魔術師の贖罪 〜1888年ロンドン、愛と狂気の錬金術〜
滝澤真実
第1話 禁断の遺産
1888年春、ロンドン。
のちに「切り裂きジャック事件」と呼ばれることになる連続殺人が起こる直前。
リチャード・ヒルリッジはまだ夢にも思っていなかった。自分がやがて悪魔と契約を結び、五人の女性の死に関わることになるとは……。
ロンドンのイーストエンド、スピタルフィールズの霧に包まれた街角に、石畳を踏みしめる足音がこだましていた。
リチャードは革製の鞄を肩にかけ、慣れ親しんだイーストエンドの路地を歩いていた。鞄の中には、前夜のうちに調合した咳止めの丸薬と、熱冷ましの煎じ薬が入っている。
「リチャード!」
呼びかけられて振り返ると、洗濯屋の老婆が手を振っていた。
「こないだの薬、よく効いたよ。孫の熱がすっかり下がったんだ」
リチャードは穏やかに微笑んだ。
「それは良かった。エリーさん、また何かあったらいつでも言ってください」
「本当にありがとうね、リチャード。薬代はいつかきちんと払うから」
老婆の言葉にリチャードは笑いながら首を振った。
「いいんですよ、エリーさん。困った時はお互いさまじゃないですか。気にしないでください」
リチャードが母親を肺の病で失ったのは彼が十五歳の時だった。その時はまだ父の事業はうまくいっていたので、医師にかかる金銭的な余裕はあった。
しかし、薬がなかったのだ。薬の研究がもっともっと進んでいれば、母は死なずに済んだかもしれない。その後悔が、彼を薬草学の道へと導いたのである。
リチャードは毎朝早く起きて、ロンドン中を歩き回った。
ハムステッド・ヒースでタンポポやイラクサを摘み、コヴェント・ガーデンの市場で薬効のある根菜や香草を買い集める。そして小さな作業場兼住宅で丁寧に薬を調合するのが彼の日課だった。
しかし今日は違った。昨夜遅く、見知らぬ男が店を訪れてきたのだ。
コーエンと名乗ったその管財人は、リチャードの大叔父が死去したこと、そしてリチャードがその遺産を相続することを告げた。
「ご都合の良い日をおっしゃってください。グリニッジにある建物をご案内いたします」
コーエン氏は丁寧に言った。
母の死後、父が事業に失敗して自殺をすると、リチャードは貧困の中で天涯孤独の身となった。生前の父から祖父母の話を聞いたことなどなかったし、大叔父なる人物がいたことすら知らなかった。
だからこそ、この突然の知らせは信じがたいものであった。
リチャードが薬の配達のついでにコーエン氏の事務所があるシティ・オブ・ロンドンまで出向いたのは、真っ先に詐欺を疑ったからである。
自宅に戻ると、妻のモナが笑顔で迎えてくれた。
病弱な彼女はいつも青白い頬をしていたが、それでも彼女の微笑みはリチャードの心を温めてくれる。
「どうだったの?」
モナは細い手でリチャードの腕に触れた。リチャードはモナを抱き寄せ、言った。
「どうやら本当に建物を相続したようだ。明日、見に行こう」
モナが目を輝やかせる。
「グリニッジに?」
「そうだ。建物の状態次第では、すぐにでもここを出られるかもしれない」
リチャードにとって、モナ以上に大切なものはこの世になかった。彼女のためならどんなことでもしようと思っている。
このイーストエンドの治安の悪さ、汚れた空気、絶えない騒音は、病弱な妻には良くない環境だった。
一方、グリニッジは天文台や海軍大学がある土地で、とても治安と環境が良い。もしグリニッジで新しい生活を始められるなら、それは願ってもないことだった。
翌日、リチャードとモナはコーエン氏に案内されてテムズ川を船で下った。グリニッジの波止場に着くと、コーエン氏は二人を石造りの立派な建物へと導いた。
「こちらです。もともと一階は店舗だったのですが、大叔父さまは物置のように使っていらっしゃったようです。二階は住居として使えるでしょう」
そう言うと、コーエン氏は扉を開けた。
建物の中は予想以上に広く、薬屋を営むには十分すぎるほどである。ただし、大叔父の荷物が大量に残されており、片付けには時間がかかりそうだった。
「これまでは大叔父が一人で住んでいたのですか?」
リチャードが尋ねた。
「以前は共同研究者の方もここに泊まり込みで研究をされていたそうですが、ここ数年はお大叔父さまおひとりでお住まいだったと聞いております」
「大叔父は研究者だったんですか?」
「ええ。何の研究をなさっていたのかはわたくしにもわかりませんが、さまざまな書物や実験道具をお集めになっていました。この建物と中にあるものすべて、それから二百ポンドほどの現金が、今回あなたが相続するものです」
リチャードは興奮していた。本があれば、薬の調合に活用できる知識が手に入るかもしれない。実験道具も、これまではできなかった調合方法に利用できるかもしれない。
何もかもが夢のようだった。
家の中を歩き回っていたリチャードだったが、不意にモナに呼びかけられた。
「リチャード……」
モナは青白い顔をして、床にしゃがみ込んでしまっていた。リチャードは慌てて駆け寄り、モナの背を抱いた。
「大丈夫か?」
