国税庁ダンジョン課税 特別捜査官 蓮見司 惡を斬る!
亞酩仙介
File 1:『落日人情、湯けむりの里に見た真心』
「……ふぅ」
思わず、肺の底から声が漏れた。
肩まで浸かった乳白色の湯が、じんわりと身体の芯を温めていく。ほのかに鼻をつく硫黄の香りが、いかにも本物の温泉ダンジョンに来たという気分を高めてくれる。
最近流行りのテーマパーク型ダンジョンが湧かす湯は、決まって無味無臭だ。最新の浄化魔法かなにかで、いかにも万人受けするように調整されている。それはそれで快適なのだろうが、どうにも物足りない。俺みたいな人間にとっては、少しばかり野趣あふれる、このくらいの湯加減がちょうどいい。
俺が今いるのは、岩を組んで作られた趣のある露天風呂だ。視界の端で、湯気で曇った丸メガネが岩の上で心許なげに転がっていた。まあ、今は必要ない。湯船の縁に頭を乗せ、ゆっくりと天井を見上げる。
そこに空はなかった。
その代わり、遥か高くにある岩盤には淡い光を放つ苔が一面に自生していた。まるで満天の星空のようでいて、時折青みがかった光がオーロラのように揺らめいてはまた緑色に変わる。ダンジョンが自然に映し出すこの不思議な色の移り変わりが、コンクリートジャングルでささくれ立った心を不思議と和ませてくれた。
目を閉じれば湯口から湯が注がれる音と、岩肌を水が伝うかすかな音だけが聞こえてくる。都会の喧騒が嘘のような、贅沢な静寂がここにはあった。
――湯けむりの郷。
雑誌の片隅に載っていたそのダンジョン温泉は、「古き良き日本の原風景が残る秘湯ダンジョン」などと紹介されていた。なるほど、「秘湯」というのは言い得て妙だ。なにせ、ここまで来る道中、他の観光客らしき人間とは一人としてすれ違わなかったのだから。
最寄りの駅からバスに揺られて三十分。寂れたバス停から歩くこと、さらに十分。かつては「温泉繁華街」と呼ばれていたらしいその道は、シャッターを下ろした土産物屋が痛々しく並び、アスファルトの亀裂からは夏草がたくましく顔をのぞかせていた。軒先で虚しく揺れる、色褪せた歓迎の幟(のぼり)だけが、かつての賑わいを物語っていた。
本当に、忘れられてしまった里、という感じだ。
日本各地に『ダンジョン』と呼ばれる異質な空間が出現してから、もう二十年が経つ。あの頃の熱狂と混乱の時代を経て、今ではダンジョン法や、それにまつわる税制もすっかり整備された。一攫千金を夢見たゴールドラッシュは遠い昔の話。今やダンジョンは完全に飽和状態だ。ここ『湯けむりの郷』のように、一時のブームが過ぎ去って時代に取り残されたダンジョンやそれに付随する歓楽街が、全国で社会問題にまでなっている。
我に返った俺は、改めて周囲を見渡した。
湯口の竹は黒ずみ、ひび割れ、湯船を囲む檜の柵もささくれ立っている。温泉の香気とは裏腹に、廃れゆく年月の痕跡がそこかしこに刻まれていた。お世辞にも、手入れが行き届いているとは言えない。この寂れようも無理はないのかもしれないな。
だが、この湯だけは――紛れもなく本物だった。ダンジョンから湧き出る源泉は、微かな魔力を含んでいるらしく、凝り固まった身体の芯を、内側からじわりと解きほぐしていく。
少しばかり、仕事で心身ともに疲れ果てていた。どうしても、こういう本物の癒やしが欲しかったのだ。
誰もいない貸し切り状態の露天風呂で、俺はもう一度深く息を吐き出した。天井の苔が放つ優しい光が火照った頬を照らしている。しばらくは、この極楽を独り占めさせてもらうとしよう。そう。俺は今は、ただの休暇を過ごしに来た一人の青年にすぎないのだから。
極上の湯を堪能し、備え付けの浴衣に袖を通した俺は、少しばかりこの「湯けむりの郷」を散策してみることにした。湯上がり処から続く廊下は、かつての繁華街の面影を残していた。左右には土産物屋や射的場らしき店舗が並んでいるが、そのどれもが分厚い埃をかぶり、固くシャッターを下ろしている。
天井の光苔だけを頼りに進む薄暗い通路は、まるで廃墟のようだ。ここが繁盛していたのは、もう十五年以上も前の話なのだろう。
俺は、通路の壁に掲げられた一枚の金属プレートに目を留めた。
「ダンジョン施設登録証。等級:Cマイナス。登録延床面積:1,250平方メートル。所有者:……」
ダンジョン固定資産税。それは、ダンジョンの所有者に課せられる税金だ。立地やら設備やら、要素を挙げればキリがないものの、基本的には税額はこのプレートに記載されている二つの要素、ダンジョンの危険度や産出物の価値を示す『等級』と、施設の規模を示す『登録延床面積』によって算出される。等級が低く、面積が小さいほど、税金は安くなる。
人によっては降って湧いたような税金だ、どうにかして支払いを逃れたいと考える所有者は後を絶たない。そのためよくある古典的な脱税の一つが『延床面積』の偽装だ。未登録のまま施設を拡張し、本来より小さな面積で申告する。そうすれば、実際の規模より安い税金で済む。もちろん、地上にある普通の建物でそんなことをすれば、航空写真一枚でバレる、あまりに稚拙な手口だ。
だが、相手がダンジョンとなると話は別だ。ダンジョンは内部で空間がねじれていたり、魔法的な偽装で通路が隠されていることも珍しくない。そもそも、危険なモンスターが徘徊する奥地に、市役所の調査官がメジャーを持ってのこのこ入っていくことなど不可能だ。
だからこそ専門の捜査官が必要になり、ダンジョンの不正は、ダンジョンを知る者……つまり、卓越したスキルを持つ冒険者でなければ、決して見抜くことはできない。
しかし、この寂れようだ。拡張工事はもちろん、凝った偽装をするような余裕があるとは到底思えない。プレートに刻まれた文字を指でなぞりながら、俺は首を傾げた。
「きゃっ!」
角を曲がろうとした俺の身体に、誰かが勢いよくぶつかってきた。柔らかな感触と、石鹸の香りがふわりと広がる。俺が支えようとするより早く、相手は床に尻餅をついてしまう。
「すみません、大丈夫ですか?」
慌てて手を差し伸べると、そこにいたのは俺と同じくらいの年頃の、素朴な雰囲気の女性だった。黒髪をひとつにまとめ、従業員用の作務衣を着ている。
「ご、ごめんなさい! 人がいるとは思っていなくて……!」
彼女は顔を真っ赤にしながら、慌てて散らばったタオルを拾い集め始めた。俺も手伝いながら、言葉をかける。
「いえ、こちらこそ。……お一人で切り盛りされているんですか?大変ですね」
「あ、はい……。両親もいるんですけど、最近、なんだか奥にこもりっきりで……」
彼女は、何かを言いかけて、ふっと口をつぐんだ。その瞳に、かすかな憂いの色が浮かんでいる。
「何か、悩み事でも?」
俺がお節介だとは思いつつもそう尋ねると、彼女は堰を切ったように、小さな声で話し始めた。
「あの……変なことを聞くんですけど、お客さんは、うちの温泉、どう思いましたか?」
「どう、とは?」
「その……お湯の質とか、最近、変わったことは……」
「いえ、素晴らしい湯だと思いましたよ。最高の気分です」
俺の答えに、彼女は少しだけ安堵の表情を見せた。だが、その憂いは晴れない。
「よかった……。でも、やっぱり両親の様子がおかしいんです。夜中に二人でこそこそ何か作業してるみたいだし、何か聞いても『お前は知らなくていい』の一点張りで……。この大事な温泉を守るために、何か、何か悪いことに手を出しているんじゃないかって……」
なるほど。奥にこもりきりの両親。夜中の秘密の作業。そして、娘にさえ隠す「何か」。
それは、ただの勘違いか。それとも──。
俺は、少しだけ野暮ったく見える丸メガネの位置を直し、人の良さそうな笑顔を作って言った。
「そうですか……。もしよければ、俺にできることがあれば手伝いますよ。見ての通り、ただの旅行者で、時間だけは余ってますから。話し相手くらいにはなれると思います」
◇
彼女の名前は、ユキさんというらしい。この「湯けむりの郷」の経営者である老夫婦の一人娘で、数年前に都会から戻り、家業を手伝っているのだそうだ。
