1 永続不変のメモリー

 1993年5月10日、午前7時45分頃。

 視界が真っ白な世界から再び元に戻った時、フィスティールの手には硬い物を掴んでいる感覚があった。それは、直前まで握りしめていた懐中時計のものではない。見れば、彼女の手には洗いかけの食器が握られていた。更に周囲を見渡せば、彼女が立っているのは自室ではない。屋敷のキッチンの一角にある流し台の前に彼女は立っていた。その光景を、彼女は既に知っている。

「急がないと……!」

 壁掛け時計を見る必要もなく確信する。フィスティールは、時間を遡ったのだ。

 彼女はアンを見送った後、食器を洗っていた時間に跳んできた。本当はアンが家を出る前まで時間を遡りたかったのだが、残念ながらそれは不可能だ。単純に懐中時計の性能が足りない。

 既にアンは友人の家に向かってしまっている。友人とともにアンが攫われたことも考えられるが、その可能性は低いとフィスティールは考えていた。

『っフィー……私1人のために来ちゃだめ!殺されちゃうよ』

 アンの悲痛な声を思い出す。その嘆願を思い起こせば、得体の知れない苦しみが胸を襲った。だが、今は苦痛に顔を歪めている場合ではない。アンは、私1人のために、と言ったのだ。この発言から、彼女は1人で攫われたと考えるのが自然だ。であるのならば、どの時点でアンが襲われたのかも見当がつく。

 洗いかけの食器を置きっぱなしにして、エプロンを首に掛けたまま屋敷を飛び出す。あの懐中時計を持ち出す必要はない。その時間が惜しい上に、何より今はまだ使えない。

 朝の日差しが降り注ぐ中、エプロンをした侍従が舗装された道を駆け抜ける。その勢いは凄まじく、踏み出す足は軽やかかつ力強い。優雅でいて剛健。彼女のブロンドの髪は走る勢いで涼しげになびく。それは吹き抜ける一陣の風の如き身体の駆動であった。

 目指す場所は分かっている。ユグミツァ家からアンの友人の家の間の道で、アンは攫われたはずだ。幸いにもその間の距離は短い。フィスティールが全速力で駆け抜ければ、すぐにアンに追いつくことができるだろう。

 屋敷を出て二つ目の角を左に曲がる。その先で、1人の少女を見た。後ろ姿から分かるワインレッドの髪をした少女は間違いなくアンだ。彼女に駆け寄ろうとして、迫る異変に気付いた。

 一台の黒い車がアンの側に停車した。嫌な予感が脳裏をかすめ、踏み出す脚に一層力がこもる。

 車の後部座席から1人の男が降りた。覆面をしていて大柄で、小さな少女など片手で持ち上げられそうなほど体格がいい。その男はアンの前に立ち塞がり、丸太のように太い腕を伸ばそうとして——。

「お嬢様に、触るな————!」

 フィスティールが2人の間に割って入る。彼女は流れるように男の腕を取り、走る勢いそのままに男の体を持ち上げた。華奢な体躯から想像できない怪力は止まることを知らず、男を背中から地面に叩きつける。極東の武道では背負い投げと呼ばれるその投げ技は、鮮やかに外敵の意識を刈り取った。

「っ、待て!」

 男が降りてきた車が走り出す。仲間がいたのだ。運転手はフィスティールを見るなり一目散に逃走を図る。それを止める手立ては彼女にない。静止も虚しく、車は仲間を見捨てて何処かへと去っていった。

 フィスティールはそれを苦々しく見送ると、呆気に取られているアンに駆け寄った。

「お嬢様、お怪我はありませんか⁉」

「フィー……うっ……ひっく……怖かったよお……!」

「もう大丈夫です。私がお側におります」

 アンが堰を切ったように涙をこぼす。それは、見ず知らずの男に攫われそうになった恐怖と、頼りになる侍従が駆けつけてくれたことによる安心感が混濁した涙だった。

 アンを抱き寄せ、彼女の頭を大切に撫でる。フィスティールの胸に顔を埋めたアンからは、彼女の表情は見えない。努めて、見せないようにしていた。フィスティールの表情には、時間を遡ってアンを救い出したことによる達成感など微塵も浮かんでいなかった。あるのはただ、守るべき主人を危険に晒した無力感と罪悪感。それらを覆い隠すように、彼女は守り抜いた小さな命を強く抱きしめていた。

 

* 

 

 程なくして警察が車両に乗って駆けつけた。

 連絡手段を持たずに外に出たため、アンが近隣の住人に警察を呼ぶように頼んでくれた。フィスティールはその間、男が意識を取り戻しても逃げ出さないように見張っていた。

 現れた車両は2台。そのうちの1台から降りた警官2名が倒れている男を持ち上げて、車両の中に連れ込んだ。もう片方の車両から降りてきた警官は、現在フィスティールとアンから事情聴取を行っているところだ。

「詳しくは署の方でお伺いしますが、その前に現場を交えて幾つかお聞きしたいことがあります」

 艶のある茶髪をした男の警官は、ポケットから警察手帳を取り出した。

「私はルキウス・アイドット警部。よろしくお願いします」

 ルキウスの淡い緑の瞳は理知的な光を帯びていた。見た目は若く、20代で警部という役職に就いているのだから相当優秀なのだろう。

 その彼が、警官というのも相まって怖く見えたのか、アンはフィスティールの後ろに隠れて、覗くようにして彼を見上げた。

「大丈夫。僕は正義のヒーローさ。怖がらないで」

 そんなアンの様子に気付いたルキウスは、しゃがみ込んで彼女の目の高さに合わせ、爽やかな笑顔を向けた。整った目鼻立ちは人好きのしそうな顔だ。

「君が僕たちを呼んでくれたんだって?とても賢いね。誰でもできることじゃない。あ、そうだ。飴ちゃん食べるかい」

 そう言ってルキウスは何処から取り出したのか、ピンクの包み紙に包まれた飴玉をアンに差し出した。その飴玉を見たアンの表情が僅かに高揚する。

「あ、これ……魔女っ子ミミちゃんの飴だ」

「甥っ子がハマっててよく持ち歩いているんだ。君もミミちゃんが好きなんだね」

「うん、好き。飴ちゃんありがとうございます」

「これはこれはお礼までご丁寧に。でも礼には及ばないよ。これは君の頑張りに対する正当な報酬だからね」

 ルキウスは飴を手渡すと、再び立ち上がってフィスティールに向き直った。

 先ほどの飴の包み紙に描かれていたキャラクターは、魔女っ子ミミちゃんという架空のキャラクターだ。お菓子メーカーが自社製品の宣伝のために創り出したキャラクターで、可愛らしいイラストが主に幼い少女に人気となった。そこから芋蔓式に子供の両親にも認知されてその売り上げが勢いよく伸びている商品なのだとか。

「では改めて確認しますが、貴女がフィスティールさんで、そちらのお嬢さんがアン・ユグミツァさんですね」

 ルキウスの柔らかな表情が一変して真剣なものになる。人好きしそうな顔立ちは、相対した者の懐に入りやすい。彼が意識しているのか定かではないが、そういった点でルキウスは警官に向いているらしかった。

「はい。私は現在、こちらのアンお嬢様と、ユグミツァ家の主人であるライアン様に仕えております」

「仕えている……つまりは身の回りの世話をする使用人ということですか」

「その認識で相違ないです」

「ご主人のライアンさんは今どちらに?」

「今朝から急用で米国の方へ向かわれております。多忙な方ですので、連絡を取ることは難しいかと存じます」

「ちなみに、ライアンさんのご職業は?」

「聖職者です。かの大聖堂を管理している団体にコンタクトを取れば、確認が取れるはずです」

 ライアンの職業は、表向きは聖職者ということになっている。それ自体は決して間違いではない。公的な書類上でも、彼の仕事は聖職者と記載されている。ただ、その実態が公には明かせないものなのだ。

「アンさんは小学生ですよね。どちらの学校へ通われているのですか?」

「小学2年生です。お嬢様は、ここから最寄りのサン・ブリアンヴィア小学校に通われております」

「そこへ通学する途中で見ず知らずの連中に攫われそうになった、と」

 ルキウスの言葉に頷く。

 ここまでのやり取りで、フィスティールには不思議なことが1つあった。それは、ルキウスがメモを取るといった証言を記録する行為を一切行わないことだ。フィスティールが警察から事情聴取を受けるのは初めてのことだったが、警察が相手の話を記録しないということには流石に違和感を覚えた。それではまるで記録など必要としていないようではないか。

「事件のことについてお聞きします。まず、この道路を歩いていたアンさんの側に黒い車が停まった」

「はい」

「その車から男が降りてきて、アンさんを連れ去ろうとしたところで、貴女が駆けつけた」

「はい」

 フィスティールの肯定を受けて、ルキウスは眉毛を寄せて疑問を浮かべた。

「貴女は何をしにこちらに向かってきていたのですか?」

 ルキウスの疑問は至極真っ当なものだった。アンを追いかけていたら偶然誘拐現場に立ち会った、大抵の人間はそう考える。であれば、何故フィスティールがアンを追いかけていたのか疑問に思うのは当然の帰結と言える。

 この問いにフィスティールは答えを悩んだ。真実を話すのならば、アンが攫われる未来からやって来てそれを阻止しようとした、と話すことになる。だが、こんな話はルキウスにしてみれば眉唾物だ。人外の傑物・怪物が跋扈する教会のエクソシストたちならまだしも、ルキウスは一般社会に属する警察官だ。過去へのタイムスリップなど信じるに足らない、それどころか、世迷言をほざくフィスティールを疑ってかかるかもしれない。そこまでの危険を冒してまで真実を話す気にはなれなかった。

「それは……」

 答えに窮するフィスティールに、ルキウスが怪訝な視線を送る。

「フィーは忘れてたハンカチを届けてくれたの」

 困っている彼女に助け舟を出したのはアンだった。アンの手には、涙を拭くためにフィスティールが手渡したハンカチが握られていた。

「フィーというのは、フィスティールさんのことだね」

「うん。フィーったら心配性で、ハンカチなんか忘れてもなんとかなるのに、私が困っちゃうって思って届けてくれたの。でもフィーは恥ずかしがり屋さんでもあるから、ね?」

「ええ、はい……。自分でもどうかと思うぐらい心配性で、それで言い淀んでしまい……」

 嘘である。否、アンのことは常日頃から心配しているが、何事にも気を配ってしまう程ではない。

 言葉を探していたフィスティールを見かねて、アンが話をでっち上げてくれたのだ。アンはあの懐中時計が時間を巻き戻せることを知らない。にもかかわらず、彼女は見ず知らずの男に襲われそうになったばかりでまだ恐怖が拭えていない状態で、フィスティールを気遣った。それに加えて、アンの頭脳はフィスティールよりも冴えていた。

 幼い少女の、それも被害者の言葉というのもあり、ルキウスは、

「なるほど、それは心配しますよ。アンさんが大切なんですから」

 と納得してくれた。

 窮地を救ってくれたことに礼を言うわけにもいかず、フィスティールは心の中で彼女に頭を下げた。

「駆けつけた貴女は男を投げ飛ばし、車の運転手は仲間を見捨てて逃走した」

「大まかな流れはその通りです」

「その……大柄な男を投げ飛ばしたんですよね。貴女が」

 ルキウスは視線で不信感を投げかけた。そうしてしまう程にフィスティールと男との体格差は歴然で、彼女の見た目は標準的な女性のものに見えて仕方がない。

「お嬢様をお守りするための護身術です。今回は不意をつけたのもあって、腕をこう……」

 エプロンを付けた女が身振りで投げ技を再現する。その不思議な様子をルキウスはなんとも言えない表情で観察した。

「なる、ほど。……ひとまず呑み込みます。襲ってきた男に面識は?」

「いえ、ないです」

「アンさんはどうかな」

「知らないです」

「運転手については?」

「少し離れていましたし、車窓越しでしたのでなんとも……」

「なるほどなるほど……」

 ルキウスは頷きながら質問を続ける。そこにはやはり、記録という行為が見当たらない。

「逃走した車について覚えていることはありますか?」

「そこの交差点を右へ。車には疎いので車種は分かりませんが、黒い中型車でした。ナンバープレートはAC360RSだったと思います」

「ナンバーが分かれば車両が見つかるのもすぐでしょう。お手柄です。……大方の状況は分かりました。あとの詳しいところは署でお聞きします。どうぞ、車に乗って下さい」

 彼に促されるまま、アンと一緒に車の後部座席に乗り込む。

 席に腰をかけてようやく、フィスティールの心を安心感が包み込んだ。これで事態は解決に向かうという期待も乗せて、車は警察署を目指して走り出した。

 

 

 警察署での事情聴取を終え、屋敷に帰って来る頃には空は茜色に染まっていた。一日中警察署にいたため2人とも疲れており、とりわけアンは慣れない環境で緊張したのもあってぐったりした様子だ。

 玄関の扉をくぐると、ベレトが出迎えてくれた。

「災難な一日であったな。——うぐっ!」

「ベレちゃん、ただいま!もうへとへとだよ」

 アンはベレトの姿を見た途端、彼の白い身体に抱きついた。

「あぁーベレちゃんふわふわー。天国みたいー」

 頬ずりする彼女の顔はとろんと蕩けていく。緊張から解放されたのも相まって、その抱き心地が無類のものなのだろう。

「お嬢様、ベレト様が困って——」

「よい。これはこれで悪くない。それに、余は幼子の戯れに本気になるほど狭量ではない。さあアン、存分に余を愛でるがよい!」

 その言葉を皮切りに、アンの戯れが加速する。

「はあ……ベレト様がそう言うのであれば……」

 無防備なアザラシの赤ん坊が、あどけない少女と戯れあっている。その光景を見てようやく、帰るべき場所に帰って来た気がした。

「お嬢様、せめてお手洗いをして下さい。私は夕食の準備をいたします。今日は遅くなってしまいましたので簡単なものしか作れませんが、どうかご容赦下さい」

「はーい。もう、そんなにかしこまらなくていいのに」

「いえ、そういうわけにも。お嬢様は私の主人ですので」

 アンは納得がいかないといった表情を浮かべていた。彼女の気持ちはありがたいが、主従関係を蔑ろにすることはできない。

 夕食を終えた後、アンは湯浴みを終えてすぐに自室に戻った。慌ただしく過ぎた1日に疲れたはずで、何よりも怖かったに違いない。8歳の少女が全ての状況を受け止めるには苛烈過ぎた。彼女の思慮深さは時として毒にもなり得る危険性を孕んでいる。自室でゆっくり休めているといいが——。

「ベレト様、本日はありがとうございました」

 フィスティールはベレトの部屋にいた。彼女は彼に向かって頭を下げる。

「ああ、先ほどのことか。あの娘は1人で抱え込むきらいがある。壊れぬよう気を配っておけ」

 尊大な物言いの中には、彼なりの配慮が含まれていた。その見た目との不一致に苦笑してしまう。

「そのこともですし、今朝賜った助言についてもお礼を申し上げたく……」

「よい。其方も大義であったな。フィスティール」

「いえ、私は貴方様のお言葉がなければ、あの懐中時計を手に取らなかったかもしれません……」

「そう謙遜するな。どんな罪業を抱えようと、その手で救えるものがある限り、其方は踏み出したであろうよ」

 彼のその言葉に、心が少しだけ痛んだ。その痛みは、彼の言った在り方を体現できている自信がないことに起因している。

「して、事の顛末はどのようになった」

「警察は、お嬢様を誘拐しようとした輩の足取りを未だ掴めていないようです。こちらについては引き続き捜査すると共に、この屋敷が襲われる危険性も考慮して、犯人確保まで屋敷の前に警官を常駐で配置してくださることになりました。お嬢様も、事態が収束するまでは学校への登校を控えて頂く運びとなっています」

 フィスティールたちにできる事はほとんど残っていない。あとは捜査の進展に応じて情報提供を求められればそれに応える程度。

「そうか。屋敷を守るのであれば、アンも安全か。……ふわあ。眠くなってきたな。余は眠るとしよう」

「失礼します」

 ベレトを両手で抱えて、ベッドまで連れていく。

「それではごゆっくり、お休みくださいませ」

 返答はなく、彼は代わりにヒレをパタパタと動かした。

 ベレトの部屋を出て、アンの部屋へと向かう。ベレトから気を配るよう助言を受けたのもあるが、何よりフィスティール自身、アンがしっかりと休めているか心配していた。

 アンの部屋の扉を、音が最小限になるようそっと開ける。

 部屋の明かりは消えていて、アンはベッドで横になっていた。静まり返った室内の中で、微かに何かが擦れる音が聞こえる。

「眠れないのですか」

「フィー……。うん、なんだか目が覚めちゃって」

 身体を起こしたアンに近付いて、ベッドに腰掛けた。

「大丈夫です。お嬢様が眠りにつくまで、私がお側におります」

「……ありがとう」

 再び横になった彼女の髪にそっと触れる。その艶やかな感触は、フィスティールの冷たい手には過ぎたもののように思えた。

「ねえ、フィー」

「なんでしょうか」

 アンは目を閉じたまま尋ねる。

「どうしてあの男の人は、私を連れ去ろうとしたのかな」

 その問いかけの意味するところは分かった。ただ、深謀遠慮な彼女が意図していることまでは把握できない。

 少し間を置いてから、フィスティールは口を開いた。

「それは、考えても分からないことです。警察の方々の領分でもありますし、私たちにできることは何も。ですので、今はしっかりと休むのがよろしいかと。……万が一、お嬢様に危険が迫ったとしても、私が必ずお守りします」

 その言葉を受けて、アンはつぶらな瞳をフィスティールに向けた。

「絶対守ってくれる?」

「ええ、約束します。安心して目を瞑って下さい。私はお嬢様の側におりますので」

「うん、わかった……。おやすみ、フィー」

 アンの感じた恐怖はいかほどのものだったろう。時間を遡る前のことを思い起こす。悲痛に歪んだあの声は、フィスティールがもっと注意を払っていれば聞かずに済んだ筈だ。

 自身の至らなさに、苦々しく歯噛みする。

 その自責の念を振り払うためにも、フィスティールは小さな主人を守り抜くことを暗黙のうちに誓った。

 

 

 翌日、フィスティールは調理場に置いてある冷蔵庫の前で思案していた。冷蔵庫の中身は少なく、買い物をしなければ心許ない。本当は昨日買い足しておくつもりだったのだが、生憎とそんな暇がなかった。その結果が今の有様である。

 買い物に行くにしても気がかりなことがあった。外に出る危険性を考えると不用意に外出する訳にもいかず、かと言って外で警備している警官に護衛してもらうのも屋敷の守りが手薄になってしまう。

 どうしたものかと知恵を絞っていると、屋敷のチャイムが鳴った。来訪者を告げる音は、しかし心当たりがない。外で警官が見張っているため、不審な者でない筈だが——。

 駆け足で玄関へと向かい、扉を開けた。

「どうも、おはようございます」

 爽やかな笑顔の男が出迎えた。その人好きのする見た目は昨日も見たものだ。

 和かに登場したのは、ルキウス・アイドット警部。

「昨日のことについてお聞きしたいことがあるのですが……おや、どうかしましたか?」

 予期せぬ来訪者に目を白黒とさせるフィスティールを見て、彼はきょとんとした顔を浮かべた。この時、フィスティールは驚きと同時に、直前の問題を解決する妙案を思い付いていた。

「あの、頼みたいことがあるのですが」

 

 

 フィスティールは後ろ向きに流れていく景色を車窓越しに見ていた。

 昨日乗ったとはいえ、やはりこの車内は落ち着かない。

「頼んでおいて何ですが、本当によろしかったのでしょうか」

 耐えきれず、そんな言葉を口にした。

「はは、大丈夫ですよ。フィスティールさんの懸念はもっともです。私がスーパーまで連れて行けば貴女も安全でしょう」

「申し訳ないです。無理を言ってしまって」

 前に座るルキウスの表情は見えないが、苛立っているわけではなさそうだ。

 フィスティールが頼んだのは、ルキウスに行きつけのスーパーまでの移動手段となって貰うことだ。そうすることで、屋敷を警備している警官をそのままに、フィスティールも安全に買い物に行くことができると考えたのだ。無茶な頼み事であることは承知していたが、彼はこれを快く引き受けた。勿論、それが純粋な善意だけの行為でないことは、フィスティールも理解している。

「それに、ちょうど良かったのですよ。屋敷だとアンさんに聞かれてしまうかもしれないので。……彼女の様子はどうですか」

「気丈に振る舞ってはいますが、やはり怖かったのでしょう。食欲がなく、中々眠りにつけないご様子でした。……お嬢様に何か問題が?」

「いえ、単純に彼女の負担になるというだけで、特別聞かれてはいけない理由はありません。これは私個人の判断です」

 ルキウスは少し照れくさそうにはにかんだ。その様子はまだ幼さの残る少年のように思えた。彼の人柄が垣間見えた後、すぐさま真剣な表情に切り替わる。

「お話を伺いたいのは、捉えた男についてです。昨日までの調べで、男の身元が判明しました。男の名前はアブラヒム・サハン。年齢は22、出身はイラク。この名前に聞き覚えは?」

 彼からの情報に動揺が走った。それは男の名前に聞き覚えがあったからではない。

 生じた動揺を悟られぬよう表情を固め、一呼吸置いてから言葉を紡ぐ。

「アブラヒム・サハン……知りませんね」

「ライアンさんの知り合いである可能性は?」

「私の知る限りでは、そのような知人はいらっしゃらなかったかと」

「となると怨恨による線は薄いか……。うーん、なら何のためにアンさんを攫おうとしたんだ?」

 彼は形の良い眉を寄せた。——その背後に、答えに辿り着いた者がいることも知らずに。

「そのアブラヒムという男から聞き出せないのですか」

 フィスティールの問いかけに、ルキウスは難しい顔をして黙った。少しの沈黙の後、彼は重々しく口を開いた。

「……実は困った事態になっていて。その男、取り調べ中に死んでしまったんです」

 想定外の回答に、驚きのあまりフィスティールは目を大きく開いた。捕らえた男が死んだという情報の衝撃で、二の句が継げなくなる。そのまま、無言で話の続きを促していた。

「死因はパラセタモール中毒による多臓器不全。口の中に薬物を隠していたようで、情報を漏らす前に自害したと思われます」

 淡々と告げられることで、それが事実であることが分かった。驚愕の次に訪れたのはどろりとした薄気味悪い感情。前に座って運転しているルキウスもそれは同じなようで、

「……不気味だ。捕えられた場合のことまで想定している周到さは勿論、自身の命すら勘定に入れていないことが。何が一体そうさせるんだ」

 不愉快かつ不理解だと、整った顔を歪めていた。

 フィスティールはルキウスの問いに対する答えを持っていた。それを彼に教えることは危険であり、教えたとしても疑問が残る。彼からしてみれば、不可解なパズルがより一層難解になってしまうだろう。

