『ゴミ溜め場の聖女』と蔑まれた浄化師の私、一族に使い潰されかけたので前世の知識で独立します~呪われたアーティファクトの本当の価値を解るのは私だけ。今更泣きついても、もうお譲りできません~
旅する書斎(☆ほしい)
第1話
じめじめとしたカビの匂いが、鼻につく。
正体不明の薬品が混じったような、不快なにおいも漂っていた。
アルハイム家の地下室は、私の仕事場だ。
そして住処であり、逃げ出せない牢獄でもあった。
壁際に、雑多なガラクタが無造作に積まれている。
そのほとんどが、呪いを宿した品だ。
元の持ち主から手放された、「呪われた遺物」と呼ばれる物たちだった。
「セレン、まだ終わらないのか、この能無しが」
階段の上から、姉であるフリーダの甲高い声が降ってきた。
私は返事をする代わりに、目の前の古い銀の櫛へ意識を向けた。
櫛は全体が黒く変色していて、見るからに不気味な邪気を放っていた。
これに触れた者は、髪が全て抜け落ちる呪いにかかるらしい。
一族の人間は、これを「嫉妬の呪い」と呼んでいた。
「お願いします、どうか鎮まってください」
私はか細い声で祈るように呟き、なけなしの魔力を指先に込める。
びりびりとした弱い電気が走り、櫛にそっと触れた。
邪気がわずかに揺らぎ、薄くなったように見えた。
でも、本当にそれだけだ。
私の魔力は、アルハイム家の歴史の中でも最低だと言われるほど弱い。
呪いを完全に消し去る浄化なんて、本来ならできるはずがなかった。
それでも私がこの仕事を押し付けられているのは、理由があった。
私が浄化に失敗しても、誰も困らないからだ。
むしろ、危険な呪い物の処理を押し付けるための、都合のいい道具と思われている。
「ゴミ溜め場の聖女が、そんなガラクタばかり触ってみっともない」
姉さんの声には、見下すような感情がたっぷりと含まれていた。
ゴミ溜め場の聖女。
それが、この家での私の呼び名だった。
誰も触りたがらない呪われた遺物を、私が拾い集める。
そして地下室で、浄化という名の延命作業を施す毎日だ。
その姿が、ゴミをあさる汚い聖女に見えるのだという。
形ばかりの浄化の儀式を終えると、私はぐったりと床に座り込んだ。
体中の力が抜けてしまい、指一本動かすのも面倒だ。
魔力を無理やり絞り出したせいで、ひどい頭痛と吐き気が襲ってくる。
これが浄化に失敗した術者が呪いを浴びる、「返り血」の軽い症状だった。
私にとっては、もういつものことになってしまっていた。
「終わりました、姉様」
階段の上に向かって、やっとの思いで声を出す。
しばらくして、フリーダ姉様がゆっくりと降りてきた。
高価で美しいドレスのすそを汚さないように、とても慎重な足取りで。
「どれ、見せてみろ」
姉様は鼻をつまみながら、私が差し出した櫛を乱暴にひったくった。
邪気は儀式を始める前より、ほとんど消えている。
呪いの力も、かなり弱まっているはずだ。
でも、完全な浄化にはほど遠い状態だった。
「まあ、こんなものか。お前ごときには上出来だろう」
そう言って、姉様は銀貨を一枚、床に放り投げた。
ちゃりん、と乾いた音が、地下室にむなしく響く。
これが、今日の私の報酬だ。
普通の浄化師が受け取る額の、百分の一にもならないお金だった。
「ありがたく頂戴いたします」
私は床に這いつくばって、その銀貨を拾った。
悔しさも、悲しさも、もう感じなくなって長い。
私が悪いのだ。
魔力が弱い私が、アルハイム家の汚点である私が、全部悪い。
そう自分に言い聞かせることで、どうにか心を保っていた。
姉様が去った後、私は地下室の隅にある粗末なベッドに倒れ込む。
もちろん、夕食に呼ばれることはない。
私の食事は、厨房の隅に置かれた硬いパンと冷たいスープだけだ。
それすら、忘れられて用意されていないことも多かった。
(お腹がすいたな)
天井の染みをぼんやりと眺めていると、再び階段がきしむ音が聞こえた。
今度は姉様よりも、ずっと重い足音だ。
この足音には、聞き覚えがある。
「セレン、いるか」
響いたのは、兄であるクラウスの声だった。
アルハイム家の、次の当主だ。
私とは、正反対の存在である。
それなりに強い魔力を持ち、両親の期待を一身に背負っていた。
「はい、兄様。ここにおります」
私は慌てて体を起こした。
兄様がこんな薄汚い地下室に来るなんて、本当に珍しい。
ろくなことにならない予感だけが、胸の中をぐるぐると回っていた。
「丁度いい、お前にやらせたい仕事がある」
クラウス兄様は、布に包まれた何かを抱えていた。
ずしりと、重そうに見える。
彼はそれを、私の目の前の作業台に、どさりと無造作に置いた。
布がはだけて、中から鈍い銀色をした聖杯が現れた。
それを見た瞬間に、全身の肌がぞわっとした。
聖杯の全体が、黒いもやのような濃い邪気に覆われている。
この地下室に溜まっていた他のどの遺物の邪気より、比較にならないほど邪悪で強力な気配を放っていた。
聖杯のふちには、かつては美しかっただろう細かい飾りが施されている。
だが、その多くが黒く変色し、ところどころ緑色のさびのようなものまで浮いていた。
「『嘆きの聖杯』だ、王家から直接依頼があった一級の呪物だ」
兄様は腕を組み、ふんと自慢げに鼻を鳴らした。
「本来なら私が浄化するはずだったが、少し手間取っていてな。お前が先にやっておけ。邪気を少しでも弱めておけば、私の負担も減るだろう」
嘘だ、とすぐにわかった。
兄様の額には、脂汗がびっしょりとにじんでいる。
彼の指先が、かすかに震えているのを私は見逃さなかった。
これは、兄様が浄化に失敗したのだ。
そして危険すぎる後始末を、私に押し付けに来たに違いない。
「私には、無理です。こんな強力な呪い、私の魔力では」
「口答えをするな」
兄様の怒鳴り声が、地下室の壁に響いた。
「これは命令だ、アルハイム家の人間として、家の役に立てることを光栄に思え、この出来損ないが」
有無を言わせない、絶対的な命令だった。
逆らうことなど、許されない。
これは、もはや死刑宣告と同じだ。
この聖杯に触れれば、私の弱い魔力など一瞬で吸い尽くされるだろう。
そして、強力な返り血で確実に命を落とすに違いない。
「さあ、とっとと儀式の準備をしろ。浄化が終わるまで、ここから一歩も出すなと父上も言っておられた」
そう言い捨てて、兄様は私に背を向けた。
階段を上っていく足音が、やけに大きく聞こえる。
地下室の扉が閉められ、かんぬきを掛ける重い音が響いた。
完全に、閉じ込められてしまった。
私はしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
目の前には、死を告げる聖杯。
背後には、閉ざされた扉。
どこにも、逃げ場はない。
家族に、見殺しにされるのだ。
いや、これはもう見殺しですらない。
はっきりとした、殺意だ。
私が死ぬことで、兄様の失敗は隠される。
そして、アルハイム家の体面は保たれるのだろう。
私の命は、その程度の価値しかないのだ。
「そう、だよね」
不思議と、涙は出なかった。
ただ、すとんと、諦めの感情が胸に落ちてきた。
私が悪いのだ。
私が、弱く生まれたから。
私が、お母様の体を弱らせてまで生まれてきた、いらない子供だから。
だから、こうして死ぬのも、仕方のないことなのだと受け入れた。
私はふらつく足で立ち上がり、儀式のための祭壇に向かう。
聖杯を清めるための聖水、祈りの言葉を記した羊皮紙、魔力を増幅させるための香。
いつも通りの準備を、淡々と進めていく。
これが、私の人生最後の仕事になる。
祭壇の中央に、『嘆きの聖杯』を置く。
黒い邪気が、まるで生き物のように動いていた。
私の魔力に反応して、その形をゆっくりと変えた。
ごくり、と喉が鳴る。
怖い、死にたくない。
でも、もうどうしようもなかった。
私は両手を聖杯にかざし、目を閉じた。
心の奥底から、最後の生命力と一緒に、なけなしの魔力を絞り出す。
「清浄なる流れよ、彼の者の嘆きを洗い流し、安らぎを与えたまえ」
祈りの言葉を唱え始めた瞬間、聖杯が禍々しい光を放った。
すさまじい勢いで、私の魔力が吸い取られていく。
いや、魔力だけじゃない。
体温も、意識も、何もかもが聖杯に飲み込まれていく感覚がした。
(ああ、私、死ぬんだ)
全身が、急速に冷たくなっていく。
指先の感覚がなくなり、視界が暗くなる。
返り血だ。
過去に経験したどんなものよりも強力な、死に至る呪いの流れが、私の体を駆け巡った。
意識が途切れる、その瞬間。
私の頭の中に、全く別の記憶が、洪水のように流れ込んできた。
白い服を着て、白い手袋をはめている。
たくさんの機械が並んだ部屋に、私はいた。
目の前には、古い茶碗がある。
割れて、欠けて、見る影もない。
ピンセットで破片を拾い上げ、顕微鏡をのぞき込んでいる。
薬品のにおい、接着剤のにおい。
黙々と、何時間も作業を続けている。
長谷部栞、それが私の名前。
国立博物館の、文化財修復師だった。
連日の残業、締め切りに追われる日々。
同僚たちの、疲れた顔が浮かぶ。
もっと、この物の声が聞けたらいいのに。
どうして壊れてしまったのか、どうして欲しいのか、教えてくれたら。
企画展の準備中、収蔵庫で棚の整理をしていた時、ふっと、意識が。
そうだ、私は一度死んだのだ。
働きすぎて倒れて、誰にも気づかれずに。
そして、セレン・アルハイムとして、この世界に生まれ変わった。
なんてことだろう。
二度も、こんなにあっけなく死ぬなんて。
薄れゆく意識の中で、私は自分を笑った。
その時だった。
今までとは違う「声」が、頭の中に直接響いてきた。
イタイ、クルシイ、サビて、クチて、カタチが。
これは、目の前の聖杯の声だろうか。
でも、それは呪いの叫びとは少し違っていた。
もっと切実で、物理的な、悲鳴のようなものに聞こえた。
(さびて、朽ちて)
その言葉が、私の意識の最後の欠片を強く引き留めた。
長谷部栞としての、文化財修復師としての、私の魂がそれに反応したのだ。
(違う、これは、呪いなんかじゃない)
途端に、視界がぱっと開けた。
いや、実際に目を開けているわけではない。
頭の中に、聖杯の「構造図」のようなものが鮮明に浮かび上がったのだ。
素材、成分、時間による変化、その全てが、まるで自分の手で触れているかのようにわかる。
(これは、銀製品の硫化だ。長い間、血液か何かが付いたままにされたせいだ。それで硫化水素と反応して、表面に黒い膜ができている。それに、銅が少しだけ含まれていた。だから水分で、緑色のさびが発生しているんだ)
頭の中に、前世の知識が次々とよみがえってくる。
化学式が、専門用語が、私の思考を埋め尽くしていく。
(邪気の正体は、腐った有機物と、硫化反応の途中で発生した有毒ガス。これが魔力と反応して、一種の幻覚や体の異常を引き起こしているだけ。呪いなんかじゃない、ただの化学変化だ)
そうだ、これは呪いなんかじゃない。
これは、長い時間による劣化で起こった、素材の悲鳴なのだ。
この聖杯は、ただ助けを求めているだけだ。
元の美しい姿に戻してほしいと、叫んでいるだけなのだ。
(助けて、あげなきゃ)
その強い想いが、私の体を動かした。
死にかけていたはずの体に、どこからか新しい力が湧いてくる。
私は、ゆっくりと目を開けた。
「浄化じゃ、だめなんだ」
呟いた声は、自分でも驚くほどはっきりとしていた。
もう、私の心に諦めも絶望もなかった。
私の目には、禍々しい呪物ではなく、修復を待つ一つの「文化財」が映っていた。
「あなたを、治してあげる。いいえ、修復してあげる」
私は聖杯にそう告げると、儀式の祭壇からふらりと離れた。
そして、地下室の隅にある、ガラクタの山に向かって歩き出す。
家族が誰も見向きもしなかった場所。
私がこっそりと集めていた、壊れた道具や薬品の瓶がそこにはあった。
まずは、表面の有機物を取り除くことから始めなければならない。
厨房からこっそり持ってきた、料理用の安い酒精。
これを綺麗な布に染み込ませて、聖杯の表面を優しく拭う。
べっとりと、黒い汚れが付いた。
やはり、血液か何かが長い間固まっていたようだ。
次に、黒い膜の除去。
本当なら専門の薬品を使いたいけれど、そんなものはない。
代わりになるのは、あった。
食器磨き用に、と母様が昔使っていた塩と、酸っぱくなった果実から作ったお酢だ。
これを混ぜ合わせて、ペースト状にする。
「少し、しみますよ」
私は聖杯に話しかけながら、そのペーストを表面に丁寧に塗り込んでいく。
塩と酢酸が、黒い膜と反応する。
そして、水で洗い流せる化合物に変化させるはずだ。
前世では、もっと効率的な方法があった。
でも、今はこれでやるしかない。
最後に、緑色のさびの除去。
これは、物理的に取り除くしかない。
私は、鳥の骨を削って作った、自作の細いヘラを手に取った。
遺物の繊細な飾りを傷つけないように、細かな汚れを掻き出すための、私だけの特別な道具だ。
これで、慎重に、慎重に、さびを削り落としていく。
ミリ単位の、高い集中力が必要な作業だ。
でも、不思議と苦ではなかった。
むしろ、心地よかった。
これこそが、私が本当にやりたかったことなのだから。
家族は、私が儀式をやめて奇妙な行動を始めたことに、さぞ驚いているだろう。
怒鳴り声が聞こえてきてもおかしくない。
でも、階段の上は音一つしなかった。
おそらく、邪気が強すぎて近づけないのだろう。
どれくらいの時間が経っただろうか。
私は作業に夢中だった。
時間の感覚も、自分が死にかけていたことさえも忘れて。
そして、ついに最後のさびを掻き出した、その時。
聖杯から、ふわりと、温かい光が放たれた。
あれほど濃く立ち込めていた黒い邪気が、嘘のように消えていく。
後に残ったのは、まばゆいばかりの輝きを放つ、美しい銀の聖杯だった。
失われていたはずの細かい飾りが、まるで月の光を浴びたようにきらきらと輝いている。
「きれい」
思わず、ため息が漏れた。
聖杯から聞こえてくるのは、もう苦しみの悲鳴ではない。
穏やかで、心地よい、感謝の響きだった。
私は、生きていた。
魔術による「浄化」ではなく、科学の知識による「修復」で、死の呪物を無力化したのだ。
自分の力が、この世界で通用することを証明した瞬間だった。
地下室の冷たい床に座り込みながら、私は生まれ変わった聖杯を強く抱きしめていた。
もう、以前の私ではない。
長谷部栞の知識と、セレン・アルハイムの力が、今、確かに一つになったのだ。
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