神の使いと白の聖女~記憶を失った俺、どうやら聖女様には神の使いに見えるらしい~

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記憶喪失の男

第1話 記憶なき目覚め

――風が吹いていた。


心地よい涼風が頬を撫で、草原を渡る匂いが鼻をくすぐる。

男はゆっくりと目を開けた。


そこに広がっていたのは、雲ひとつない澄み切った青空。

どこまでも続く空色にしばし見惚れ、思わず深く息を吸い込む。


――あれ、おかしいな。確か俺は――。


考えかけて、何をしていたのか思い出せないことに気づいた。

胸の奥に妙な重さがあり、全身に鈍い疲労感が残っている。


視線を落とすと、自分の服がひどく汚れていた。


白地で身体にぴったりとした衣服。

麻や革とは違う、滑らかな手触りの不思議な生地だ。

土にまみれ、裂け、焦げ跡すら残っている。


男は身を起こし、周囲を見回した。


そこは石造りの床の上。

風除けもない吹きさらしで、円形に積まれた低い壁が続いている。


――塔の上……?


眼下には遠くまで続く緑と山並み。

小さく点々とした家並み、薄い煙を上げる集落の影。


まるで見知らぬ世界を見渡しているような眺めだった。


これは夢に違いない――男は思った。

だからこれは現実ではなく、どこかで見た風景が混じった夢なのだろう。

そう考えると、澄んだ青空も、心地よい風も、破れた服の感触すらも妙に納得できてしまう。


石の床に座り込んでいると、コツ、コツ、と軽い足音が下から響いてきた。

やがて螺旋階段の向こうから、一人の女性が姿を現す。


長いローブをまとい、金糸のような髪を背に垂らした女性。

胸元には見慣れぬ意匠の聖印が揺れ、柔らかな微笑みを浮かべている。


「……あら? こんなところに人がいるなんて、珍しいですね」


鈴のように澄んだ声。穏やかな調子で首をかしげる仕草は、どこか人懐こい。

女性の視線は、男の汚れた白い服に一瞬とどまったが、すぐに優しい笑みに戻った。


「夢、なのかな。だって、こんな綺麗な……」

「夢……ですか? ふふ、それも素敵な答えですね」


女性は名をセシリアと名乗った。冒険者として活動する神官であるという。


ここは古来より“神の声を聞くため”に築かれた塔。

今は遺跡となり、調査や依頼の対象になっているらしい。


「私はセシリアと申します。この塔の調査で立ち寄っていたんです」


彼女は胸の前で手を合わせ、ゆるやかにお辞儀をした。

その所作には儀礼の厳かさと、人を安心させる温かさが同居していた。


「俺は……そうだな。イカルガってことで」


自分の名前すら思い出せない。

だが「イカルガ」と口にしたとき、どこか確かな感覚があった。

セシリアはにこやかに頷き、その名を受け入れた。


――夢だから、きっとそれでいい。

そう思いながらも、彼女の存在感はあまりに確かすぎた。


「では、イカルガさん。街まで一緒に行きましょうか」


セシリアは穏やかにそう言った。


「街……?」


イカルガは遠くに見える白壁の町並みを見つめる。

夢なら放っておいてもいいはずなのに、腹が減ってきている。

夢にしては、やけに都合が悪い。


「はい。冒険者の依頼もありますし、宿も食事もありますから」


セシリアは微笑んだ。

その笑顔に、イカルガは流されるように頷いた。


―――


塔を後にし、二人は街へと続く道を歩き出す。

街道は土の道だが、よく踏み固められ、荷車の轍がいくつも重なっている。

周囲には畑や牧草地が広がり、農夫や羊飼いの姿も見える。


「……ずいぶん、のどかだな」


「ええ。セリカ王国は比較的平和なんですよ。もちろん魔物も出ますけれど、冒険者がいますから」


「冒険者……ね。ゲームみたいだ」


イカルガが苦笑すると、セシリアは小首をかしげた。


「ゲーム……? よく分かりませんけど、冒険者は皆の暮らしを支えるお仕事ですよ」


彼女の穏やかな声に、イカルガは思わず息を漏らす。

夢だと思っていたはずなのに、この世界の空気はあまりに現実的だ。


そして、自分の“常識”が通じないことを痛感させられる。


―――


街が近づくにつれ、風景はますます現実味を増していった。

白壁に囲まれた城塞都市。

高い石壁が幾重にも巡らされ、門前には長い行列ができている。

行商人の荷車、旅人の一団、農夫たち――人の往来は絶えない。


「夢のくせに、妙にリアルだな……」


イカルガはぼやきながら列に並んだ。

やがて門上から兵士の鋭い声が響く。


「身分を示せ!」


セシリアは冒険者証を差し出し、すぐに通された。

だが兵士の視線は、破れた白い服のイカルガに向けられる。


「そちらは? 見ない服装だが、どこの国の者だ」」

「私の連れです。……イカルガさん。少し記憶をなくされていて」


セシリアの言葉に兵士は訝しげな目を向けた。

そのとき、腰の魔法具がチリ、と小さく鳴る。


「……? 今、干渉音が……」

「気のせいでは?」と別の兵士が肩をすくめた。


結局それ以上は追及されず、セシリアの証と人当たりの良さに折れ、通行を許した。


「……通ってよし。ただし街で問題を起こすなよ」


二人は城門をくぐる。

石畳の大通りに踏み出した瞬間、喧騒と香辛料の匂い、果物の甘い香りが一気に押し寄せた。

そのすべてが、イカルガの感覚を圧倒していった。

すれ違う人々が、彼の異質な衣服に好奇の視線を向けては、すぐに逸らすのがわかった。

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