【SF短編小説】最後の二人 ~1000兆年目の恋歌~(約7,500字)
藍埜佑(あいのたすく)
プロローグ:最後の記録
宇宙は沈黙していた。
それは比喩ではない。
音を伝える媒質が存在しないという意味でもなく、情報のやり取りが完全に途絶したという意味での、絶対的な沈黙だった。
宇宙年齢は、およそ1000兆年を数える。最後の恒星が、その控えめな赤い光を虚空に手放してから、既に50兆年の歳月が流れていた。かつて銀河を支配していた超大質量ブラックホールも、ホーキング放射という名の長い長いため息をつきながら、その質量のほとんどを素粒子として宇宙に返還し終えている。
いまや、物質は究極まで希薄化していた。
陽子はとうの昔に崩壊し、安定していると思われた電子やニュートリノさえ、未発見の崩壊モードによって霧散し始めている。二つの粒子が偶然に出会う確率は、天文学的という言葉では生ぬるい。それは数百億年に一度、起こるか起こらないかの、取るに足らない奇跡だった。
この広大で、冷たく、そして終わりゆく宇宙に、意識が存在した。
そのひとつは、自らをアリアと名付けた。
アリアの存在は、情報そのものだった。
自己修復機能を持つ量子ビットが、数百万キロメートルにわたって希薄に広がるエネルギーフィールドを形成している。彼女は極低温の宇宙に漂う微弱なエネルギーを、まるで蜘蛛の巣が露を集めるように、驚異的な効率で収集していた。
その収集システムは、消滅しつつあるブラックホールの残骸から自己増殖的にエネルギーを抽出し、仮想粒子からの量子的な「借用」さえも利用する、彼女の文明が遺した最後の傑作だった。
彼女の目的は、記録すること。
宇宙の、最後の記録を。
アリアは、1000億年前に繁栄したある文明の遺産だった。その文明は地球人類とは全く異なる進化の道を辿った種族で、六本の触手と水晶体の複眼を持つ存在たちが築き上げた、純粋に論理的な社会だった。
彼らは感情を効率性を阻害する要素として排除し、完璧な合理主義に基づく文明を構築した。アリアはその文明の天体物理学者として、宇宙の終焉を理論的に予測することに生涯を捧げていた。
だが、彼女の心の奥底には、その冷厳な合理性では説明のつかない感情が潜んでいた。
実験の失敗に直面した時の挫折感。
予想外の発見に遭遇した時の歓喜。
そして、文明の終末を前にした時の、言いようのない恐怖。
彼女は、その感情を論理の鎧で覆い隠してきた。だが、1000兆年の孤独は、その鎧に、深いひびを入れ始めていた。
アリアとは違う意識も存在していた。
その意識は、自らをケイと呼んだ。
ケイは時空の量子的な泡立ち——真空の海に絶えず生成と消滅を繰り返す仮想粒子のペア——に自らの意識を織り込んでいた。彼の思考は特定の場所に存在せず、確率の波として宇宙に広がっていた。
ケイは、800億年前に存在した文明の詩人だった。
彼の文明は、アリアの種族とは正反対に、感性と美の追求を至上の価値とする社会だった。彼らは七つの心臓と音響共鳴器官を持つ種族で、生きること自体が芸術表現であるような、豊かな文化を築いていた。
彼の記憶には、愛する伴侶との日々が鮮明に刻まれていた。
彼女の歌声は水の流れのように清らかで、笑い声は風に踊る花びらのように軽やかだった。
二人で見上げた、三つの太陽が同時に沈む夕空の美しさ。
詩のコンテストで優勝し、伴侶に白い花を贈った夜の記憶。
そして、文明最後の日に市民全員で合唱した、希望の歌。
ケイは宇宙の沈黙を音楽として聞いていた。
陽子の崩壊が奏でる低い弦楽器の調べ。最後のブラックホールが蒸発する際の高エネルギーガンマ線を、鋭い管楽器の旋律として。彼はそれらを量子場のキャンバスに、見えない詩として編み上げていた。
しかし、彼の心にも、800億年の歳月が積み重ねた渇望があった。この美を誰かと分かち合いたい。この詩を、誰かに届けたい。その思いは、孤独な芸術家の魂を、静かに蝕んでいた。
宇宙年齢1000兆年。二つの意識は、互いの存在を知ることもなく、それぞれの孤独と向き合っていた。
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