四月三日(日)
アパートの部屋に帰ると、ボールペンに向かって「ただいま」と言った。ボールペンが動き、ノートに〝どこに行ってたの? 心配するじゃん。〟と書いた。僕は、「バンドメンバーの家で飲んでた」と答える。まるで恋人同士だなと思った。実体は見えないけど彼女はこの部屋に間違いなく存在している。さりげなく部屋の中を見渡してみた。昨日、僕が出かけた時のまま部屋は何の変化もない。ベッドの布団の形もローテーブルの上に置かれた飲みかけの緑茶のペットボトルの位置も一緒だ。もっと探せば限りなくあるだろう。間違い探しは得意なのだが、この部屋からは何も出てこないと思う。テレビの画面にうっすら積もった埃の量でさえも何ら変化がない気がした。
しかし、彼女は僕がいない間もここに存在し続けたのだ。
彼女は自分のことを魂だと言った。霊と魂は違うのだろうか? どっちにしても霊も魂も僕には見えない。ボールペンが動いてノートに何かを書かないと、その存在を確認出来ない。彼女はどこでどのようにしているのだろう? もしかしたら僕の目の前、ほんの1センチ先にいるのかもしれない。
僕は彼女の存在に対して話したかった。僕は彼女を目に見える物として常に感じていたいと思った。そうでないと気味が悪い。だからといってどうしたら良いのか分からなかった。
「このままずっと僕には君のことが見えないのかな?」と僕は聞いた。
〝たましいは見えない。〟
と彼女は書いた。
〝散歩につれて行ってほしい。〟
テレビを見ながらタバコを吸っているとボールペンが動き、ノートにそう書かれた。僕は、「いいよ」と答える。「どうしたらいい?」という僕の問いに、〝ボールペンに乗り移るから持って行って。〟と返答があった。どうやら彼女は外部の力でボールペンを動かしているのではないらしい。ボールペン自体に入り込んで文字を書いているのだ。
僕はダンガリーシャツの左の胸ポケットにインクが無くなって書けなくなったボールペンを入れた。コミュニケーションが取りたかったので、イエスならノックを一回、ノーならノックを二回してと頼んだ。早速一回のノックがあった。これで彼女とのコミュニケーションが取れる。インクは出ないのでポケットの中が汚れることもなかった。我ながら素晴らしいアイデアだと思った。
ダンガリーシャツの上にダウンジャケットを羽織った。前のチャックは開けたままにして彼女の反応が分かりやすいようにする。
「自由に外には行けないの?」という問いに彼女はイエスと答えた。どうやら僕と一緒なら外に出られるが一人では無理らしい。魂なんてものはもっと自由でプカプカと好きなところに浮いていけそうな気もするが、彼女には彼女の事情があるのだろう。
アパートを出ると僕は駅の方に向かって歩き出した。
桜が所々で咲いている。しかし、少し肌寒いしお花見をするには良い気候とは言えなかった。少し冬に戻った気がする。
「寒くない?」と聞くとノックが二回あった。
駅の近くにある図書館に行って本を何冊か借りた。マクドナルドでハンバーガーを食べた後、帰ることにした。
急に胸ポケットが引っ張られる感覚があった。その行為が何を意味するのかが、すぐには理解出来ない。注意して引っ張られる方向を見てみる。ゲームセンターがあった。どうやら入れということらしい。「ゲームセンターに行きたいの?」と聞くとノックが一回あった。僕は文字通り引っ張られるようにゲームセンターの入り口に向かった。
入り口にはUFOキャッチャーの機械があった。ボールペンがその機械の方に自分を導こうとした。
「取れってこと?」
そう口に出して言いながら目の前の機械を見る。ノックが一回あった。ガラスの向こうには女子高生のフィギュアが飾られていた。アニメのキャラクターらしい。身体の各部が可動式になっているものだった。箱に入ったものが真ん中に一つ置かれている。こんなものを取れと言うのか? オタク文化があまり理解出来ない僕は、このようなものを取って部屋に飾る神経が分からなかった。
「いらないよ。僕にはそんな趣味はないよ」
そう言ったらボールペンが二回ノックした。
「君が欲しいってこと?」
一回のノック。
「好きなの? このアニメのキャラクター?」
二回のノック。ノートがあれば筆談が出来るのだが、この状態では僕の問いにイエスかノーでしか彼女は答えられない。それが歯がゆかった。
「とにかく取ればいいの?」
一回のノックがあった。
訳の分からないままお金を機械に入れた。クレーンを操作して箱を右手前にある穴に落とそうとする。しかしクレーンの掴む力が弱いせいで箱は2、3ミリ動いただけだった。そんなに簡単に取れるはずがないと思っていたが、ここまで動かないものだとは思わなかった。続けざまに2回やったところで財布の中の百円玉が無くなった。「どうしても取って欲しい?」と僕が聞くと、ボールペンが一回ノックした。よし。いくらつぎ込んででも取ってやろうと思った。
両替機で千円札を百円玉に三回両替した。
三千円近くをつぎ込んでようやく取った。取り出し口から取り出した時、「ありがとう」という声が聞こえた気がした。
部屋に帰り、箱からフィギュアを取り出してローテーブルの上に置いた。大きさは十五センチくらいだろう。横になった状態のフィギュアは笑顔で固まったまま天井を見ている。短いスカートの中に白い下着が見えていた。オタク達はフィギュアのこういう部分に興奮するのだろうか?
「どうしてこんなものが欲しかったの?」
意図することが知りたかった僕はそう尋ねた。ボールペンをノートの近くに置く。これで彼女と筆談が出来る。イエスとノーだけでは意思は伝わりにくいものだ。僕は自分の問いかけに対する彼女の反応を待った。
少しの沈黙の後、動いたのはボールペンではなかった。
なんとフィギュアがゆっくりと動いたのだ。
各部が可動式のフィギュアなので、可動範囲内でなら動くことが出来るみたいだ。ぎこちない動きで首を動かしこっちを見た。それは出来損ないのロボットのようにぎこちない動きだった。手をついて立ち上がろうとする。一度失敗したが二度目は生まれたての子鹿のようにたよりなくバランスを取りながら立ち上がった。カクカクという動きで両手を上げたり下げたりした。続けて首を左右に動かす。可動範囲を確かめているようだった。顔の表情は笑顔のまま変わっていないので変な感じがしたが、目の前で動くそのフィギュアはアニメの世界から飛び出してきたようだった。
僕は静止したまま動けない。
「どーも」
声が聞こえる。フィギュアはゆっくりとお辞儀をした。
「取ってくれてありがとう」
僕があっけにとられて何も言えないでいると、続けてそう声がした。どうやらそのフィギュアの方から声がしているようだ。元気な女子高生といった声だ。
僕の脳が少し理解をする。彼女はボールペンに乗り移った時のように、今度はフィギュアに乗り移ったのだ。
「話せるなんてすごいね」
僕がカラカラに乾いた口でそう言うと、
「イメージで何とかなるみたい。なんでもっと早く気がつかなかったのかなぁ」
と声がした。高く明るい声だ。声はやはり目の前で動くその物体から聞こえる。ストレッチをするように腰に手を当てて身体をねじっていた。すでに先ほどよりもスムーズな動きをしていた。
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