「手伝う、なんて言っても、今はもう閑古鳥が鳴くだけですけどね」
そう言って力なく笑う彼女に促され、俺は「案内がてら」という名目で、彼女と一緒にダンジョン内の施設を歩き始めた。
シャッターを下ろした土産物屋やゲームコーナーが並ぶ通路は、まるでゴーストタウンだ。天井の光苔だけが、ぼんやりと二人を照らしている。俺たちは、ひときわ古びた土産物屋の前で足を止めた。そのショーウィンドウの中央、ガラスケースに収められた美しい結晶石だけが、不自然なほど綺麗に磨かれている。
「『湯の花石』……ですか」
「はい……。これが、最後の一つなんです。祖父がよく言っていました。『この石は湯けむりの郷の心臓で、里の守り神様だ。これがある限り、ここのお湯が枯れることはない』って」
守り神、か。この寂れきった施設の中で唯一、当時と同じ輝きを放つそれは場違いなほど美しい。
思わずじっくり眺めていると、通路の奥から複数の男たちの足音と下品な笑い声が響いてきた。現れたのは、黒いスーツを着たいかにもな男たち。その先頭を歩く蛇のように目の細い男が、俺たちを認めるとニヤリと笑った。
「よう、ユキちゃん。親父さんはいねえのか?」
「さ、鮫島さん……」
ユキさんの顔がこわばる。どうやら借金取りのようだ。
「親父さんによーく言っとけよ。いつまでもご神体だかなんだか知らねえ石っころ一つ抱えてても、借金は一円も減らねえんだぞってな」
鮫島と呼ばれた男は、俺には目もくれず、ユキさんの肩に馴れ馴れしく手を置いた。
「俺たちが教えてやった『やり方』でも、もう焼け石に水なんだろ? 帳簿の外でいくら売ったって、たかが知れてるわな」
ほう……。帳簿の外での売上、つまり売上除外。この男が脱税の指南役、ということか。
鮫島は、ユキさんの耳元で囁くように続けた。
「なぁ、お嬢ちゃん。親父さんがどうしても石を渡したくねえって言うなら、あんたが代わりに身体で……」
「やめてください!」
ユキさんが悲鳴のように叫び、男の手を振り払う。鮫島は楽しそうに喉を鳴らし、一歩下がった。
「まあ、焦るなや。今夜また来る。親父さんにも『誠意』を見せるよう、よーく言っとけ」
そう言い残し、男たちは俺が来たのとは逆の、薄暗い通路の奥へと消えていった。
その場に立ち尽くし、小さく震えるユキさん。俺は彼女の肩にそっと触れた。
「大丈夫ですか」
「は、はい……。すみません、見苦しいところを……」
「あの人たち、奥の方へ行きましたが、あちらにも出口が?」
「い、いえ……。あっちの通路は、昔の落盤事故で、もう何十年も前に封鎖されたはずです。父からは、危ないから絶対に近づくなって……」
封鎖された通路。だが、男たちは躊躇なくそちらへ向かった。通路の入り口の床に不自然なほど新しい車輪の跡が残っているのを、俺は見逃さなかった。重い何かを頻繁に出し入れしている痕跡だ。
……未登録増築の典型だな。封鎖したと偽って通路を拡張し、そこを倉庫か何かに使っている。固定資産税から逃れるための、古典的な手口。
守り神の石。借金取りの影。そして、二つの脱税の証拠。この寂れた温泉ダンジョンが抱える闇は、想像以上に深いらしい。
俺は恐怖と不安で顔を青くしているユキさんに向き直り、できるだけ優しい声を作って言った。
「ユキさん。俺でよければ、力を貸します。あの人たちに、あなたたちの『心臓』を渡させはしない」
その言葉に彼女はハッと顔を上げた。その瞳には一瞬安堵のような色が浮かんだが、すぐに首を横に振る。恐怖をぐっと押し殺し、彼女は無理やり作ったような、ぎこちない笑顔を俺に向けた。
「……ありがとうございます。でも、大丈夫です。これは、私達の……この湯けむりの郷の問題ですから。お客さんである貴方を、巻き込むわけにはいきません」
彼女はそう言うと、浴衣の袖をぎゅっと握りしめる。
「蓮見さんは気にしないでください。せっかく来てくれたんですから、うちの温泉、目一杯楽しんでいってくださいね!」
