそうだったので、僕の心は全くそこに向かなかった。それでも、中三の夏から読書は中断した。息抜きに少しずつ読むには長い物語は不向きだったし、その時の僕からして軽く感じられる短いものには、手を出す気になれなかった。

 勉強に集中するために、図書館には行かなくなった。そこには音楽も本もあって、さすがにずっとその誘惑の中で問題集だけを見つめている自信が無かった。代わりに、受験学年の生徒だけに許されている、塾の授業日以外の自習室使用を活用した。部屋はそれほど広くないし、ぎゅうぎゅう詰めみたいに座ることになるのだけれど、敢えてそんな場所に自分を置いて、受験生である自分を自分に刻印し続けるような気持ちでいた。ただ、それでもたまに、どうしようもなく息苦しくなる時があった。そんな時は、一時間早く切り上げて、少しだけ図書館に寄った。行っても、何を読むわけでも何かを借りるわけでも無かった。ただ、ふらふらと書棚の間を、時折本を抜き出して解説のページを少しだけ覗いてみたりしながら歩いた。湯上りに家のベッドで寝転がって耳に嵌めたイヤホンに音楽を鳴らしながら、あるいはスマホでネットを彷徨いつつとかしながら天井を眺めている時間と、そうして図書館の、微かに空気の流れる音くらいしか聞こえないように感じる静かな場所で、背丈を超える本の谷間をわざと腕をぶらぶらさせたりしながらだらしなく進む時が、僕には一番くつろぐ時間だった。

 そんな時には、普段は寄り付かないコーナーにも入って行った。郷土史の本を取り出したり、地球環境についての、写真が多い分厚い本を開いてみたり、一人一人の分冊になっている美術全集から、僕でも聞き覚えのある画家のものを抜いて眺めてみたりした。

 文学のコーナーは、作者の名前順に並べられていて、それが、立ち並ぶ棚に挟まれた通路三本にわたって続いていた。そして、その隣に、各種の文学全集が並べられている列があった。並んでいる作家名は初めて目にするものが圧倒的に多くて、背表紙を見るだけで何か威厳のようなものを感じたけれど、高校に入ったら、こんな難しそうな人たちの作品なんかも読めるかなと想像したりした。そこを、大人の回廊、と僕は勝手に名付けていた。歴史物ばかり読んでいても、それは文学を読んでいることにはならないのかなという気持ちが、僕の中に生まれかけていた。僕はまだ中学生で、中学生は決定的にまだ子供で、子供の中学生にはまだ早い、「文学」という世界に、高校生になったら踏み込んでみたい気がしていた。だから、僕が当時まだ知らなかった、歴史上の名だたる作家たちの本が並ぶその一列には、なにか、大人の迫力みたいなものが感じられていた。僕の考える「文学」には、最近の、母が好んで読むようなベストセラー小説は含まれていなかった。最低限、作者が死んで、もう今生きてはいないこと、という暗黙の定義があった。そして、何故だろう、彼らの書く物語には、今僕の目の前に展開する日常と、その日常に生きる人たちと同じような人は、登場してはいけない気がした。そんなの、文学じゃない。もっと、何か、かけ離れたところで繰り広げられている物語でないといけないように思っていた。その点では歴史物語もそうだったけれど、そこに出て来るのは「英雄」たちだった。英雄の物語は楽しかったけれど、どこか単純だった。かっこいいけれど、現実の社会から離れた完全な別世界だった。僕にとっては、アニメを見る感覚に近かったのかもしれない。

 僕は、違うものが読みたかった。今僕の周りにいる人たちとはちょっと違う、僕の日常にはいないけれど、決して英雄なんかではない人たちの物語。そこには、まだ僕が知らない何か深い世界があるようで、僕は早くそれと出会いに行きたかった。

 だから、大人の回廊に並ぶ本は、僕にとっては軽はずみに触れてはいけないものだった。まるで、冷蔵庫にしまわれている特別なケーキの入った箱は、さぁ食べようとする時まで覗いてはいけない、みたいな感覚だった。高校に合格したら、いよいよここにやって来て、ようく吟味した上で最初の一人を選び、その人の作品から読み始めよう。そう心に決めていた。

 ちょっとだけ大人に近づく証が、新しい書棚の列に踏み込むことだというのが、僕には素敵にお洒落なことに感じられた。自ら想定したそのイベントへの期待が、気が付くと溜息をついているような受験勉強一色の日々の中で、僕にとってその一列を、心安らぐ特別なエリアに仕立て上げていた。僕はただ背表紙だけを眺めて、毎回そこを歩いた。そして、どの作家の作品も一つも読んだことが無いのに、多くの名前を憶えて行った。そうしてその作家たちがだんだん僕に近寄って来るように感じることが、僕にとっての高校合格証書みたいなものかななんて、青過ぎて恥ずかしくなるようなことまで思い浮かべていた。図書館にいると、そんな風にわくわくする気分になれた。恥ずかしくて、そんなこと、誰にも話せるわけが無かったけれど。

 そして、・・・そんな僕がそれでも目を向けないでいたある一角に、年が変わった二月の半ば、僕は出会った。

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