彼と''彼女’’
それからアリアは、島の各地に行きたがるようになった。
一週間おきにそれを実行に移し、東に西に、最後は北へと向かった。
各地で四季を見ることができ、それに合った花が綺麗に咲いていた。
そのたび名残惜しそうに、花から離れるアリアに、
「摘んで帰ればいい」
と言った。しかし彼女は、
「花は愛でられるために咲いてる、と人は言いますけど、咲きたいから咲いてるだけなのですよ」
と、答えには聞こえない返答が返ってきただけだった。
結局、彼女は花を摘んで帰ることはしなかった。
それにしては、‘報せ’の花は摘んで花冠にする。彼女たちの言動はよく矛盾する。
アリアが島に帰ってきて、二か月が経とうとしていた。
ウッドデッキにあるロッキングチェアに揺られながら、アリアは花畑を眺めていた。
最近、動くことが少し減った気がする。
「先生?」
小さな鈴の音のようなアリアの声がした。
揺り籠の中で、目が覚めた赤子が母を呼ぶような――どこか頼りなく不安げな声色だった。
「どうかしたか?」
風に当たりすぎて体調で崩したのかと、彼はアリアに歩み寄って、その顔を覗き込んだ。
そこには、うつらうつらしているアリアがいた。
意識があるのか、はたまた夢の中での寝言なのか、はっきりしない。
「眠っているのか?」
彼は答えない彼女の、ずれ落ちてしまったひざ掛けを肩にかけなおした。
皺の多くなった顔、その皺が幸せそうに刻まれている。
綺麗に染まり切った白髪が、風に揺れた。
風が通り過ぎる一瞬。たったその一瞬だけだった。彼は小さな違和感を胸に感じた。
彼はアリアの口元に、そっと触れてみる。
小さく吐き出される息と、胸が規則的に上下している様子を見て、彼はその違和感が消失したことに気づいた。
今のは――
『絶対に約束は守るから。私が君を殺してあげる。
だから、それまで君も私の約束を守ってよね。
その時にまた――君を迎えに来るよ』
‘’彼女‘’の最期の言葉が、脳裏をかすめた。
あの時も、こんな胸の違和感を感じたはずだ。
「せんせ……? どこか痛いんですか?」
起こしてしまったらしい、アリアが目をこすりながら首を傾げた。
彼女の目が、彼の右手に向けられる。
「胸が苦しいんですか?」
彼はいつの間にか、自分が胸に手を当てていたことを知った。
痛い? 苦しい?
「俺に痛覚はない」
事実を言っただけだった。
彼はどんなに体が傷ついても、痛いとも苦しいとも思わない。
人間のように、身体的損傷によって死に至ることはないし、そんな損傷も一瞬のうちに回復してしまう。
だから、本能的警告としての苦痛は必要がなかった。
アリアはまだ頭が冴え切らないように、瞳をぼんやりさせながら、小さく首を傾げる。
「体に痛みを感じなくても、心は別ですよ。先生。
悲しいことや辛いこと、不安なことや、怖いことがあったら、心は苦しくなったり、痛くなったりするんですよ」
彼は、アリアの頭をそっと撫でたあと、後ろの花畑へと振り返った。
‘報せ’の花は、まだ咲いている。
アリアが死ぬにはまだ早い。
「中へ入ろう。人間は冷えると、すぐに風邪をひくからな」
彼はそう言って、アリアを横抱きに抱えた。
アリアは大人しく抱えられながら、ふふふ、と笑って彼の頬へと手を伸ばした。
「まだまだ私は死にませんよ。だから、そんな不安そうな顔しないでください、先生」
「不安? そんな顔を俺がしているか?」
「あら、知らなかったんですか? 先生は、先生が思っているよりも表情豊かなんですよ」
不安――そうか、この違和感が不安というものなのか。
不安とは、そのほとんどが恐れからくるものであると、彼は知っていた。
俺はアリアが死ぬことを恐れているのだろうか……
そして‘’彼女‘’が死んだときもまた……そうだったのだろうか――
『君、死にたいんでしょ? 私が君を殺してあげようか?』
――かつて、見捨てられた土地と呼ばれたこの島で、‘’彼女‘’と出会った。
死という概念を持たない彼に対して、開口一番に‘’彼女‘’はそう言った。
たしかに彼は死を望んでいた。決して訪れることはないそれを、その時の彼は一番に求めていた。
だから、見捨てられた土地にきたのだ。
しかし、彼がいくら死を望んでも、世界は彼を生かし続けようとする。
地を這う生き物、空を飛ぶ生き物、植物や挙句の果てには大地まで――
世界は、彼にその生命力を明け渡し、彼を生かし続けた。
大地は枯れ果て、空は濁り、何もない閉ざされた島で、彼はただひたすら死を待ち続けていた。
何年でもそうしているつもりだった。
――そんなときに、‘’彼女‘’は現れた。
『私も死に場所を探してたの。ここなら誰にも邪魔されないだろうし。
よし、決めた。ほら君、早く起きて。
ここを住みやすくするわ。手伝いなさい』
一目見ただけで、異様だとわかる彼に対して、恐れる様子は少しもない。
その上、言っていることが、あまりにも矛盾している。
最初はただの頭のおかしな人間だと思い、取り合うことはしなかった。
けれど‘’彼女‘’は、しつこく彼に話しかけることをやめなかった。
よくしゃべる人間だと思った。死に場所を求めているなら、さっさとどこかへいってしまえばいいものを――と。
あまりにも煩わしいから、この人間が死ぬか、どこかへいくまで一旦眠りに着こうと決めた。
しかし、次に目が覚めた時――いや、‘’彼女‘’に叩き起こされたときには、信じられない光景が広がっていた。
普通の人間が、彼の眠りを邪魔することは出来ない。
そしてこの枯れ果てた土地を、短期間でこうも豊かな土地の戻すことなんて、出来るわけがない。
『やっと起きる気になった? 早くしてくれない? 私、お腹すいちゃったんだけど』
彼は不思議と、もう一度眠りにつこうとは思わなかった。
代わりに、こう尋ねた。
――本当に殺すことができるのか?
『約束するわ。私が君を殺してあげる。
だから、それまで私に付き合いなさい』
そんな言葉、少しも信用してなかった。
なのに、今もこうして、”彼女”のあの言葉を頼りに、”彼女”との遠い約束を守っている。
本当にやってくるのかもわからない死を願って……
“彼女”が遺した、果てしない時間の中を微睡むように。
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