第二十一話 鳥羽・伏見、旗が折れる音

 慶応四年正月。京の南、鳥羽口から伏見へ続く道は、冬の湿り気を吸いきって重たく沈み、叢の根は霜を抱いて硬く、土は靴裏を少しずつ奪う。夜明け前から漂う川霧は、肩の高さに薄白くたなびき、風が来れば畝のように寄せては返した。

 新選組は会津を主力とする幕府勢の一角に組み込まれ、歩兵・砲兵の列へ交じる。列といっても、寄せ集めの癖は抜けきらない。江戸から上がってきた大筒の据え付けは遅れ、弾薬の配りも帳面どおりには運ばない。伝令が一人、また一人と駆け、戻りが遅れて指示は拍を失った。

 対する薩長は、横隊の幅で風を切る。新式銃を綺麗に揃えて肩に据え、号令は短く、合図は手のひらの角度だけで足並みへ下った。野戦砲は轅をかたく地に噛ませ、口を黒く開けて冷たい息を吐く準備をしている。

 土方歳三は、陣の端で霧の濃い/薄いを読む。濃いほうは銃の照準を外れさせ、薄いほうは号令を遠くまで通す。敵の横隊が一息で押し込みたい隙間は、霧ではなく火線により埋まるだろう。側面迂回の道はどこか、引き込みの線はどこに引けるか。彼は地の皺を目で撫で、まだ踏まれていない草の倒れに指で風を測った。

 小橋の手前で、一斉射。黒煙がのしかかるように前へ落ち、霧の膜に混ざり合いながら一帯の音を鈍らせる。先頭の足が止まった。止まった足は、次の足を止める。列の肩がわずかに寄り、合図を待ち、そこでまた一度、砲が唸った。地面が鳴り、胸骨の裏で水がこぼれ、耳は低い唸りに蓋をされる。先鋒の隊士が二歩、三歩、前のめりに崩れ、泥に白袴が吸い込まれた。


 「押すぞ!」

 近藤勇の声は、霧を割る棍棒のようにまっすぐだった。返す言葉はない。ただ、胸の棒が一本ずつ伸び、足が列で前に出る。だんだら羽織の縞が泥で濃淡を変え、白が灰に、灰が黒に近づいていく。

 沖田総司は、銃列の端へ短い斬り込みを置く。半歩で角度を殺し、刀の腹で銃身を叩き、肘の骨をわずかにずらして、列の端を「端でなく」する。わずかな破れ目を仲間が拾い、永倉新八がそこへ体重を落として楔になる。原田左之助は槍を“見せ”から“押す”へ切り替え、柄の撓みで人を払う。

 だが、剣の歌が十分に伸びる前に、弾雨が歌の行を破る。銃声は拍を持たず、砲声は士気を裂く。踏み止まる意思を、音が、煙が、距離のない破片がゆっくり削る。

 沖田の胸が、内側から縮む。咳が袖に沈み、口に血の味が広がって、視界の白が細くなる。刀の角度はまだ濁らない。濁らないが、息が足りない。

 「総司」

 土方は見ている。

 「――戻れ。ここは線を守る場じゃない。生き残って、線を引き直す」

 沖田は、僅かに頷く。頷く拍の裏で、己の剣の歌が短くなっているのを自覚する。短い歌は、重い。重さは、棒になる。棒は旗を支える。旗は、布に出さない。


 敵陣の背で、色が翻った。

 錦旗――官軍の印。

 旗はただの布ではない。布一枚で、戦の倫理は裏返る。那辺が正で那辺が逆か、誰が大義を握るか。武器でも兵数でもなく、旗の色が戦場の温度を変える。

 麾下の諸隊に動揺が走った。中ほどの列で誰かが、誰かに倣って退いた。退きは、拍を狂わせる。狂った拍は、命令を「遅い」ものに見せる。

 土方は手勢を束ね、秩序ある後退へ切り替える。整えた足で下がることは、前へ出ることより難しい。間合いを計り、交互に膝を抜き、背中に視線を置きながら、道の縁を探す。

 「局長!」

 手旗が振られ、近藤が歯を食いしばってうなずく。

 「退くは、整えるため!」

 声は、砲の腹で潰れ、泥に落ち、僅かに足の裏で拾われる。


 伏見街道を北へ。民家の軒下に負傷者が呻き、破れた障子から火の舌が上がる。逃げ支度を急いだ家の土間に、米の匂いと濡れた薪の匂いが混ざる。女の呼ぶ声が遠のき、男の荒い息が屋根裏で止まる。