 自らの考えを黙っておくことを、心の中で彼に謝る。

「ともあれ、情報提供感謝します」

「……いえ、お嬢様にまでご配慮くださり、ありがとうございます。今の話は、きっとお嬢様を酷く傷つけたでしょう」

 それきり、車内は沈黙に包まれた。

 フィスティールの中で、苦々しい思い出が湧きあがろうとする。それを力ずくでねじ伏せた。

 ——過去に囚われて、大切なモノを見失ってはいけない。

 そう言い聞かせているうちに、車は目的のスーパーの辺りまで辿り着いた。あとはそこの角を左に曲がって——。

「あれ、今の角を右ではなかったでしょうか」

 車は反対方向に左折した。道を間違えたのかと思ったが、どうやらそういうわけでもなさそうだ。

「すみません、少し確かめたいことがあって」

 ルキウスはそう言うと、何度も交差点が来る度、左折と右折を繰り返した。それは、明確な目的地があるというよりは、道を曲がること自体を目的としているようだ。その間、彼はしきりにバックミラーを確認していた。

 複雑に道を行き、何度も交差点を曲がった所で、彼は確信を持って口を開いた。

「やっぱり、後をつけられてますね」

 そう言われて、フィスティールは驚きながら後ろに振り返った。

 後ろを走る車は昨日のものと異なっている。

「昨日の車とは違うようですが」

「昨日の車なら、アンさんを誘拐しようとした場所からそう遠くない場所に乗り捨ててありました。それに後ろの車、屋敷からずっとこちらの後ろにいるんですよ。まるで、私たちを追いかけているみたいに」

 フィスティールの中で警戒が高まると共に、ルキウスに対して感心していた。彼は屋敷を出てから今まで、背後にも常に気を巡らせていたのだ。それもフィスティールから情報を引き出しながら。警部という肩書き上、優秀な人物であるとは思っていたが、そこまでのことが出来るとは想像していなかった。それとも、同じ役職に就く人物は皆この程度の能力を有しているのだろうか——。

『こちらルキウス・アイドット警部。昨日の誘拐未遂事件に関与していると思われる車両に追われている。至急応援を求めます。現在、パンテオン南側の道路を走行中。人気ひとけのない場所まで誘導する。繰り返す。至急応援を求めます』

 無線で連絡を取りながら、彼は器用にハンドルを動かして車を操縦する。

「すみません、貴女を危険に晒してしまって。しかし、これで連中の狙いが分かりました。奴らの目的はフィスティールさん、貴女だ」

 そう告げられたことに驚きはなかった。フィスティールの反応の薄さを恐怖で怯えているからだと思ったのか、彼は、

「大丈夫です。今は危険な状況ですが、それと同時に連中を捕らえる好機でもある。私がいる限り、貴女には指一本触れさせませんよ」

 安心させるように笑顔を浮かべた。だが、言葉とは裏腹に彼の動きは忙しない。こまめにこちらの位置を無線で仲間に知らせながら、後方の車両と付かず離れずの距離を維持している。

 しばらくの間車を走らせると、往来のほとんどない路地に入った。車一台がやっと通れそうな道でルキウスは車両を停める。その後方には件の車——、その更に後方にもう一台の警察車両が停車していた。

 ルキウスは人気のない場所に標的を誘い込むと共に、仲間に挟み込むよう指示を送っていたのだ。そうとも知らずにおびき寄せられた者たちに、逃げる場所など何処にも残されていなかった。

 後方の警察車両から警官たちが降りてくる。彼らは銃を構えながら逃げ場のない獲物を取り囲んだ。それに観念したように、取り囲まれた車両から逞しい身体をした男たちが降りてくる。その様子をルキウスとフィスティールは車両後方の窓ガラス越しに見ていた。

『抵抗に注意しつつ、確保だ』

 ルキウスが無線で指示を送ると、外の警官たちは銃を構えたまま近付いていく。

 緊張の糸が張り巡らされた空間。それを切り裂くように、唐突に音が弾けた。

「っ⁉︎煙幕⁉︎」

 ルキウスが驚愕の声を上げる。その声よりも僅かに早く、車外から銃声が鳴り響く。その音が警官のものであるかは、視界が白煙に包まれていて判別できない。

「警部、車を発進させて!」

 漠然とした嫌な予感。その直感は、これまでの自分が積み上げてきた数少ないもののうちの一つ。それを頼りにルキウスに発車を促す。

 直後、カン、と車の天井に何かがぶつかる音がした。次の出来事は、その音の正体を察知する間もない一瞬のうちに起こった。

 空気の爆ぜる音と共に視界が回る。何かの壊れる音がした。肌を通して焼けるような熱気が伝わる。そこで、フィスティールは自分が宙に投げ出されていることに気がついた。そのまま、どうすることも出来ずに地面に落下。硬いコンクリートの上を転がった。

 常人であれば意識を失っている、ともすれば命すら危ういほどの衝撃を受けても、彼女には傷一つなかった。

 フィスティールが状況を確認しようと顔を上げると、そこには炎に包まれたまま横転している車があった。その車は、先ほどまでフィスティールとルキウスが乗っていたものだ。

 先ほどの衝撃は、手榴弾か何かの爆発物によるものだろう。煙に乗じて、男たちはそれを投擲したのだ。

 そこまで状況を理解して、薄寒い感覚がフィスティールを襲った。

 ——常人であれば意識を失っている、ともすれば命すら危ういほどの衝撃を受けても、彼女には傷一つなかった。ならば、同乗していた彼は?

「アイドット警部——!」

 地面を転がったばかりの身体を車のもとへ走らせる。駆け寄って、その身が炎に包まれることも厭わず車内に取り残された彼を引き摺り出す。——その程度のことで、彼女の身体が壊れることはない。

 ルキウスに意識はなく、至る所から血が流れ出していた。フィスティールの手には、どろりとした赤い血が彼女の罪を見せつけるようにこびり付いている。誰の目から見ても、彼の命は既に風前の灯だった。

 迷う間も無く、ポケットから懐中時計を取り出す。

応答せよコール時間遡行機構システム・クラウノス

 彼女の周りに淡く光るホログラムが浮かび上がる。それは、時間を遡る反則の失われた技術ロストテクノロジー

「声帯認証による起動を確認。指紋認証実行——完了。識別個体名LPS00。これより時間遡行シーケンスに移行する」

 逼迫した状況とは不釣り合いに、自動音声は定められた通りに淡々と言葉を発する。焦っても時間跳躍の始まる時間が早まることなどないのに、心は今の状況を変えようと逸ってしまう。

「ぁ……——」

 すぐ近くからか細い声がした。

「っ、アイドット警部、しっかりして下さい!」

 ルキウスの意識が戻ったのかと思い、彼に懸命に声をかける。しかし、彼の目は焦点が合っておらず、意識も不明瞭のようだった。

「フィス……ティール……さん。……ぶ、じで……良かっ、た」

 彼は息も絶え絶えに、苦しそうに喘いだ。その彼は、フィスティールの姿を捉えると消え去りそうな顔で微笑んだ。

 死の間際に見せる、命の終わりを悟ったその姿を、フィスティールはよく知っている。

「当該個体より位置情報を取得。時空間断層補正算出——完了。転移先の座標をX26Y37Z6に設定。跳躍定数決定プロトコル、アルファからデルタまで完了。空間に対する穿孔抵抗微弱。遡行時における安全上の問題、オールクリア」

