人よ、人たれ。呪いあれ。
トモ倉未廻
01
第1話
それは、使い古された雑巾のようで、打ち捨てられた人形のようでもあり、おおよそ数分前までは人としての機能を果たしていたとは思えない。
有明和志(ありあけかずし)が見下ろすそれは、死体である。どんな色合いの服を着ていたのか、どんな髪の色をしていたのか――彼女の投げ出された四肢にほとんど纏わりついていると表現するのが精々の、もとの形さえ判然としない衣類の布地は血を含む黒ずんだ赤色をしていて、冷え込んだ夜気が這うコンクリートの地面に広がった長い髪はまるで真っ赤な絵の具の上に放り出された絵筆のようにそもそもの色をなくしていた。赤、と表現できるすべての色は、彼女の体を中心として月明かりに光沢を作りながら、コンクリートの白褪せた灰色と境目を築いている。
赤。黒ずんだ赤。目が覚めるような赤。そのどれもが生命そのものの色であったはずなのに今は圧倒的な、死の臭いだけを撒き散らしていた。
「彼女、あくまで拒んだんだよね。命を握られても、首を縦に振ろうとはしなかったんだ」淡々とした声は、ただ一人しかいないと思い込んでいた倉庫の空気を揺らす。
振り向くまでもなく、その声の主は和志の落とされている視界の中に入り込んできた。身なりも綺麗に整っているのだろうと連想するのに容易い磨き上げられた革靴の先が、赤と灰色の境で立ち止まる。和志とは、女の遺体を挟んで赤の領域越しに対峙する。「男は笑いながら彼女を殺していたよ。誰もいないところで自分が殺してしまえば、彼女の目に映った最期のものは自分になるから。動かなくなる脳みそが最期に認識するのが自分なら、永遠に君は僕のものになるとか言ってね」
瞼は今にも裂けんばかりに見開かれ、眼窩におさまっているにごった眼球がただぼんやりと宙を見ていた。――この目に人として、死ぬ事への恐怖心や、その恐怖心にも折れなかった強さがこもっていた時、男はどんな気持ちで見つめていたのだろう。和志はふと思った。自分ひとりだけが愛しい人の世界を独占する喜び、箍の外れた調子はずれの笑い声がひょんな拍子に耳の奥で聞こえてくる。「……助けなかったのか?」口のほうは、ちっとも考えていなかった事を口にしていた。自分の声を聞いて改めて、質問したのだと理解して顔を持ち上げる。
「見殺しにしたのか? 森見」
彼は肩をすくめた。相変わらず、そんな些細な所作さえ舞台に上がる役者のように栄える男だった。気障ったらしいと思う事も出来るのだろうけれど、彼のそれには鼻につく類の嫌らしさはいつもない。
「助けるも何も、それは僕の仕事じゃない」じゃあ、誰の仕事か。とは質問するつもりもないし、彼が言う事もない。もし言えばそれは単純な、和志に対する嫌味になるだろう。「僕だってあいつらを追いかけてはいるんだ。でも君達みたいにすべてのアンノウンを追いかけてるわけじゃないし、殺したいわけでもない。もちろん、割の合わないボランティアをするつもりもないからね」
「今回は、お前が追いかけてる例のあれとは別のアンノウンだった、って事か?」そうでなければ彼がこんなところで悠長に遺体の番をしているわけもない。大方こっち側の誰かが遺体の回収に赴いてくるのを捕まえて情報交換でも、と考えていたのだろう。この男の口先三寸に乗せられるメンバーの多さはイコールで情報漏えいへの危機意識の低さにも繋がってくるから、和志としてはひっそりどころか露骨にため息をついて相手を睨みつけるほかない。
「パターンは似てるけどね」言いながら腕を組む姿は、壇上で教鞭をとる人間のそれだった。教えてやろう、と見るからに見下す色を含んでいる。「執着心の塊で独占欲が強すぎる、自分以外を見ているのが気に喰わない。だから、目に映ってる全部のものを壊しつくしてから殺してしまおう――っていうのは、カリバニズムとかに比べればそんなに珍しい事でもないんだろう?」
「珍しくないと断言されるのは困る」まっとうに生きていくのならどちらも、内心で抱く事にさえ躊躇いを覚える歪んだ感情のひとつに違いない。こっちを見てくれないなら殺してしまおうと凶器を握り締めるのも、その凶器を包丁やら鉈やらにして一緒になりたいから食べてしまおうと涎をたらすのも、常人が見聞きすれば顔をしかめたくなる事だろう。大差なく理解の範疇からはみ出ている妄執の片方のみを自身の基準で、珍しくないだろう?、と訊ねてくる男の中に、似た寄るものが巣食っているのは知っていた。
――知ってはいても、改めて我に返るような心地で気づかされるのは、こういう時だ。道端に転がっているありふれた石ころのひとつが、陽射しをはじいて、石ころらしくない綺麗な色で光っているのを見るような、自分の捉え方がまだまだ中途半端で甘いものなのだと、認めなければいけない瞬間である。
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