 新選組は殿を務める。追撃の銃声を遮るために、短い距離を交互に走る。走れば、足は熱い。熱い足は、冷たい判断を運びやすい。

 「副長、まだやれます」

 沖田は息を整え、笑いの形だけ口に乗せた。

 土方は、首をわずかに振る。

 「線を守る場じゃない。生き残って、線を引き直す」

 線は地図の上だけで引かない。人の胸の棒で引く。棒が折れれば、線は消える。折らせないために、今は退く。


 一日が終わる。

 また一日が始まる。

 兵の顔は煤と疲労で同じ色になり、眼の白さだけが人の温度を示す。湯は足りず、飯は薄く、睡眠は短い。短いが、拍は合わせる。拍が合えば、旗は折れない。

 だが大勢は、変わらなかった。薩長の新兵装と統制は、旧式の戦法と気構えを上から押し潰していく。横隊の端から端へ、火線が早く、平に走る。

 銃は刀を侮らない。刀も銃を侮らない。だが、間を掌握する者が勝つ。今日の間は、銃の側にあった。

 ついに下知が下る。

 「全軍、大坂へ退く」

 合図は短く、容赦がない。

 夜半、川面に風が下り、霧が薄くなった。京の灯が遠ざかる。遠ざかる灯を、誰もが胸の奥で音に変えた。折れる音だ。剣でも骨でもない。旗の芯に通っていた“正当”の感覚が、ぴしりと折れる音だった。


 大坂城下。

 城の石垣は大きく、堀の水は冷たい。だが、ここにも噂が先に着いていた。鳥羽・伏見で官軍の錦旗が翻ったこと、退く列の乱れ、幕府の大名旗の影が薄くなったこと。

 「大政奉還」の四字が、京では低く囁かれ、ここでは声になった。政を返したからといって、戦が返るわけではない。返らぬ戦が、名だけを先へ走らせる。名が走れば、責めの皿が用意される。皿の数だけ、紙が増える。

