四月六日(水)
目覚めると枕に横たわっていたはずのフィギュアの姿が無かった。まさか、いなくなったのでは、と思い跳ね起きる。
ローテーブルの上に置いてあった小さな鏡の前に彼女はいた。
しかし、それは昨日までの姿ではなかった。
彼女の姿が変わっていたのだ。それは、ただ小さくなっただけで人間と変わらない姿だった。昨日、遺影で見ていたのですぐにそれが唯香だと分かった。フィギュアとは違う制服を彼女は着ていた。おそらく彼女の通っていた高校の制服なのだろう。
こんなことがありえるのだろうか。魂が物に乗り移り、ついに元の姿になった。小さくはあるが、それは確かに生前の彼女の姿に違いなかった。
「ど、どうやってその姿になれたの?」
僕は、驚きと歓喜の入り混じったような複雑な顔をしていたのだと思う。こんな時に人間はどんな顔をしたら良いのだろう。まとまりのない僕の顔の表情を見て、唯香は噴き出しそうになっている。しかしながら、その目が照れくさそうにしているのを僕は見逃さなかった。
「どうしてでしょう?」
おどけた表情をして、アニメのキャラクターではない人間の形をしたそれが言った。声を発する口の形も、まばたきや髪の毛の一歩一本まで、それは生身の人間と何ら変わりはなかった。ただ小さいということを除いては。
「またイメージでそうなれたの?」
「うん」
「すごいね」
「うん」
「マジですごい」
「うん」
こんなやりとりをしているうちに笑いが込み上げてきた。
信じられないが信じるしかない。そもそもフィギュアが動き出した時点で、僕の常識のラインは完全に崩壊していた。
「やっぱり大きくはなれないの?」
「うん。それは無理だった。大きくなるのは物凄く力を使うの」
「そうなんだ。例えば等身大のフィギュアを持ってきて、それに乗り移っても無理?」
「多分無理。手を一本動かすので精一杯なんじゃないかな」
「そうなんだ。ちょっと残念だけど仕方ないね」
「いいじゃん。これで。小さくて可愛いでしょ。ペットみたいに可愛がってよ」
実際に動く彼女の仕草が無邪気で可愛かった。
春の陽気と桜がリンクしている。満開に咲く桜がピークを迎えつつある。満開を迎えると桜は散る一方だ。だから桜は満開の直前が良い気がする。それは人生と似た感覚があるのかもしれない。人生もピークを迎える少し手前が、実は一番良いのかもしれない。ピークを迎えると後は朽ちて死に向かっていくだけだ。
僕はよく桜に人生を重ね合わせてしまう。もしかしたら三年前に祖父が、「今年も桜が見たかった」と言って夢叶わぬまま死んでしまったのが関係しているのかもしれない。桜はどうやら僕に人間の死を連想させてしまうらしい。
アパートを出るとひらひらと舞う桜の花びらがあった。
綺麗なのがまた罪だ、と思った。
僕は桜を見ると少し感傷的になってしまう。いや『メランコリー』と同じように英語に訳した方がしっくりくるのかもしれない。確か『感傷的』は英語にすると『センチメンタル』だ。
そんなことを考えながら駐輪場に行き、ギターを背負ったままバイクにまたがると僕はエンジンをかけた。
高円寺のスタジオで十二時から二時間のバンド練習を終え、僕は下北沢に到着した。今日からしばらくバイトの日が続く。
コンビニを横目にバイト先であるライブハウスに向かう。コンビニの店内はまだ暗かった。いつまでこの状態が続くのだろうか?
どうやら夏の計画停電はなくなったらしい。これで僕が働くライブハウスが営業停止になることもなくなった。一安心だ。しかしニュースを見ていると暗い話題は尽きない。原発事故によって漏れ出した放射能からくる風評被害が、どんどん大きな問題になっている。
実際、こうやって歩いているこの下北沢の街にも、少なからず目に見えない放射能というものが漂っていることだろう。以前よりマスクをしている人が多くなったような気がするのはそのせいだろうか? そのうち日本はマスク無しでは外を歩けなくなるのではないか? イスラム圏の女性のように、目以外を全て包まれた服装をしている日本人を想像してしまう。
やはり僕もマスクくらいはした方が良いのだろうかと考えた。
今後の日本が明るくないことを認めるようで嫌だなと思った。
バイトから帰ってくると部屋が綺麗に片付いていた。
「掃除してくれたの?」
こざっぱりした部屋を見渡しながら僕がそう聞くと唯香は、
「うん。何もしない居候っていうのも申し訳ないし」と言った。
「そんな小さい身体でよく出来たね」
「やりようだよ。物に乗り移れるからね。雄太には見せたくないから見せないけど。片付けたい物自体に乗り移っちゃえばいいわけじゃん。楽勝だよ」
唯香は両手でピースサインを作った。
一ミリの濁りもない笑顔がそこにはあった。
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