 なんの感慨もなく読み上げる音声は、死にゆく者を事務的に送り出す神父の言葉のようで。

「……お……じい、さん…………。ぼ、くも……誰かの……た、す……けに…………」

 彼の瞳から光が消える。言葉は最後まで紡がれることなく、虚空に消えていった。

「時空間移動層形成。反粒子の加速を開始。加速度、規定値を突破。亜光速から光速に到達後、直ちにイベントホライゾンへの突入を開始します」

 大気に稲妻が迸る。臨界間際の熱がフィスティールを包み込む。

 彼の歩んできた人生など知る由もない。抱えてきた願いも、積み上げてきた出会いも、何も、フィスティールには関わり合いのないことだ。

 それでも、この最期は違うと思うのだ。無念のうちにその生涯を終えることを、到底見過ごせるはずがない。

 ——これは、私の招いた結末だ。

 懐中時計を握る右手に力が籠る。たとえ傲慢であっても、全ての責は我が身にある。なぜならば、運命を変える力をその手に握っているのだから——。

「全ての工程タスクを完了。——時間跳躍タイムリープ、スタート」

 

 焼け焦げた光景を残して、彼女は再び時間の海を漂流する。

 誰も覚えていない、無惨に潰えた景色をその眼に焼き付けて。

 

 

 1993年5月11日。アン・ユグミツァ誘拐未遂事件の翌日。

 

 再び視界が戻った時、フィスティールは微かに息を呑んだ。

 彼女の前には、直前に命を失ったルキウス・アイドットが爽やかな笑顔を浮かべていた。

「昨日のことについてお聞きしたいことがあるのですが————」

 彼女は戻ってきた時点を悟った。時間はルキウスが屋敷を訪ねて来たところだ。これ以上前の時間には、ポケットにある懐中時計を産み出した技術がどれだけ高かろうと遡れない。

「すみません。屋敷をお願いします」

「えっ……。は、あれ、どういう————あっ。ち、ちょっと!フィスティールさん!」

 迷っている時間はない。呆けているルキウスに屋敷を任せて外へと飛び出す。

 庭を抜けて、隣接している道路まで出る。それから、先ほど車で通った道順をなぞる。

 連中の狙いはフィスティールだ。それは、未来で後をつけられたことが証明している。ならば、襲われることを恐れて屋敷に籠った場合、アンやベレトにまで危害が及ぶ可能性がある。ルキウスから協力を得ることも懸念材料が幾つかある。時間遡行のことに触れずに、未来で襲撃があることを伝えるのは困難だ。そのことを伝える時間も惜しい。そして何より、直前に見た彼の最期を思うと、危険な目に遭わせたくはなかった。

 フィスティールは屋敷から離れるように走った。そうしているうちに、見覚えのある車が後方に見えてくる。それは、未来で彼女を襲ってきた男たちが乗っていた車だ。

 車の通れない細い路地裏を行く。次第に往来する人の数は減っていき、遂には誰もいない場所までやって来た。そこは複雑に入り乱れる路地裏に、突如として現れた空白のスペース。周りを建物の外壁で囲まれたそこは、逃げ場のない行き止まりだった。唯一の逃げ道はフィスティールがたった今駆けてきた道のみ。その道を引き返すつもりは彼女にない。——何故ならば、敢えて人目のつかない場所に彼らをおびき寄せたのだから。

「——!」

 突如として、入ってきた通路の方から音とともに煙が発生した。続いて、複数の足音がフィスティールの方に近付いてくる。それは想定内の戦法だった。未来で既に相手の武装を見ていたからだ。彼女は怯むことなく煙の中に突入する。そのまま、丸見えの、、、、男の顎に掌底を叩き込む。

「がっ——⁉︎」

「こいつ見えて、うっ——⁉︎」

 続け様に別の男の顔面に回し蹴りをお見舞いする。男たちはゴーグルのような物を装着しており、煙の中でも視覚が働くようだ。一方のフィスティールは目立った装備など身につけていない。そんなものが無くとも、相手を識別できる機能はもとより備わっている。

 彼女の碧眼には襲い掛かろうとする男たちの姿が映っていた。その数は5人。うち2人は既に意識を失って地面に転がっている。

「慌てるな!相手は女1人だ!」

 残りの3人が一斉に武器を構える。2人はハンドガン、1人は投擲用のグレネードと思しき球体。

 迷わず駆ける。狙いは爆破物を持った男。

 烈風の如く迫る彼女に男は反応が遅れた。グレネードのピンを抜く前に、蹴り上げたヒールの踵が下から男の顎に突き刺さり、男は声もあげず倒れ込んだ。それと同時に、男の手から零れ落ちたグレネードを空中で掴む。

「クソっ、撃て!」

 隙だらけのフィスティールに二方向から弾丸が撃ち込まれる。それを避ける術は彼女にない。弾は吸い込まれるように額と左胸に命中した。

 直後に響いたのは甲高い金属音。

「——⁉︎」

 男たちから驚愕の声が漏れる。

 弾は彼女の身体に命中した。その後、あらぬ方向に弾かれたのだ。それはまるで、硬質の物体にぶつかり跳弾したようで——。

 驚く男たちの隙を見逃さず、フィスティールは軽やかに飛び上がり、男の脳天に踵落としを振り下ろした。男は脱力して崩れ落ちる。

「ひっ……化け物め——」

 残された男はやけになって銃を乱射した。そんな狙いもつけていない銃撃に彼女が当たるはずもなく、当たったとしても傷一つ付かないのだが——、男は容易く組み伏せられ、握っていた銃が地面に転がった。

 煙が晴れる。煙幕が機能していたのは僅かな時間。その間に、屈強な男たちは全員無様に地面に転がっていた。

「クソが!また、、そうやって俺たちを殺すんだろ⁉︎」

 男の関節は既に固められている。その上、力もフィスティールには遠く及ばない。抵抗は自身の身体を痛め付けるだけ。そのことを理解した上で、男は懸命に足掻いていた。

「舐め、やがって……!う、お——……」

 骨の折れる音がした。男の腕があらぬ方向に曲がる。それと同時に男の身体から力が抜ける。折れた痛みのあまり失神してしまったようだ。

 フィスティールは立ち上がって、倒れている男を見下ろした。

 ——無駄な抵抗をしなければ、余計な痛い思いをせずに済んだのに。

 男たちのやって来た通路から、慌ただしい足音が聞こえた。男達の仲間が来るのかと思って、音の鳴る方を警戒する。

 やって来たのはルキウスだった。

「フィスティールさん、無事ですか————」

 遅れて駆けつけたルキウスは、目の前に広がる光景を見て絶句した。それは地面に転がる男達を見たのもあったが、それよりも彼の言葉を奪うものがあった。

 フィスティールの淡い緑色の瞳。——その眼は底冷えするほど冷徹な光を宿しており、視るだけで人を射殺してしまいそうな、無機質な気配を醸し出していた。

 

 その後の流れは昨日と殆ど変わりがなかった。ルキウスが呼んだ警官達に連れられて、意識のない男達は救急車で運ばれた。意識が戻り次第、警察の方で取り調べを受けるそうだ。フィスティールはというと、昨日と同様に警察署で事情聴取を受けた。2日続けてということもあってそれ程緊張することもなく、起こった事実を淡々と口にする。特別疑われることもなく取り調べを終えると、ルキウスが屋敷まで送ってくれる運びとなった。悪漢を五人まとめてねじ伏せたというフィスティールの証言には、その場にいた誰もが眉を顰めていたが。

「申し訳ありません。ご多忙の中、屋敷まで送って頂いて」

「あ、ああ、いえ、とんでもない。これも職務のうちですので」

 屋敷に向かう道中、ルキウスは考え事をしているのか様子が少し変だ。それはフィスティールに合流してからずっとそのようで、彼女に対し何かを口にしようとしては押し黙っていた。

「それにしても未だに信じられないですよ。屈強な男たちを5人まとめて倒してしまうなんて」

「……いえ、偶然です」

「偶然ではないでしょう。それに、貴女は突然屋敷を飛び出した。……まるで、未来で襲撃を受けることを知っているみたいでしたよ」

「——」

 ルキウスの言葉は半分冗談混じりのものだ。しかし、図星を突かれて何も言えなくなる。さらに言えば、もう半分からは何かを確かめるような意図を感じて。

「あれは私を危険から遠ざけようとしていたのでしょう?」

「……偶然、そのような形になっただけです」

 それきり、しばらくの間会話は途絶えた。

 やはりルキウスは何かを口にしたそうに視線を彷徨わせている。その様子が気になってしまい、気がつけば声をかけていた。

「差し出がましいですが、何かお困りごとがあるのならおっしゃって下さい。事件に関係することならば、私も無関係ではないでしょう。微力ですが、お力添え出来るかもしれません」

 彼女の青緑色の瞳が、ルキウスの背後を真っ直ぐ見据える。時間を遡る前、ルキウスはフィスティールの判断ミスにより命を落としている。その罪滅ぼしにもならないが、もしも困っていることがあるのなら、彼の力になりたかった。

 沈黙の時間が流れる。その間も彼は何かと葛藤しているようで。

 ややあってから、彼は車を停めると、後部座席に座るフィスティールの方へと振り向いた。

「……お聞きしたいことがあります」

「はい、なんなりと」

 ルキウスは言葉を選びながら、慎重に口を開いた。

「今からお聞きすることは荒唐無稽で、しっかりとした根拠があるわけでもない。違うのなら違うと言って下さい。笑い飛ばしてくれてもいい」

 そこで言葉を区切ると、大きく一息吐いた。次の一言が本命だと分かる。

「貴女は——」

 彼と視線がぶつかる。瞳は疑念に揺れていた。それは不可解な事象に答えを求める迷いびとのようだ。そして、重たく閉ざされた口がいよいよ開かれる。

「時間を巻き戻せますか」

 

 

 入り口の扉をくぐり、屋敷の玄関を踏み締める。

 未だに慣れない豪奢な装飾も、この時ばかりは安心感を与えてくれた。

 ほっ、と息を吐くと、玄関の奥から足音が忙しなく近付いてきた。その足音の主は勢いよくフィスティールに抱きついた。

「お嬢様、申し訳ありません。帰るのが遅くなってしまって」

 抱きついてきた少女、アン・ユグミツァはフィスティールのお腹に顔を埋めたまま離れようとしない。

「……ご心配をおかけ致しました。私はこの通り、無事ですのでご安心下さい」

 優しく頭を撫でると、彼女は抱きついたまま上目遣いでフィスティールの方を見た。

「本当に、心配したんだから……!連絡を受けてはいたけど、フィーがいなくなったらどうしようって……」

「……はい、申し訳ありません」

「謝らないでよお……」

 彼女の頭を優しく撫でる。

 少しの間そうしていると、アンは落ち着いたのかフィスティールから離れた。そこで、彼女は自らの侍女以外にも人がいることに気がつく。

 フィスティールの背後では、ルキウスが困った顔で佇んでいた。

「あれ、ルキウスさん……。ひょっとして見られてた⁉︎」

 アンは先ほどの姿を見られたことが恥ずかしかったのか、フィスティールを盾にルキウスから隠れてしまう。彼は視線を彼女に合わせると、

「ごめんね。急にお邪魔してしまって。その、フィスティールさんから、お夕飯を誘われたんだ。それで、もしアンさんがよかったら、一緒に僕も食事をしていいかな?」

 そう優しく微笑んだ。

 アンはまだ恥ずかしさで赤らんだ顔を覗かせながら、無言で頷いた。

「ありがとう。それじゃあお邪魔します」

 立ち上がったルキウスを連れて玄関を抜けると、もう1人の屋敷の住人が姿を現した。彼はその小さな身体を一生懸命に弾ませながら玄関に向かおうとしているところだった。

「ベレト様、ただいま戻りました」

「戻ったか。全く、アンをなだめるのに大変だったのだぞ?」

「お嬢様の面倒を見て頂きありがとうございます。すぐにご夕食を用意致しますので、しばらくお待ちください」

「違うもん!私がベレちゃんのお世話をしてたんだよ!」

 割とどうでもいいような抗議の声を上げるアンに、思わず口元が綻ぶ。その姿を見ていると、帰るべき日常に戻ってきた感覚がする。

 ふと、1人黙っているルキウスの方を見やると、彼は唖然とした表情でベレトを見ていた。

「アザラシの赤ん坊が喋ってる——⁉︎」

 それは当然と言えば当然の反応。常識的に考えて、アザラシの赤ん坊がヒトの言葉を喋るわけがないのだ。この屋敷に住んでいると忘れがちになってしまうが、ベレトはこの世の理から逸脱した存在だ。そのような生物を突然目の当たりした彼は、世界がひっくり返るような衝撃に襲われているはずで。

「馬鹿者、余はただのアザラシの赤子に非ず。万象を見通すまなこを持つ、高貴にして極北、無双にして無窮の存在、百智公爵ベレトである!この名を胸に刻み、後生の宝とするがいい!」

「おおー!」

 高らかに謳うベレトの側で、アンが褒め称えるようにパチパチと手を叩いた。一方のルキウスは口をあんぐりと開けて固まっていた。

「どうした、余に身惚れたか?拝謁の歓喜のあまり言葉が出てこないと見える。うむ!よい、言葉にせずとも分かる。余と食事を共にすることを許そう」

 ベレトはアンに抱えられてリビングへと向かった。

 残されたルキウスは、助けを求めるようにフィスティールの方へ顔を向けた。

「今の方がベレト様です。趣味は読書とお昼寝、好物は地中海産のイワシです」

「いや、そういうことではなく……!ああ、理解が追いつかない!」

 求めていた答えがもたらされず、ルキウスはわなわなと震え出した。

「どうして!アザラシが!喋っているんだ⁉︎」

「ルキウス警部、落ち着いて下さい。アザラシは喋ります」

「喋らないでしょう⁉︎」

「ですがベレト様は言葉を発していたではないですか」

「そうですけど……!何だ?僕が間違っているのか……?」

 唐突に自問自答を始めるルキウスの様子がおかしくて、つい笑ってしまう。

「ベレト様のことは私も詳しくは知りません。私がここに住むようになる前から、旦那様とお嬢様と暮らしていらしたそうですので、そういうものと受け入れています」

 目を回している彼は、しばらくすると観念したように歩き出した。

 これしきのことで混乱していては、これからフィスティールが話すことなど到底受け入れられない。

 フィスティールが食事の用意をする間、ルキウスは所在なさそうにリビングで突っ立っていた。絵に描いたように豪華絢爛な内装は、一般市民である彼にとって慣れたものではない。考えなしにそこいらの椅子に座っていいものなのか、目まぐるしく訪れる出来事で疲弊した頭では分からなかった。

「ルキウスさん、座らないの?」

 幼い声が彼にかけられた。見ると、先ほどとは異なる装いをしたアンがきょとんとした瞳で彼を見つめていた。彼女が身につけているのは優雅なドレスのようで、深い紫の布は彼女のワインレッドの髪を妖艶に引き立てていた。