「ええ、大丈夫……少しめまいがしただけよ」
コーエン氏はしばらく心配そうにモナを見守っていたが、やがてリチャードがサインした相続の書類を持って帰っていった。
リチャードはモナをソファに寝かせ、額に手を当てる。微熱があった。
「ちょっと無理をしすぎたのかな。二階の寝室を片付けるから、しばらくここで休んでいるといい。寝室の準備ができたら、もう今日はここに泊まろう。スピタルフィールズの家の荷物は明日こっちに運んでくればいい」
苦しげにうなずくモナを休ませると、リチャードは一人で家の片付けをはじめたのだった。
翌日、イーストエンドの家を引き払って荷物をグリニッジに運び込んだリチャードは、新しい環境での生活をはじめた。
モナの体調が思わしくないことが気がかりではあったが、遺産として受け取った現金を使ってモナを医者に診せることができて、リチャードには調合できない高価な処方薬を買うこともできた。
そのおかげかモナの体調もいったん小康状態になり、リチャードは片付けを進めながら新しい生活に期待をふくらませていった。
何よりもリチャードの心が躍ったのは、看板が設置された時である。
設置された「ヒルリッジ薬店」の看板を見上げながら、リチャードは喜びを噛み締めた。
商品を持って売り歩くのと、こうして店を構えるのでは、まったく意味が違うのだ。
開店の準備で何かと入り用だったために相続した現金はほとんど使い果たしてしまったが、それでもこれからはすべてがうまくいきそうな気がしていた。
リチャードはロンドン市内で素材を集め、薬を調合して店に並べた。販売も基本的にリチャードがおこなった。
当初はモナが手伝ってくれたが、しばらくするとモナはまた体調を崩すことが増えていたのである。
モナに効果のあった処方薬を買ってやるためにも、もっともっと薬を作って売らなければならなかった。
そうなると家の片付けまではなかなか手が回らず、大叔父の膨大な遺品は山積みになったままであった。
とくに一階の奥にある大叔父の書斎だったらしい部屋には、古い書物、実験器具、標本の入った瓶などが乱雑に置かれたままになっている。
引っ越してきて半月ほど過ぎた夜、少し余裕ができたリチャードはようやくその書斎の片付けに手をつけた。
不要なものと必要なものに分類するために、室内の物が何もない一角に荷物を移動しようとして、リチャードはふと手を止めた。
室内の乱雑さからすると、この一角だけ何も置かれていないのは不自然である。
何かしらの意図が感じられた。
リチャードはその一角を丁寧に調べて、壁の一部が他と違うことに気づいた。
ちいさな仕掛けがあり、それを引くと巧妙に隠された扉が開く。
そこには暗い石段が地下へと続いていた。
秘密の地下室……。
リチャードは恐怖で身を引きかけたが、すぐに好奇心が勝った。
ランプを持ってきて暗闇を照らすと、階段を下りる。
そこは小さな地下室であった。
部屋の中央の床には、複雑な文様の魔法円が白いチョークで描かれている。
そして部屋の隅には祭壇のようなものがあり、そこに一冊の厚い本が置かれていた。
リチャードはおそるおそる手をのばし、本を手に取った。
革装丁の古い本で、表紙には『Liber Mundi』と記されていた。
ラテン語で『世界の書』という意味である。
父の事業が順調だった頃は家庭教師が来ていて、リチャードはラテン語も学んでいた。
まさかその知識がこんなところで役立つとは思ってもいなかった。
『世界の書』の著者名は「C. R. C.」とだけある。
イニシャルで済むほど著名な人物が書いた本なのかもしれないが、残念ながらリチャードにはわからなかった。
ページを開くと、ラテン語の文章がびっしりと書かれていた。それが錬金術や魔術に関する内容であることはすぐにわかった。
図解されているのは、星座の配置、薬草の組み合わせ、奇妙な器具、魔法円、不可解な呪文や儀式の手順、そして悪魔だった。
背筋に悪寒が走る。
リチャードは慌てて本を元の場所に戻し、地下室から出ると隠し扉を閉じた。
この発見のことは忘れよう。
大叔父が何の研究者だったのかは知らないが、とてもまっとうな研究をしていたとは思えない。
しかし、上階で苦しそうに咳き込むモナの声を聞いた時、リチャードの心の奥で何かが囁いた。
あの本には、普通の薬草学を超えた何かが書かれているのは間違いない。
もしかしたら、モナを救う手がかりが載っているかもしれない。
リチャードは頭を振った。魔術など迷信に過ぎない。
しかし、妻の命がかかっているとしたら?
その夜、リチャードはベッドに入ってからも眠れずに悶々としながら過ごした。
階下の隠し扉の向こうで、あの本が自分を待っているような気がしてならなかった。
----------
愛する妻を救えぬ焦燥の中、リチャードの手が禁断の書物に伸びる。『世界の書』——その知識は人類にとっての福音なのか。それとも悪夢なのか。
次回「第2話 悪魔の囁き」をお楽しみに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます