倶利伽羅峠の戦い その一
月はめぐり、風は変わった。
清盛の逝去から幾月、京の辻では、なお二つの言が交わされていた。
ひとつは二行とひとつの結び、もうひとつは六波羅の女人。
その二つが空気の底に沈み、六波羅の灯は細くとも消えずにいた。
やがてその風は北陸の谷に下り、峠の底で音を持ちはじめる。
寿永二年。
木曾義仲の旗が雪解けの水のように勢いを得て、
道の向こうから次々と山脈を越えてくる。
北陸の風は鋭く、峠の谷は早く暮れる。
平家の列は長く、旗は細く並び、馬は疲れ、蹄は泥に沈む。
それでも、「道を荒らすな」「価を置け」の掟は守られ、
行く先々で怨嗟の声は少なかった。
それが、この戦で保たれた最後の秩序だった。
倶利伽羅峠の戦い
誰かが囁く。
「……富士川の夜も、こんな静けさだったか。」
「馬鹿言え、そんな偶然が二度もあるかよ。」
「けど、鳥でも風でもねぇ。……静かすぎる。」
地が震えた。
最初は風かと思った。
だが、違う。
鼓のような響きが、地の底から上がってくる。
規則的だ。
近づいている。
誰かが、何かを動かしている。
──風が止んだ。
空気が凍った。
山が息を潜める。
だが遠くから来る響きは止まらない。
誰かが囁いた。
「……なんだ、いまの音。」
地の底が大きく鳴る。
最初は風かと思った。
だが、違う。
もっと重い。
蹄のような、腹に響く震え。
「……馬か?」
「いや、あんな数じゃねぇ。」
耳を澄ますと、次の瞬間──地面が波打った。
谷の向こうから風が逆流する。
霧が裂け、火の粉が押し返される。
「風が変わった!」
「待て、音が増えてる――」
誰かが立ち上がる。
誰かが息を呑む。
山の背が、赤く裂けた。
一筋。
二筋。
十筋。
炎が走る。
「……火だ。」
「なんだ、あれは、火が……動いてる……?」
炎。
動いている。
群れだ。
牛の群れだ。
角に、松明。
火が尾を走る。
燃える獣が、闇を裂いて下ってくる。
その数、幾十。
目は白く剥かれ、声を上げ、谷を埋めて落ちてくる。
狂気と炎とが一つになった。
後に人はこれを「火牛の計」と呼ぶが、
その夜、誰もその名を知らなかった。
ただ、焼ける臭いと轟音だけが現実だった。
「牛だ……!」
「嘘だろ、牛が燃えてる……!」
「なんで、火をつけて……!?」
群れだった。
闇を裂き、坂を割って突きくだる。
角に括られた松明が尾を焦がし、
牛たちは狂ったように咆哮していた。
炎の群れが、谷を満たす。
轟音が押し寄せ、夜が崩れる。
「退けッ! 脇へッ!」
「列を割るな、踏みとどまれ!」
「無理だ、来る、来るぞッ!!」
声がぶつかる。
命令は砕け、風と煙に呑まれる。
火の塊が兵を焼き、
鎧が鳴き、皮が裂ける。
「熱いっ、袖が──!」
「鎧が燃える、鎧がっ!」
「斬れ、綱を斬れ!!」
「なんで止まらねぇんだよ!!」
剣が閃き、火が散る。
煙が嗅覚を奪い、目が焼ける。
誰が味方で、誰が敵かも分からない。
叫びと蹄と炎が渦になり、夜の底が崩れた。
「殿を守れ! 下がるな、立て直せ!」
「無理だ、燃える牛が──!」
焦げた牛が崩れ、地が鳴る。
火と血と泥が混じり、谷の底は地獄だった。
兵は倒れ、馬は暴れ、誰も命令を聞かない。
だが、その混乱の中で、誰かが叫んだ。
「まだ道はある! 脇の尾根だ、開いてる!」
その声が、唯一の灯だった。
兵たちは反射のように動いた。
転げるように坂を下り、
互いに手を掴み、押し合い、引き合い、
泣きながら笑って走った。
「捨てるな! 荷を捨てたら終いだ!」
「……へい、分かってる!」
火の帯の切れ間を抜けたとき、
夜風が頬を打ち、
初めて、生き延びたことを知った。
足は震え、手は痺れ、
谷の向こうではまだ炎が唸っていた。
誰も振り返らなかった。
振り返れば、声が戻る気がした。
明け方、霧の上に義仲の旗が浮かんだ。
書記は震える手で筆を走らせる。
「戦は敗れたり。死傷、少なからず。
然れど全軍の潰えにはあらず。兵、半ば帰還の見込み。」
伝令がその文を巻き、泥に足を取られながら南へ走る。
峠には、焦げた綱と折れた槍と、
焼けた牛の匂いだけが残った。
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