「はは、実はこういった豪華なお屋敷には慣れてなくてね。どこに座っていいものか分からないんだ」

「じゃあそこ、私の席の前に座っていいよ!」

「そうかい?じゃあお言葉に甘えて」

 ルキウスが席に座るとアンは嬉しそうに微笑んだ。その笑顔で彼の緊張も少し和らぐ。

「さっきベレトさんの好物は聞いたんだけど、アンさんの好きな食べ物は聞いてないんだ。何が好きかな?」

「フィーが作った、色んなのをお肉で巻いたのが好き!」

「インボルティーニか。意外と家庭的なんだね」

 アンは自分の席に座ると、嬉しそうに口を開いた。

「あのね、アン、でいいよ。私もニックネームで呼ぶから」

「おや、それは光栄だね。なんて呼んでくれるのかな、アン」

 彼女は名前が呼ばれたことを嬉しそうに微笑むと、ルキウスの呼び方を考え始めた。

「そうだなぁ……ルキウスだから、ルウ!」

 安直な呼び方だが、不思議と彼女が呼ぶと可愛げがあるように聞こえた。それは幼さ故のものでもあり、彼女の人懐こさも一役買っていた。

「ルウは何の食べ物が好き?」

「それは……カレーのルウかな!」

 ふふっと明るい笑みが溢れた。彼の渾身の一撃は、そのくだらなさ故に幼心に刺さっていた。

 ツボに入ったのか彼女はお腹を押さえて笑い転げる。ただ、その笑い方には上品さが感じられて、この屋敷における教育の一端を感じさせた。

「ねえ、ルウはどうして警察官になったの?」

 純粋な瞳は好奇心の表れか、はたまた別の感情が滲み出たものか、笑いの涙で潤んだ眼がルキウスを見つめていた。その無垢で真っ直ぐな期待に応えたくなるのが大人というもの。

「僕は記憶力に自信があってね。神経衰弱を知ってるかい?あの遊びで今まで一度も負けたことがないんだ」

「一度も?凄い!」

「ありがとう。ただ、幼い時はその能力を持て余していたんだ。そんな時、僕のお爺さんが声をかけてくれた」

 自然と彼の声には力がこもっていた。それが大事な記憶なのだと、彼の表情が物語っていた。

「僕の個性は誰かを救える、ってね。そこからだよ。警察官を目指し始めたのは」

 詳細は語らない。語っても面白い話ではないからだ。ただ、アンはその不明瞭な話を興味深そうに聞いていた。

「アン、君は将来何になりたい?」

 聞かれると思ってなかったのか、アンは慌てて答えを考え始めた。

「私は……」

 彼女の表情が陰る。それは、ほとんど人には見せない、悲しみを帯びたものだった。諦観や後悔とは違う、別の苦しみを表した何か。それが何なのか、ルキウスには分からなかった。けれど、そんな顔がアンに似合わないことだけは分かる。

「ごめん、ごめん。困らせるつもりは無かったんだ。大丈夫。将来の夢なんてものは、気がつけば願っているものだ。無理に作り出すものじゃない。ただ、どうしても叶えたいものができた時は、大きく手を伸ばすんだ」

「手を伸ばす……?」

「うん。精一杯、自分の手が届く限界まで。そうすれば、その願いが叶わなかったとしても、きっと納得のいく人生になると思う」

 それは、ルキウス・アイドットという人間を形作る大きな論理。より納得のできる未来を目指すという、誰もが持ち得る希望であり救い。そんな青い願いを、大人になった今も持ち続けていた。

「ごめん、説教臭い話になっちゃったね」

 つい熱くなってしまったと、アンに謝る。彼女はルキウスの言葉の意味をしっかりと理解してから、真っ直ぐに瞳を彼に向けた。

「——ううん、ありがとう。ルウの話、すっごくためになった!」

 先ほどまでの陰りは消え去って、今は花のような笑顔が咲く。その日向のような微笑みのために頑張っているのだと、ルキウスは心の中で思った。

 ふと、遠くからフィスティールの声がした。

「どうしたのですかベレト様?お食事でしたらそちらにお持ちしますよ?」

「待てフィスティール。これより先は乙女の戦場。アンは今まさに自らの定めた宿敵と、言葉という刃を交わしているのだ。下手に近寄ればその天神の如き輝きに全身が灰になるぞ」

「はあ……?よく分かりませんが、テーブルクロスの準備を致しますね」

「待て!死ぬ気か!」

 少し離れているため、細かい部分は聞こえなかった。

 程なくして食事の準備は済み、4人でテーブルを囲っての食事が始まった。

 命を交わした惨憺たる時間のことを忘れて、今はただそこにある幸福を噛み締める。

 穏やかな時間は瞬く間に過ぎ去っていった。

 

 

 時刻は22時を過ぎた頃、アンが眠ったことを確認して、フィスティールは彼女の部屋を後にした。

 やって来たのは四人で食卓を囲ったリビング。和やかな時間が過ぎたそこには、今は1人だけが座っていた。

「お待たせしました」

 慇懃に頭を下げるフィスティールに、ルキウスは笑顔で応じた。

「いえいえ。彼女は眠りにつけましたか?」

「はい。最初は眠りにつけないご様子でしたが、しばらくすると寝息が聞こえてきました」

 その言葉を聞くと、彼は心配そうに表情を曇らせた。

「彼女はとても聡明だ。先ほども私に気を遣って話しかけてくれた。……ですが、時としてそれは危うくもある。誘拐しようとしたグループを捕まえたとはいえ、まだまだ謎が残っていますし、万が一ということもある。これから彼女を守れるよう、こちらも全力で取り組みます」

 それは安心させるというよりも、決意を述べたに近い言葉だ。

 この短い時間で、フィスティールはルキウスのことを信頼してよいと思っていた。それは彼の人柄もそうであるが、主人であるアンが彼のことを気に入っているからでもある。

 だからこそ、彼に秘密を打ち明ける場を設けたのだ。

「先ほどの……車内での問いについてですが」

 待っていましたとばかりに彼の視線が向けられる。

 あの問いかけをされた時、フィスティールは突然のことで何も言えなかった。予想すらしていなかったのだ。これまで、そうだと、、、、見破った人物などいなかったのだから。

 空気が急速に張り詰める。そのまま黙り続ければ口が開かなくなってしまいそうで、思い切って言葉を発した。

「警部のご推察通り、私は時間を巻き戻すことができます」

 言い切った。一部の者しか知らない秘密を、彼に打ち明けた。

 彼は思いの外、冷静に目を伏せた。大方、予想通りだったのだろう。彼の洞察力の鋭さに感服しつつ、慌てふためかないことに安堵を覚えた。

「どうして……どのようにしてその考えに至ったのか、聞いてもよろしいですか」

 車内での一幕から、そのことがずっと気がかりだった。本来なら気づき得ない時間の逆行を、彼は如何にして見破ったというのだろうか。

 ルキウスは先ほどまでのフィスティールと同じ目をした。秘密を抱え、打ち明けるべきか迷う、葛藤の眼差し。それを、ゆっくりと乗り越えるように、彼は訥々と語り始めた。

「私は、一度視たこと、聞いたこと、感じたことを絶対に忘れません。簡単に言ってしまえば、記憶力がいいのです。その私の記憶の中に、経験してはいないけれど、知っている記憶があった。その記憶の中では、私は貴女の前で命を落としていた」

 ——超記憶症候群ハイパーサイメシア。ルキウスの話を聞いた時、この単語が思い付いた。自分に起きた出来事を、それがどれほど古いものであっても詳細に思い出せるという、人間における脳異常の一種。忘却という機能が欠けた状態は、昔の経験を当時の感覚そのままに浮かび上がらせる。——例えば、過去に死ぬような思いをした体験を。

 彼が超記憶症候群であるという確証はない。ただ、それに近いものであることは明白。取り調べの際にメモを一切取らなかったのは、その必要が無かったからだ。

 巻き戻す前の時間のことを、普通の人間は忘れる。ならば、忘れることの出来ない人間はどうなるのか。彼の語った理屈は、フィスティールが納得するのに十分なものだった。

「加えてもう一つ、私は似たような状況につい最近陥ったことがあるのです。……フィスティールさん、貴女は昨日、アンの誘拐未遂事件があった時も時間を巻き戻しましたね」

 そこまで言い当てられて、驚きのあまり何も言えなくなる。

 彼は本当に、巻き戻る前の時間のことを覚えているのだ。

「あの時も、私からしてみればおかしな状況だったのです。警察署で書類仕事をしていた記憶があるのに、実際は同じ時間に誘拐未遂事件を担当している。この矛盾を解決できる解答を、私は一つしか思い浮かばなかった」

