四月二十六日(火)
チェルノブイリ原発事故から、ちょうど今日で二十五年だそうだ。旧ソ連のウクライナ共和国で起こったこの事故による放射能汚染被害は、広島原発の約六百倍と言われているらしい。福島原発事故の国による評価が、チェルノブイリ原発事故と同じレベル7になったとニュースでやっていたのを思い出す。多少、大袈裟な評価なのかもしれないが、それでも今後の放射能汚染の被害が心配になる。今後、産まれてくる子供に影響が出なければ良いのだが。地震の後、これまであまり関心のなかったニュースを、僕はよく見るようになった。
唯香は集中すると何も聞こえなくなるようだった。テレビがついてようが、僕がギターを弾いていようが、彼女は気にならないと言った。むしろ、何か音が鳴ってないと恥ずかしくて曲作りが出来ないと言った。
歌詞をノートに書き込みながら小さく口ずさんでいる。テレビの音声に紛れているその未完成のメロディーに僕は聞き耳を立てる。目は先ほどニュースを見ていた時と同じようにテレビ画面に向いているが、意識は完全に彼女に向いていた。正午前のニュースが終わり、今は『笑っていいとも』のオープニングテーマが流れている。
当初、信じられなかった彼女という存在がもうすぐなくなってしまう。今度はそのことが信じられなかった。
バイト中も唯香のことを考えた。
今日のイベントのチケットを作っている時、ドリンクカウンターでカシスソーダを作っている時、ホールを掃除している時、誰かと話している時でさえも唯香のことが頭から離れなかった。
僕が帰り支度をしているこの時間も、彼女は僕の部屋で存在している。曲作りに没頭しているところや、テレビを見ているところを僕は簡単に想像することが出来た。
店長はまだ今日出演したバンドと話し込んでいる。普段ならバンドとの話が終わるのを待っているのだが、「スイマセン、今日は少し用事があってお先に失礼します」と話に割り込む形で僕は言った。少しでも早くアパートに帰りたかった。
家に帰るとカレーが用意されてあった。カレーは二度目の登場だった。
「今日のカレーの隠し味を当ててみて」と唯香は言った。
注意深く全神経を舌に集めてみたが、味音痴の僕が当てられる訳もなく、
「正解はコーヒーです」
という彼女の答えに心底驚いた。
カレーを食べた後、「美味しかった」という賛辞とお礼を言って、僕は流しでお皿を洗う。
洗剤をつけたスポンジで皿を擦りながら、
「曲出来た?」と僕が聞く。
「もう少し」と彼女は答えた。
「明日中には完成させないと」と僕が言うと、
「わかってる」と彼女は言った。
トイレに行って小便をし、小さなキッチンで歯を磨く。僕がこの行為をするということは、この後、眠るためにベッドに向かうということだ。
歯を磨く時、僕は鼻歌を歌うようにしている。口が塞がれているので文字通り鼻歌だ。そうすることによってこの歯を磨くという行為が単純でつまらないものから、少しだけでも陽気で楽しいことのように感じられる。その鼻歌のメロディーは僕の即興により毎日変わる。ギターのリフっぽいものもあれば歌謡曲やポップス、時には軍歌のような時もあった。今日のメロディーは歯切れの良いロックナンバーだった。いつもにも増して陽気に振舞おうとしている僕がそこにはいた。彼女にだけは僕の今の心境を知られてはいけない。
「今日のメロディーいいね」
唯香が話しかけてきた。
「ほう?」
そう? と僕は聞き返したつもりだった。口の中が歯磨き粉で泡立ったままなので上手く話せない。
「今までで一番いい」と唯香が言う。
「ほれはほかった」
それは良かった。そう答えながら、今までの鼻歌も聴かれていたという事実を少し恥ずかしく思った。鼻歌を再開するのを少しためらった。
歯磨きを続けながら、僕は彼女がどういう心境でそう話しかけてきたのかを探ってしまう。彼女との生活の終わりが一瞬のうちに見え隠れし、彼女もそのことを意識している気がした。
僕は口をゆすいで歯ブラシをいつもの場所に戻した。
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