アリとキリギリスと恋
「あらあら、先生はキリギリスなのかとばかり思っていましたのに」
朝。
アリアは、引きずるほど大きなカーディガンを着たまま(着られていると言った方が正しいかもしれない)、家の裏にある畑で彼を認め、開口一番そう言った。
「キリギリス?」
「知らないんですか?」
「知らん。だがいい意味ではないことくらいわかる」
アリアは彼の返答に、ふふふと楽しそうに笑った後、「おはようございます、先生」と眩しそうに朝陽を仰いだ。
そんな彼女を見て、彼もそれに倣う。
彼の目には太陽は眩しすぎるが、何度も彼女たちのそんな仕草を見るたびに、いつしか真似をするようになっていた。
キリギリス。
ああ、アリとキリギリスか。
古い童話にそんなものがあったな、と遅れて彼は気づいた。
「働かざるもの食うべからず」という、言葉も次いで頭に浮かぶ。
″彼女″がよく口にしていた割に、ほとんどを棚に上げていた言葉だ。
彼を働かせるために、口にしていただけだったのだろうが。
そもそも彼に食は不必要であるため、これっぽっちも適応されないのに、″彼女″は事あるごとにそう言った。
そういう意味では″彼女″は、独裁者であったイメージも強い。
聖女としての″彼女″を知らない彼にとって″彼女″は、ただの世間知らずの我儘なじゃじゃ馬にも等しかった。
「まぁ、俺はどう考えたってキリギリスに違いない」
小さな呟きを、アリアは聞き逃さなかったようだ。
「お気に召しました?」
からかうように聞くアリアに、彼は面白くないものを感じて、それには応じず、
「今日のアップルパイはなしだな」
と、ひとりごちる。
「あら、いつのまにそんな意地悪言うようになったんですか?
じゃあ、代わりに私の好物を作ってください」
丁度、そうしようと思っていたところだった。
彼は瞬時に、彼女の好物と「部屋」に残っている食材を、頭の中で照らし合わせた。
◇ ◇ ◇
‘報せ’の花が咲く理由うちの一つは、この島全土に聖女の存在を伝えるためであった。
聖域に守られ、平和に暮らす混血種の人々は、その報せを受け取ると時折、聖女の顔を見にやってくる。
そんな者たちが感謝の意を込めて、贈り物を置いていく――そんな習わしがいつの間にか出来ていた。
アリアの好きなシチューを作ろうと思っていたが、残念ながら肉がもうない。
そう思っていた矢先、タイミングよく混血種の男女がやってきた。
魔族と幻種族の血は、互いに相反する遺伝子により、子を成すことが出来ない。
しかし、そこに半分でも人間族の血が入っていれば、それは話が違ってきた。
人間族はある意味では、三大種族を繋げる要素を持っている。そんな事実に、彼は感心にも似た不思議な感覚を覚えたことがある。
すぐに淘汰されるだろうと思われていた脆弱な種族が、こうして種族を繋ぎ、繁栄させるもたらす楔になっているのだから。
家の中でなにやらしていたアリアを呼んで、混血種の男女を出迎えた。
よく見ると女性は、腕に生まれて間もない赤子を抱いていて、アリアは「あらあら」と赤子を見て微笑んだ。
どうやら聖女に、名付けをしてもらいたくて来たようだ。
アリアの対応は妙に慣れた様子だった。こういうことが、今まで何度もあったのだろう。
聖女は純潔でなければならない――世界では、そういわれているらしい。
純潔を犯されれば、聖なる力は失われてしまう。
勿論、それが虚偽であることを彼は知っていた。
何せ‘’彼女‘’が、そんな些細なことを気にするはずがないのだから。
しかし不思議と歴代聖女は、たったの一人として結婚することはなかった。
それどころか、誰かと恋愛したという話すら耳にしたことはない。
彼は、名づけを頼みに来た混血種の男女と赤子の名を一生懸命考えているアリアを遠目に見ていた。
彼には誰かを好きになるということも、ましてや愛するなんて感情はこれっぽっちもわからない。
幻種族はさておき、魔族や人間は子孫を残すために、誰かを愛する。
それは遺伝子に組み込まれている、本能的な感情に近い。
それが彼の見解であった。
彼はこの世界で唯一で、死ぬことはなく、子孫を残す必要もない。
望めば、眷属を増やすことは出来た。しかし、それはとうの昔にやめたことだった。
だからきっと、永遠に愛という感情を知ることはないのだろう。彼はそう思う。
そして、それに対しても何か感情を覚えることはない。
話を終えたアリアが混血種の男女へと手を振って分かれたあと、彼の方へとやってきた。
その手には、何やら袋が下げられている。
「今日はご馳走ができますね、先生」
中には、鶏肉が入っていた。
これでアリアの好きなシチューが作れる。
家の中へ戻ろうとして、ふと彼はアリアへと向き直った。
「どうかしましたか? 変な顔してますよ、先生」
「アリアは、誰かを好きになることはなかったのか?
聖女だからといって、禁止されてはいないだろう」
すると彼女は目をぱちくりと瞬かせ、ふふふ、とおかしそうに笑った。
彼はその笑いの理由を理解できなかった。
彼女はそのまま彼を追い越して、嬉しそうに家の方へ向かっていく。
彼は怪訝に思いながらも、彼女の後ろを歩いてついていった。
家の扉を開けた彼女は突然、悪戯に成功した子供のような顔をして振り向くと、
「私は十歳のころからずっと、先生のことが好きですよ」
そう言って、花を咲かせたように笑った。
同時に、彼の脳裏に歴代聖女が自分に向けてきた――いくつもの笑顔が蘇り、重なった。
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