その健気な言葉に、俺は何も言えなかった。ユキさんは「それじゃ、失礼します」と深々と頭を下げると、逃げるようにその場を走り去っていった。
一人残された薄暗い通路で、俺はその後ろ姿を見送る。
やがて、小さくため息をつき、両肩を竦めた。
「……あんなもの見せられちゃ、楽しめるものも楽しめないだろ」
ポケットの中の、まだ何も入っていない手帳の感触を確かめる。
どうやら今回の休暇は随分と騒がしくなりそうだ。
◇
その夜、ダンジョン内は不気味なほど静まり返っていた。客は俺一人。天井の光苔が放つ淡い光だけが、長く続く通路をぼんやりと照らし出している。
どこからか、ひんやりとした空気が流れてきた。ダンジョンの深奥から吹き上げてくる天然の風だ。地上で言うところの夜風といったところか。湯上がりの火照った身体にはそれが心地よかった。
俺は土産物屋が並ぶ区画の、ちょうど真ん中にある石灯籠の影に隠れる錆びたベンチに座っていた。視線の先には、例の『湯の花石』が飾られたショーウィンドウがある。ユキさんの話が本当ならそろそろ動きがあるはずだ。彼女の両親か、あるいは――借金取りか。
やがて、物音ひとつしなかった通路の奥から二つの人影が現れた。ユキさんの父親と母親だ。父親はまるで重い枷を引きずるかのように、古びたバールを手にしている。
「お父さん……。本当に、あの男の言う通りにするしかないのかい……? 私たちの手で、泥棒の真似事なんて……」
母親が、絶望を滲ませた声で囁く。父親は、苦虫を噛み潰したような顔で答えた。
「他に道があるか! 泥棒が入ったことにして売り渡せば疑われない――そう笑ったんだ、あの野郎が!」
父親の言葉には、怒りよりも深い無力感がこもっていた。
「……今日は、運悪く客がいる。静かに、早く終わらせるぞ……」
彼はまるで汚物にでも触れるかのように、震える手で『湯の花石』が飾られたショーウィンドウの錠前に、バールの先端をかけた。
その時だった。
「お父さん!お母さん!何をしているの!」
通路の奥から現れたのは、息を切らしたユキさんだった。彼女は、父親の手に握られたバールと、その目的を見て全てを察したようだった。
「やめて! そのバール……まさか、鮫島に言われた通りに……!」
「ユキ……! お前には関係ない!」
「関係なくない! そんな汚い手で、守り神様に触らないで! あの男の言いなりになっちゃダメだよ!」
ユキさんの悲痛な叫びに、父親の手から、ついにバールが滑り落ちた。甲高い金属音が、静寂の中に響き渡る。
「じゃあ、どうしろって言うんだ! 鮫島に逆らえば、お前の身が……!」
「それでも、ダメなものはダメなの! 犯罪に手を染めてまで守った温泉に、湯守様は微笑んでくれないよ!」
その言葉に、父親は崩れるようにその場に膝をついた。母親も、娘を抱きしめながら泣き崩れる。だが、その家族の涙を嘲笑うかのように下品な声が響き渡った。
「おいおい、三文芝居は終わったか?」
闇の中から、昼間と同じく鮫島とその手下たちが姿を現す。
「約束通り、ブツを貰いに来たぜ。それとも、娘の方で手を打つかい?」
「ひっ……!」
鮫島の下卑た視線に、ユキさんが息を呑む。父親が震えながらも娘を庇うように立ち塞がった。
「守り神様も……娘も、お前たちの好きにはさせん!」
「ほう、威勢がいいじゃねえか、ジイさん。……だがな、お前らに拒否権はねえんだよ」
鮫島が顎でしゃくると、二人の手下が老人を軽々と突き飛ばす。そして一番体格の良い男の手が抵抗するユキさんの腕を掴んだ。
「やめて!離して!」
「いいじゃねえか。石ころ一つより、よっぽど高く売れるぜ、お前は」
闇に、ユキさんの短い悲鳴と、男たちの下卑た笑い声が響き渡った。
――時刻、23時21分。
事態は脅迫から暴行の現行犯に移行。被害者一名、被疑者はリーダー格を含め複数名。重要証人二名。
これ以上の物理的、心理的汚染は許容できない。直ちに被疑者全員を無力化し、現場を確保する。
