第19話 アリストテレス

 それからは歩いた。移動距離が長くなると人間は途端に輝き出す。我々とは体の出来が違うらしい。我々の中の人間学者によると、その代わりに力が弱いらしい。持久力を重視した生き物が人間というわけだ。そのせいか種付けもひどく長いと聞いたことがある。

 さっきから種付けのことばかりを考えている。ゼフィールさんはどうなのだろう。

 あちらこちらで興奮した匂いがする。ゼフィールさんが獣王に立つべき立場であることと、それにふさわしい見識を持つことが示されて、浮足立っている。しかし焦りは禁物だ。まずはこの人を生かさないといけない。そしてその落胤(ルビ:たね)を増やさないといけない。これからたくさんの獣人たちが雌をだしてくるだろう。私は第一にならなければならない。そう決めた。

 人間の謎ルールの一つに、軍隊なら歩きながら歌っても良い、ということになっている。どういう意味があるのかは分からないが、軍に入ってからは、歩きながら歌うことが増えた、普段は本能的に嫌がるものも多いが、今回は自然と口から歌が出た。

”願いを叶える邪悪な七色の光がこの地に降り立った。動物たちの願いは一つ”

”繁栄の願いを邪悪な七色は叶え、我らは人に似せられた”

”東から来た獣王アリストテレス、万学の始祖”

”邪悪な七色を追い払いて獣人の国造る”

 先頭を歩くゼフィールさんは我々のことを良く知っていて、こまめに休憩を入れてくれた。これは嬉しかった。人間が言う恩というものを私達は理解できないが、嬉しいということは分かる、嬉しいことをしてくれるものを愛することもできる。

”獣王アリストテレス、惜しむらくは老いていた”

”その血は失われ、そのうち人間がやってきた”

 ゼフィールさんが、小さく手招きをして私を呼んだ。種付けだろうかと慌てて袴を脱ごうとしたら、違うからなと血相を変えて言われた。違うのか。

「え、じゃあなんなんです?」

「むしろそっちだとなぜ思ったんだ、兵長」

「ゼフィール中尉が仕事をするために必要だと思いました」

 獣王の仕事と言うと人間の謎ルールがでてくるかもしれないので、私は言葉を一部省略してそう言った。ゼフィールさんはなんじゃそりゃと言った後、冷静になるための匂いを出した。人間の中でもゼフィールさんは格別に冷静になるための匂いを発している。そういう性質を受け継いだ仔を今後ばんばん増やさなければならないのだが、人間は不思議とその感覚が分からない。全ての生き物は、みんな同じとアリストテレスは言っていたのだけど。

「良くわからないが、大丈夫だ。いや、呼んだのは仕事ではなくて」

 ゼフィールさんは声を小さくした。小さくしても我々にはなんの意味もないのだが、そのあたりは癖らしい。

「はい」

「さっきから歌っている歌の内容が知りたいのだが」

 私達の言葉は本来、海向こうのアルバに近い。西から来た人間が分からないのは当然だ。でもどうしよう、教えていいのだろうか。

 皆を匂う。皆は大丈夫という匂いを出している。それで私は、ゼフィールさんを見た。

「怒りませんか」

「それについては誓って大丈夫だ。ただ人間の悪口を歌っている割に物悲しい感じだったのが不思議でな」

「むしろなんで人間の悪口だと思ったんですか」

 人間難しいです。

 ゼフィールさんはしばらく考えた後、苦笑した。

「俺ならどう思うかなと思ってただけさ。まあ人間の考えだからな。獣人と違うのは当たり前だ。それで、こそっと教えてくれないか」

「我々としては喜ばしいというか構いませんけど、なぜ知りたがるのです? 私はつが……人間のことを知りたいです」

「なるほど。それもそうだな。説明すると俺は獣人と昔からうまく行ってなくてな」

「ゼフィールさ……中尉以上に獣人とうまく付き合っている人間を私は知りませんが」

「んー。獣人から見ればそうなのかもしれんし、あるいは人間からみてもそういう認識なんだろうが、俺個人は違うんだよ。獣人にはいつも決まって驚かされている」

「私達が人間に抱くのと同じ感じですね」

「おそらくはそうなんだろう。仲良くしたいが、良くわからない相手ってわけだ。つねづね仲良くできればと思っているんだが、そのためにはもっと相手のことを知らないといけなくてな」

 たゆまない向上心をゼフィールさんは持っている。まったくもって好ましい。

 それで私は、教えることにした。

「今の歌は、私達の歴史です」

「歴史」

「はい。文字を作らない私たちに、獣王アリストテレスは歌の形ならば残るからと」

「その名前は聞いたことがある。伝説上の獣人だな。国名にもなっていたとと」

「伝説上の存在ではないですよ。それと、アリストテレスはアルバの人間だったと言われています」

「なんだって?」

 ゼフィールさんはびっくりしている。すぐに冷静になろうとする匂いを出し始めた。考えている。

「まあ、人間は人間でも古代人だからな。だから人間は記録に残してない? いや、今となっては古代人という言い方も変か」

 そんなことを呟いている。

「なんとか生き残って、このことを記録に残したいものだ。いや、普通に記録しただけでは人間による獣人支配の良い材料にされるだけだな。難しい」

 ゼフィールさんは楽しそうな匂いを出しながら考えている。さすが獣王になるだけはある。

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