 彼の推測は、見事に的中した。それは、自身の記憶力に対する自信と、柔軟な発想力が導き出した合理的な推論だった。山勘の類などではなく、フィスティールは感服するほかなかった。

「それで、私が時間を巻き戻していると考えたわけですね」

「貴女の行動は未来を知っているみたいでしたから。今日だって、私に危険が及ばないように独りで行動したのでしょう?」

「……私の行動で、警部は命を落としましたから」

 行動心理まで言い当てられて、いよいよもって白旗を振るしかない。それほどに、ルキウスは警官として優秀だ。

「……私の予想通り、貴女は時間を巻き戻していた。次はこちらからの質問です。……一体、どうやって時間を巻き戻していたのです?そんな技術、私は空想の中でしか知らない」

 その疑問に答えるために、フィスティールはポケットから銀に輝く円盤状の物体を取り出した。それを彼に見えるように差し出す。

「厳密には私ではなく、この懐中時計が時間を巻き戻したのです」

 差し出された懐中時計を受け取ると、彼は興味深そうに眺めた。

「何の変哲もない、普通の懐中時計に見えますが……」

「12時方向にある、小さな突起を押してみて下さい」

 彼は言われた突起を見つけると、慎重にそれを押した。すると、ホログラムでできた画面が空中に浮かび上がる。

「声帯認証失敗。指紋認証エラー。もう一度、やり直して下さい」

「喋った⁉︎」

 自動音声機能に驚いた彼は、フィスティールに無言で説明を求めた。

「その懐中時計の時間遡行機能は私にしか使えません。懐中時計の名は逆行時計クロノス。時間を1時間巻き戻すことが出来るタイムマシンであり、未だ人智の及ばぬ、遥かな過去に作られた技術の結晶です。時間遡行を行った後は、再度時間を巻き戻すのに1時間必要とします。つまり、1時間を超える時間跳躍は行えないということです」

「————」

 ルキウスは呆気にとられて言葉が出てこなかった。

 クロノスによる時間遡行はちょうど1時間。それより短い、もしくは長い時間を巻き戻すことはできない。その上、連続使用が不可能だ。だからこそ、フィスティールは昨日と今日の事件をより早い段階で防ぐことができなかったのだ。

「この世界には、表沙汰にならないだけでこの時計のような遺物が多く存在しています。一般に知られていない理由は民衆の混乱、金に目が眩んだ者たちの利権、争いの火種などいくらでも」

 現代の技術では再現不可能な、しかし過去から存在する超遺物オーパーツ。そんな超抜の機能を有する代物は、今の人類にとって過ぎたものであるとして、秘密裏にこれらを管理している組織がある。平和のため、権力・財力のため、あるいは、未知の技術を解明するため、理由は多種多様であらゆる思惑が絡み合いながら、今日までその存在は隠匿され続けてきた。

「待って下さい。それじゃあ、そんな危険な代物を持っている貴女は何者?あのアザラシの赤ん坊も同じような存在なんですか?そもそも、この家の主は一体——」

「お、落ち着いて下さい。一度に全ては答えられないので……」

「すみません……。分からないことが多すぎてつい……」

 いかにルキウスが優秀で柔軟な思考の持ち主であれ、与えられた、にわかには信じ難い情報をすぐには呑み込めない。

 ふと、何かの電子音がした。発生源はルキウスのポケットだ。彼は、はっとして無線をポケットから取り出した。

「失礼、同僚から連絡が。ちょっと外に出てきますね」

 そう告げると、彼は10分ほど部屋から姿を消した。再び戻ってきた時、その顔からは陰りが見えた。

「何か今回の事件に関係することですか」

「ええ。自殺した男の取り調べを担当していた同僚からだったのですが、目の前で倒れられて相当参っているみたいで……。あ、もちろん愚痴だけではありませんよ」

 そこで、彼はしばらく顎に手を当てて考え始めた。ややあってから、

「……貴女になら、話した方がいいのかもしれませんね」

 とフィスティールに意を決したように視線を向けた。

「いい報告と悪い報告があります。まず、いい報告から。今日捕らえた男達から、幾つかの情報を聞き出すことができました。念の為、取り調べの前に、毒物を隠し持っていないか確認したところ、誰も持っていませんでした」

「では、昨日のアブラヒムという男だけが自決用の薬を持っていたのですか?」

「ええ、そのようです。さらにこの男について分かったことが一つ。今回の一連の騒動に関係しているグループのリーダーだったようです。彼が自殺したことを連中に伝えると、全員が驚いていました。このことから、アブラヒムは仲間にも伝えていない何かを抱えていた可能性が考えられます。……今となっては、それを聞き出す術はどこにもありませんが」

 アブラヒムの自害は既に一時間よりも前の出来事だ。時間を巻き戻したところで、彼の結末は変わらない。抱えた秘密を知る機会はもう、永遠に失われてしまったのだ。

「次に悪い報告を。連中にはまだ仲間がこの街にいるようです」

 フィスティールの視線が鋭くなる。解決したかに思えた事件はまだ、終わってなどいなかったのだ。ルキウスは刃物のような視線に怯むことなく、淡々と情報を述べた。

「証言が正しければ、残る仲間の数は5人。もっとも、仲間といってもリーダーが捕まったことを契機に内部分裂、方針の違いで別行動をとったようで、その5人の所在までは掴めていません」

 彼の報告から察するに、1度目の時間跳躍によりアブラヒムを旗頭としたグループは既に瓦解していたらしい。だが、そんなことよりも気がかりなことがあった。

「では、その残党が私を狙う可能性があるということですね」

 今日の襲撃で、連中の目的がフィスティールであることはほぼ確定したとみていいだろう。1度目の時間跳躍の際も、アンを人質にして本命のフィスティールを誘き寄せようとしたのだ。それが未然に防がれた上に、リーダーを失ったグループが分裂。強行な手段を訴えた一派が今日襲ってきた、という流れだろうか。そうであるとするならば、残された一方のグループが再びアンを人質にしようとしてもおかしくはない。

 フィスティールは心の中で、1つの大きな決断を下す。

「……連中が何故貴女を狙うかまではまだ分かっていません。迂闊な行動は避けた方が——」

「私を狙う理由なら、心当たりがあります」

 彼女の言葉は唐突で、言葉を失うには十分な力があった。たちまち、ルキウスは驚愕の瞳を彼女に向ける。その視線を一身に浴びながら、彼女は言葉を続けた。

「話が前後しますが、それは私が何者であるか、という問いに関わってきます。ですが、それをこの場で説明してしまうよりも、別の場所でお伝えした方が色々な手間が省ける上に分かりやすいでしょう」

 過去に犯した罪を清算する時が来たのだと、納得する。決して贖えるものではないが、それでも、逃げることは卑怯なことだと思う。その断罪の場に、アンを巻き込みたくはない。

「ええと、つまりどういう……?」

 フィスティールの中で吹雪のように巻き起こる感情など露知らず、ルキウスは話の勢いに目を瞬かせている。

「明日、ある方の家を訪れることになっています。そちらに同行して頂けないでしょうか」

「それは構いませんが……一体どちらに?」

 ——彼が自分の正体を知った時、それでも変わらず人好きのする笑顔を向けてくれるのだろうか。

 そんな一抹の不安がフィスティールの脳裏を掠める。迷いは一瞬で、告げる言葉に迷いはなかった。

「かの教皇に仕えるエクソシストにして、枢機卿と同位である七使徒のうちの1人。ユーステス・アステロミア様の邸宅です」

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