第11話 共堕
「ぅ….うぇっ……」
とある居酒屋のトイレ。戸隠紅花は嘔吐していた。彼女はアルコールに慣れていた。吐くことなど、最近はめっきりなかった。明らかな飲み過ぎだった。飲酒量のコントロールなど、毎日のように行なっていた彼女にとって、どこかそれは情けなかった。
「うぇ……こんなに酔うとか何年振り…やっちゃったなぁ…」
吐き気が小休憩すると、彼女は床に座り込んだ。トイレが綺麗な居酒屋でよかったと、心の中で思っていた。呼吸を整えていると、個室にノックの音が響いた。
「紅花…?大丈夫…?」
感情は乏しいが、その言葉からは心配が伝わってくる。九条優は、紅花以上のペースで酒を飲みながら、平然としていた。
「大丈夫…吐いたら落ち着いた。ありがと…あんたお酒強すぎ…」
トイレの扉を開け、相変わらず無表情の…ほんの少し頬に酔いの影響で赤みが刺しているが…優へ紅花は苦笑を向けた。手を貸そうか?と身振りで示す優に、紅花は手を振ることで答える。
席に戻ると、また優は酒を飲み始めた。紅花は即座に烏龍茶を注文する。もうこれ以上飲むのは、無理だった。
「まだ飲む気…?底なしだね、あんた。こんな強い人初めて見たよ…あたしも弱くないはずなんだけど」
「…?酔ってるよ?」
小首を傾げる優。素面よりも若干声音に柔らかさがあるのが、酔いの証拠なのだろうか。それと頬の紅潮以外、変化はない。嘔吐までして、ふらふらとトイレから戻ってきた自分とは大違いだ、と紅花は思った。
居酒屋はピークの時間帯を過ぎ、客たちは帰り始めている。各々騒がしく、または静かに、店から出ていく。それを横目に見ながら、紅花は酔い覚ましの烏龍茶を啜った。
「そろそろ、お店終わり?」
優が周囲の様子を見回しながら、呟く。
「みたいだね。二時までだってさ」
時計は一時三十分を指している。店員たちも帰った客のテーブルの片付けや、締めの作業を始めている。優はグイッと一息にハイボールを飲み切ると、何事もなかったように紅花へ問いかけた。
「じゃあ、出よう」
「そうしよっかー…っと…あ、…あたしやばいかも…」
立ちあがろうとしたら紅花は、自らの足下の覚束なさに驚いた。吐き気は去ったものの、バランスが取れない。明らかに酔いすきだ。いい年をして、情けない。歩ける気がしなかった。
「ごめん、優。肩貸して」
「ん」
短い返答と共に、スーツを羽織った優の肩が差し出される。そこに掴まると、なんとか紅花は歩くことができた。不格好に店を後にし、歩道へと出る。繁華街はまだ夜を満喫してきた。ネオンや、酔っ払いの大きな声や、笑い声、人の歩く音。様々な雑踏が重なる。
「…帰れる?」
肩を組んだまま、優は問いかける。紅花は、考えていた。自分の状態と、今の優との関係と、そして、少しの下心と。
「……ごめん、正直きつい」
こくん、と頷いた優は、少しの間動きを止めた。その後、キョロキョロと周囲を見渡し、何かを見つける。紅花はその様子を見ながら、自分はずるい、と思っていた。
「あそこで休めばいい」
優が指さしたのは、ネオンに輝いた看板。俗にいうラブホテルだ。女同士でこの時間でも問題なく入ることができて、宿泊もできる。水分も幾らでも買えるし、確かにその提案は合理的だった。
だが、紅花は、その前に伝えなければならなかった。それは紅花なりの真摯さだったのかもしれない。または、予兆としての、懺悔だったのかもしれない。
「あー……あたしは、ありがたいんだけど。そのーあのね、優。あたし、女の子と『ヤレる』人なんだよね…だから、さ…」
「ん、構わない」
「えっ」
優のあっけらかんとした返答に、紅花は一瞬呆気に取られてしまう。
「別に、問題ない」
それを見た優は、さらに言葉を続けた。
「いやー、、優のこと、あたし、そういう目で見る…かもよ…?」
この場において押されているのは紅花だった。普段は男女問わず、いくらでも手玉にとって掌で転がして、『楽しんでいた』紅花だが、優に対してはそうはなれなかった。触れれば壊れてしまいそうな、そんなものを感じ取っていたから。
「別に、いいよ」
優は紅花の次の返答を待たずにホテルへ向けて歩き始めた。…
紅花は困惑していた。すっかり酔いは落ち着いた。優は今、シャワーを浴びている。ホテルへ入ると、さっさと紅花に飲み物を押し付けて、シャワールームへと向かってしまった。唐突な再会から、喫茶店での会話までを思い出しながら、紅花は一人困惑する。こんなつもりではなかった。それは本心だった。遊ぶつもりで優を誘ったわけではない。むしろ、踊らされているのは自分の方なのではないか、とさえ思ってしまう。
「シャワー、浴びる?」
バスローブ姿で髪の毛を拭きながら、シャワールームから出てきた優が、紅花に問う。…綺麗だった。綺麗だと、紅花は思ってしまった。普段のナチュラルメイクから、化粧を落とした優は、どこか無防備だ。だが、その美しさに変わりはない。自分のメイクの濃さを思うと、何故だか悲しい気持ちになった。
「浴びる元気ない…かも」
「ん」
また短い返答。ベッドに腰掛ける紅花の隣に、優も腰掛ける。
「あのさ、警戒とか、ないの?あたしに襲われるかもしれないんだよ?」
優は無表情に紅花を見ると、また小首を傾げた。
「ない。紅花だから。構わないって、伝えた」
その仕草と、言葉が、紅花の心のどこかに火をつけてしまった。
紅花は優をベッドへ押し倒した。乾ききっていない優の髪の毛が、ベッドのシーツへ広がる。顔を近づけても、優は無表情のままだ。それが紅花にとって、心を抉って止まなかった。
「あんたはあたしと違って軽い女じゃないでしょ?なんで?なんでなの?」
問いただすように言葉を投げつける。それは紅花の困惑と、欲動と、理性のないまぜになった言葉だった。
「わかった。言い換える」
優はいつも通りの様子のまま、決定的な言葉を口にした。
「紅花だから、構わない。紅花は、わたしと一緒で苦しそう、だから」
紅化の心は、ぐちゃぐちゃになった。見抜いているつもりが、全て見抜かれていた。軽薄さの仮面で覆い隠した内側は、全て優の前では通用しなかった。どこかで、それがわかっていたからこそ、遊びに誘ったのだというのに。何度も抱かれて、何度も抱いて、色んな人と遊んで、それでも満ち足りなかった自分に、優は『満ち足りない何か』を与えてくれると思ってしまっていた。それすらも、優には見透かされているのかもしれない。
プライドなのか。欲望なのか。困惑なのか。それとも、本当に求めていた理想の人なのか。あらゆる感情は渦を巻いて、優を求めるという形に変換された。
荒々しく、唇を重ねる。優は優しくそれに応えた。
「ね、あたし、臭くない…?シャワー浴びてないから…」
「人間の匂いがする、生きてる、紅花の」
ただ夜は、二人と共に深まっていく。…
私はこの二人の運命に確信を持っている。
それは美しく、残酷だ。
春風は、やがて花を散らすものだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます