十七侯爵英雄譚
マツモトコウスケ
序 神との契り〜”神の御使い”と”定めの者”
第1話 定めの者
夜。
なぜか男は外にいた。
夜は魔物が
結界の中へ!
魔物に襲われる前に、結界の中へ入らなければ!
そう思って周囲を見回した男の目に、あの少年が飛び込んできた。
驚いて少年に歩み寄り、声をかけた。
「どうした?
なぜそんなところにいる?」
少年は、男にニヤリと笑いかけた。
そのあどけない姿からは想像できない、背筋に冷たいものを感じるような不気味な笑顔だった。
少年が、赤く輝き始めた。
『見つけたぞ、エイカン……
こちらに来い。
そして、私の英雄を、人界の王たらしめよ!!』
赤い光がどんどん強くなり、やがて真っ白な光になって、そして男は光の中に取り込まれた。
グラリと足元が揺らいだかと思うと、宙に浮かんでいくような感覚を覚えた。
暑く、臭く、蒸していて、一刻も早く、その光から逃れたかった。
男は必死でもがいた。
遠くに、青く清々しい光が見えた。
なんとかそこにたどり着こうと、男は必死で宙をかいた。
だが、進めない。
男の足を、ものすごい力で握りしめる者がいる。
「逃がさんぞ! エイカン!」
振り返ると、そこにいたのは、少年ではなく、獅子のような顔で甲冑を身につけた、異形の者だった。
その目が、真っ赤に燃えていた。
「エイカン!
我が側にとどまれ!
あちらに行くことは、許さん!!」
エイカンの足首を掴む力がさらに強くなった。
骨が折れるかと思うほどの力だった。
これが、魔物か!?
だめだ!
魔物だとしたら、このままでは喰われる!
逃げなければ!
あの、青い光へ!
あそこへ、行かなければ!
もがき進もうとする男は気がついた。
魔物もろとも、青い光が男を招くように吸い寄せていた。
男は必死で手を伸ばす。
無限とも思う時間ののちに、やっと男の指先が青い光に触れた。
その瞬間、男の全身に、稲妻が走るような衝撃が突き抜けた。
異形の者は、その衝撃で吹き飛ばされた。
後方の、赤い光へと墜ちていくのがちらりと見えた。
男はそのまま、青い光に吸い込まれていった。
そこは、温かく、心地よい香りがする、穏やかな場所だった。
『エイカン……
リック・ジョージ・エイカン……
汝、彼の者を護り、仕えよ。
彼の者とともに、あらゆる苦難に耐え、あらゆる困難を甘受せよ。
そして彼の者とともに、大地の世の安寧を揺るがす者どもを排せよ。
エイカン……
リック・ジョージ・エイカン……
汝は、”定めの者”
汝の命は、彼の者──『神の御使い』に託された』
──定めの者?
彼の者を護れ、と?
世の安寧を揺るがす者を排除しろ?
なんのことだ?
何を、言っている?
男を包んでいた青い光が、徐々にその輝きを失っていった。
周囲が暗くなる。
男の意識が、ゆっくりと暗闇へと沈んでいく。
夢か?
いや……
俺は、リック・ジョージ・エイカン……
本当に?
わからない。
俺は誰だ?
どこから来て、どこへ行くのだ……
◆
「もし……もし……
旅のお方…… どうなさいましたか?
もし……もし……
お加減でも、お悪いのですか?」
その声に導かれて、男の意識がゆっくりと浮上した。
全身がひどく痛み、喉が焼け付くように乾いている。
男が重い瞼を開くと、吸い込まれそうに青い空が目に飛び込んできた。
「ああ、よかった!
気がつかれましたか? お水を、どうぞ」
そう言って柄杓を差し出した少女の華奢な手は、傷だらけで赤く腫れあがっていた。
男は、差し出された柄杓の水を一気に飲み干した。
うまい。
身体に染み渡っていくのがわかる。
この少女は、救いの天使だ。
「ありがとう。助かりました……」
周りには、乾ききった広大な畑が広がっている。
——ここは、どこだ?
「素敵なお召し物が泥だらけ……
あの、これしかありませんが、よろしかったらお使いください」
少女が、前掛けを外して手渡してくれた。
それで泥を払えと言うことか。
少女の小さな優しさが胸にしみる。
「お怪我はありませんか?」
「ええ…… まあ、大丈夫だと思いますが……」
そう言うと、男はどこか痛むところがないか確かめながら、ゆっくりと立ち上がった。
周囲を見回す。
まったく見覚えのない場所に戸惑った。
どうやら男は、この見知らぬ畑の真ん中で倒れていたらしい。
遠くに山並みが見える。
木々の緑と、真っ青な空のコントラストが美しい。
これ以上ないほどのどかな景色だが、見渡す限り畑の土は固く乾燥して、あちこちに亀裂が入っている。
「この畑は、あなたのもの、なんですか?」
「はい。昔は家の者が総出で耕していたのですけれど、去年、みな亡くなりまして……」
少女の声がか細くなる。
「じゃあ、今は君がひとりで?」
そう問うと、彼女が小さく頷いた。
彼女の手が傷だらけだったのはそのせいか。
その懸命な姿に、男の胸は締め付けられた。
「よし。水一杯の恩義だ。少し手伝わせてもらいましょう」
傍らにある鍬を手に取った。
男はためらうことなく、畑におりた。
長年使い込まれた柄が不思議と手に馴染んだ。
「そ、そのような! 見知らぬ旅のお方に、ご迷惑をおかけするわけには……」
「お水の御礼ぐらい、させてください」
男は微笑みを浮かべながらそう言うと、黙々と耕しはじめた。
吹き渡る風が心地よい。
その姿を見た少女が、少し驚いたような顔をした。
しかしすぐにかぶりを振ると、そこに置いてあった天秤棒を手に取った。
ふたつの桶いっぱいに水が汲まれている。
少女が、危なっかしい足取りで畑に降りてきた。
男は思わず声をかけた。
「あぶない!
言ってください。それぐらい運んであげますから」
「いえ、いつもしていることですので」
男の手が、少女の肩にずっしりとのしかかっていた天秤棒を持ち上げた。
桶にたっぷり汲んである水の重さに、男も思わずよろめいた。
「今年はこの時期になっても水路が枯れているので、家の井戸からお水を汲んで運んでいるのです」
周囲を見回すと、遠くに、石造りで三角屋根の立派な屋敷が見えた。
「まさか、あそこから?」
「はい。
あれが私たちグレイス家の屋敷です」
あんな遠くから、この華奢な少女が水を運んでいるというのか?
無茶だ。
それにこの広さの畑に必要な水を、天秤棒に下げたふたつの桶で運べるはずがない。
「あ! まだ自己紹介をしておりませんでしたね」
少女はスカートをつまむと、軽く膝を折って頭を小さく下げながら、名乗った。
「レスタロス侯爵から騎士をいただいておりますグレイス家の娘、ネネと申します。
どうぞお見知りおきください」
「ネネ・グレイス……様?」
「はいっ!」
そういって浮かべる笑顔は、男が今まで見たことがないほど輝いていた。
きっと、この娘は誰からも慕われ、愛されているのだろう。
「旅の騎士様のお名前をうかがってもよろしいですか?」
「俺は……」
男は記憶をたどった。
だが。
──名前!?
俺の、名前は!?
思い出せない。
自分がどこから来たのか、自分が何者なのか、何も、思い出せない。
記憶の奥底になにかが淀んでいるように感じるのだが、自分が誰かすら、思い出せない。
男の中にあるのは、ただ、あの赤い光の中で出会った異形の者と、青い光の中で聞いた声の記憶だけ、だった。
夢を見たとは思わない。
幻だったとも思わない。
俺は、リック・ジョージ・エイカン……
本当に?
わからない。
あの少年の英雄を、「人界の王」たらしめろ、と?
どうやって?
『定めの者』として生きていけ?
どうやって?
俺は、どこから来て、どこへ行くのだ……?
◇
目の前の少女が、じっと男を見ていた。
「私は……
エイカン、と申します。
リック・ジョージ・エイカン……と」
「エイカン様?
騎士様、でいらっしゃいますか?」
「いや……
どうでしょう?」
口ごもった男の反応を見て、ネネがはっと気づいたように言い添えた。
「私ったら、ごめんなさい!
おっしゃりたくないことでしたら、お話しいただかなくて結構ですよ!
そう、ですよね。
誰にでも、話したくないことや思い出したくないことは、ありますもの……」
そう。
ネネとその家族を襲った、一年前のあの忌まわしい出来事のように──
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