第4話 赤い橋
深夜、ヘッドライトの明かりに真っ赤な橋が照らされている。水上蓮は、ついに来てしまった、と一人思った。車から煙草とスマートフォンだけを取り出し、橋へ向かう。その歩みは緩やかで、感情を持たない。しかし、彼の脳は荒れ狂うように思考の渦に巻かれていた。
本当に死ぬべきなのだろうか。根源的な問いはそれだった。生きる事は彼にとって苦痛に他ならなかった。生来の自律神経の失調、それに伴う日常生活の困難さは、彼に重い鬱の影を落とした。それは止むことなく、彼を蝕み続けた。今夜、彼は思い出した。この赤い、紅と言った方が正しいのかもしれない、そんな美しい橋を。
橋の中央、最も落差のある位置から、欄干越しに眼下を覗き込む。遥か彼方に、渦巻くような川の流れが見えた。ここから飛べば、死ぬに違いない。そこに猶予はない。生き残る可能性はない。この欄干を乗り越え、体を宙に任せた瞬間、彼の死は決定される。
彼は欄干に身を任せたまま、煙草に火をつけた。アークロイヤルのピニャコラーダが香る。紅茶のようなそれは、今になっても美味しい。余分な煙草は作らなかった。シガレットケースに残っているのは二本だけだ。どちらにせよ、今夜はそれで事足りた。
煙草の紫煙と戯れながら、彼の思考は加速する。死ぬべきか、生きるべきか。飛ぶべきか、引き返すべきか。死にたいのか、生きたいのか。あらゆる問いかけが飛来し、思考の渦を深くしながら、立ち去ってはまた戻る。迷いだ。これは迷いだと、彼は思った。死への恐怖か、それとも生への未練からなのか、それはわからなかった。生は苦痛だ。その答えは変わらない。それでも、この欄干を超えるその一線は、彼に確かな迷いを与えている。
欄干は燃えるように紅い。漆黒の闇に映えるそれは、グロテスクでありながら、どこか美しい。かつて撮ったこの橋の写真を思い返す。彼はそれを大層気に入っていた。だからこそ、今夜ここに来たのだ。彼はここならば選べると、そう思った。
日常は迷いの中にあった。生きるべきか死ぬべきか、その根源的な問いは彼の日常のあらゆる影に息をしていた。それは彼を蝕む呪いに違いなかった。だが、彼はそれを捨てる事はできなかった。生きていたから。彼は、まだ生きているから。
一本目の煙草は、彼に確かな満足感を与えた。フィルターを欄干から落とす。音もなく、ひらりひらりと舞ったそれは、漆黒の闇に飲まれていった。彼自身もここから飛べば、そうなるのだろう。漆黒がすべてを塗りつぶし、残るのはこの夜の静寂だけ。そこに彼の存在は跡形もなく、消える。
思考の渦、迷いの迷宮の最中、彼はスマートフォンに手を伸ばした。言葉を伝えたい相手がいた。SNSを開き、親友…九条優という名に指を伸ばす。そこに彼は言葉を綴った。
『すまない。もう終わりにしようと思う。伝えることを許して欲しい。いや、許さなくてもいい。君には幸せに生きて欲しい。俺は心の底からそれだけを願っている。俺はずっと、人間として君を愛している。これからも。先に逝く。気が向いたら、また会おう』
文字を打ち終えると、彼は彼自身が、迷いのうちに答えを見つけてしまったことに気づいた。もう、後戻りはできないのだ。彼自身が、彼の背中を押したのだ。そして、ここから、彼は彼自身を突き落とす。
思考の渦が消えていった。まるでこの漆黒に呑まれたように、初めから何も無かったかのように。
彼は最後の煙草に火をつけた。相変わらずそれは芳しい香りをもって、彼を癒した。燃え尽きる前に、そう思った。せめてこの癒しと共に、漆黒に溶けてしまいたかった。九条からの返信を待たず、彼はスマートフォンを欄干から投げ捨てた。煙草のフィルターより質量のあるそれも、一瞬で漆黒の闇に飲まれて消える。これで心残りは何もない。生の苦痛は、今夜終わる。死の苦痛を思うのは、彼にとってどうでもいいことだった。経験したことのない苦痛を思ったところで、何の意味があるのだろう。彼の今抱えているものは、生の苦痛と死への生物的な恐怖、それだけだった。
欄干の紅が彼のスーツジャケットに色をつけた。紅を引いたかのように、薄らと黒の上に紅が乗る。どこか美しさを覚えた。選んだ場所がここであることに、彼は安堵していた。間違いでは無かったと、心の中で繰り返す。
煙草が半分ほど燃え尽きた。彼は次に、ネックレスを引きちぎって欄干から捨てた。シガレットケースもそれに続けて。自分の体を、少しずつ闇に溶かすように。
煙草もそろそろ終わる。それは彼の命の導火線に他ならない。左手の人差し指につけた指輪を捨てる。これで彼の身につけているものは、服と、この煙草だけだ。欄干に足をかけ、その上に座った。夜風が心地よく頬を撫でる。暑くも涼しくもない。人肌のように優しいそれは、彼を安心させた。
「さようなら、世界」
誰も聞いていない。闇に消える一言を呟くと、彼は煙草を咥えたまま、欄干から身を投げた。……
最後に残ったのは、音、だけだった。
私が、水上蓮について語ることは、不愉快ですらある。彼はあまりにも投影を強く受け過ぎてしまった。それは物語としての美しさを欠いている。
だが、語らなければならなかった。それだけだ。
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