 土方は、紙を増やした。『行軍表 改』『弾薬配当覚』『退却路要点』『殿軍交替式』。紙は刃ではない。だが、刃の鞘だ。鞘が増えれば、抜き所は正確になる。

 近藤は、城中へ参じる支度をし、名の器に誠の字を太く書く練習を続けた。武家の列に並ぶことを、彼は恥じなかった。恥じないだけでなく、誇りとした。

 「われらは、誠を守り抜いた。――その証である」

 彼の言は、棒だ。棒は旗を支える。

 土方は、棒の影を見た。

 「幕府は揺れている。いずれ崩れる。誠を背負うわれらは、その崩れに巻き込まれる。巻き込まれるなら、最後まで戦うしかない」

 戦う、とは、斬るだけではない。退く、待つ、運ぶ、隠す、燃やす、締める。すべてが戦で、すべてが最後に刃を置くための順番だ。


 沖田は、天守を遠く眺める位置の長屋で、息を整えた。

 「……胸が、狭いな」

 独り言は、笑いの型で口に乗り、咳で途中から点になる。

 稽古に集まった若い隊士に、彼は木刀を渡す。

 「半歩。歩を、置く。置いてから斬る。斬る前に、置く」

 彼の教えは、剣術であり、同時に生き抜き術だった。

 「斬ることより、斬らないことのほうが、強いときがある。――今日みたいな日」

 誰かが「でも、官軍は強いです」と言い、別の誰かが「旗が違います」と言った。

 沖田は頷いた。

「旗は星みたいなものだよ。掴めないけれど、見失うと道をなくす」

 彼は、庭の向こうの空を見上げた。昼の星は見えない。見えない星は、想像でしか位置がわからない。想像で歩く道は、危うい。危ういと知って歩くのが、武士だ。


 城下の空気は、逃げ支度と言いわけでできている。

 御用の荷駄の列は行き先を言わず、雑兵の笑いは短く、鉄砲の手入れは丁寧で、槍の柄巻は新しい。新しい柄巻は、希望の匂いと不安の手触りを同時に持つ。

 永倉は、槍の柄を握る原田の肩を小突いた。

 「押し返せるか」

 「押すさ」

 原田は笑い、肩の骨で「道」を示す。

 「押して、道を作る。――退くにも道が要る」

 斎藤は銃の点を見続け、刀の点と入れ替える手順を整える。

 「点の手前に、呼吸を置く」

 「お前はいつも、呼吸が短い」

 永倉の冗談は、皆の肺に少し温度を戻した。


 日が傾く。

 堀の水面が灰色に変わり、城の影が長く伸びる。

 土方は、最後の確認をした。

 「退く路、二。捨てる荷、三。合図、一。殿は交互。――入口は風のために開け、出口は人のために閉じる。閉じるは封ずるに非ず。選ぶこと」

 選ぶには、痛みが要る。

 痛みは、旗の布の裏で鳴る。鳴く木は折れる前に鳴く。人も、折れる前に鳴く。

 彼は覚え書きに、短く足した。

 『旗之芯 折音心得』

 ――「折れる音は、耳で聞かず、胸で聞く」

 ――「聞こえたら、棒を増やす」

――「棒は、人」

 ――「人は、疲れる」


 夜。

 川面の風は冷たく、京の灯は遠い。遠ざかるほど、光は鈍い音に変わる。

 坂を下る足、橋板を渡る足、舟板を叩く足。足音は多いのに、話し声は少ない。少ない声は遠くまで届く。

 「官軍は、錦だ」

 「錦なら、正だ」

 正と不正が旗で決まる世は、剣で決まる世よりも残酷だ。剣は人に向かう。旗は、心に向かう。心を折る音は、骨の折れる音より静かで、長い。


 城内の一室で、近藤は短い眠りを試み、すぐに目を開けた。

 眠りは、兵の贅沢であり、指揮の負担だ。

 「局長」

 土方が入る。

 「江戸へ戻れ、という声がある」

 「戻って、何をする」

 「名で持つことはできる。旗は、内にも立てねばならぬ」

 近藤は、短く笑った。

「名は器。器は、顔をよく見せる。顔は、旗の内にも外にも要る」

 言葉は正しい。正しいほど、重い。

 土方は頷いた。

 「ならば、器を持つ腕を、京でつくる。――わしはここで、棒になる」

 棒は旗を支え、支えたまま折れることもある。折れることを知って、なお支える。それが、土方の誠だった。


 その夜半、城の石垣が冷え、堀の水が音を失った頃、風向きが変わった。

 誰も口に出さないが、皆が同じ方向を見た。

 終わりが、近い。

 終わりは破滅ではない。形の変わり目だ。

 新選組という形は、恐怖と規律で保たれながら、なお、旗の芯で音を立てていた。

 その音が、折れる音へと変わる瞬間を、彼らは耳ではなく胸で受けとめる準備をしていた。


 翌朝、空は乾いた氷の色で、霜が草の先に細い刃を生やした。

 京へ戻る道は閉じられ、大坂の港へ向かう道が開いた。船の準備が進み、荷駄の列が順番を待ち、諸隊の旗がいっときだけ風で同じ方向を向いた。

 「――出る」

 土方の声は短く、冷たく、棒に近い。

 新選組は列に連なる。列の拍は揃っている。揃っているが、軽くない。軽くない拍は、重い覚悟の音を立てる。


 舟板のきしみが、胸の板で反復されたとき、沖田が小さな声で言った。

 「副長」

 「なんだ」

 「誠は、一つになるたびに、少し小さくなる気がします」

 土方は答えなかった。

 答えの代わりに、旗の布の裏に指を当てるように、心の棒を握り直した。

 小さくなるものは、濃くなる。

 濃くなるものは、滲みに強い。

 滲ませぬために、紙を増やし、座を広げ、顔を並べ、銭を動かし、柱を立て、屋根を支え、最後に刀を置く――これまで積み上げた順番のすべてが、これからの敗戦においてこそ試される。


 堀の外から、風が一度だけ高く鳴った。

 それは、誰の耳にも届かないほど小さい音だったのに、皆の胸の裏で同じ折れを合図した。

 旗が折れる音――布が裂ける音ではない。芯が軋み、棒がしなり、しかし折れずに鳴る音。

 鳴きが終わったとき、彼らは前を向いた。

 勝ちの設計は遠く、負けの整えは近い。

 ならば、整える。

 整えながら、道をつなぐ。

 つながる道が残る限り、誠は、星のように見える。掴めず、しかし、見失えば道をなくす――その言葉は、土方の胸で、今日も冷たく光っていた。


 港のほうへ、朝の光が斜めに差した。

 船の上で、縄の結び目が一つ一つ固められる。

 井上は結びの数を増やし、島田は肩で荷の角度を直し、永倉は拳で拍を作り、原田は槍の柄を短く持ち、斎藤は銃の点を呼吸に合わせ、沖田は半歩を膝の裏に隠した。

 近藤は、名の器を胸に納め、刀の紐を締め直した。

 「行く」

 声は短く、よく通った。

 短い声の行き先に、長い道がある。

 その道の上で、彼らの足音は、終わりの鼓動と同じ拍で鳴りはじめた。

 旗は折れたか。

 ――折れた。

 では、終わったか。

 ――終わっていない。

 折れた旗の芯の代わりに、胸の棒が残っている。棒は、旗を支える。支える棒は、最後に折れる。それまで、歩く。歩きながら、次の形のために、拍を絶やさない。

 その拍こそが、彼らの誠の最後の、そして最初の証だった。

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