俺は静かに影から一歩、踏み出した。
「ギッ……! アアアアッ!」
ユキさんを捕らえていた男の背後に俺は回り込み、その腕を掴んで真上に捻り上げる。骨が軋む鈍い音が響き、男の手から完全に力が抜ける。解放されたユキさんの身体を、そっと引き寄せて自分の背後へと庇った。
仲間が突然無力化されたことに、鮫島たちが驚愕の顔を向ける。
「――女性の前で、あまり見苦しい真似はしない方がいい」
俺は静かに言い放つ。もう少し格好がマシであれば決まっていたが、今はだらしなく着た浴衣に丸メガネ。どう見ても冴えない一般人だろう。
「あなたは、昼間の……! だめ、蓮見さん、逃げて!」
ユキさんが叫ぶ。鮫島は、忌々しげに舌打ちした。
「ああ? なんだこのメガネは。まだいやがったのか」
手下の一人が、指の関節を鳴らしながら無造作に俺へと歩み寄る。
「関係ねえだろ、部外者は! 死にてえのか!」
振りかぶられた拳が、俺の顔面に迫る。
武道など習ったこともないだろう、ただの喧嘩で成り上がった攻撃など当たるわけがない。
軽いスウェーで拳をかわし、腕を掴んでコマのように回転させる。その勢いのまま、男をシャッターへ叩きつけた。
深夜には大変迷惑な音が鳴り響くが、幸い客は俺だけだ。問題ない。シャッターは大きく歪み、男は白目を剥いてずり落ちていく。
「な、なんだ、こいつは……」
他の手下たちが、ありえないものを見る目で俺を見つめる。鮫島が、顔を引きつらせて怒鳴った。
「何をやってやがる! いいからやっちまえ! たかが一人だろうが!」
残る三人が、我に返ったように同時に襲いかかってきた。
一人は、真正面から殴りかかってくる。その拳をいなして懐に潜り込むと男の顎に指先で軽い一撃を入れた。ただそれだけで、男は糸の切れた人形のように崩れ落ちて床に大の字に伸びる。
もう一人は隠し持っていた鉄パイプを振り回してくる。俺は身をかがめてそれを避け、立ち上がり様に鉄パイプそのものを掴む。そしてテコの原理で男の身体を軽々と宙に持ち上げると、そのまま背負い投げの要領で地面に叩きつけた。ゴッ、と鈍い音がして、男はカエルのような声を発して動かなくなる。
最後の一人が、恐怖に駆られてユキさんを盾にしようと動く。俺はそれを許さない。床を蹴り、瞬時にその背後を取ると同時に首筋に手刀を打ち込んだ。巨漢の体は前のめりに倒れ、あと数センチのところでユキさんに触れることなく、床に沈んだ。
一瞬の静寂。
残ったのは、目の前の惨状が信じられず、わなわなと震える鮫島だけだった。
「ひっ……お、お前は一体、なんなんだ……」
俺は乱れた浴衣の襟を直してゆっくりとずり落ちていた丸メガネを外して懐にしまい、無造作にかかっていた前髪を片手で一気にかき上げて寸分の乱れもないオールバックにする。
今はもう、人の良い観光客ではない。
「ユキさん、騙していて悪かったね」
俺は震える鮫島に黒革の手帳を見せつけ、冷たく告げた。
「国税庁ダンジョン課税 特別捜査官、蓮見司。あなた方を、所得税法違反幇助及び恐喝、暴行の現行犯で逮捕する」
それは国家の徴税権という絶対的な力を象徴する金色の菊花紋章。俺が突き出した手帳の表紙でその紋章だけが、この薄暗いダンジョンの底で厳かに輝き悪を断罪する。
俺の言葉に、鮫島はその場にへたり込んだ。ユキさんも、彼女の両親も、目の前で起きたことの全てが信じられないという顔で、ただ俺と悪党たちを交互に見ている。
俺は懐からスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで電話をかけた。
「――ああ、俺だ。場所は奥秩父のダンジョン『湯けむりの郷』。至急、マル暴を回してくれ。……ああ、あとは美味い酒でも用意して待っていると伝えておけ」
簡潔な指示を終えると、俺は再び家族の方へと向き直る。そのあまりの変わりように、三人はまだ戸惑いを隠せないでいた。俺は少しだけ表情を和らげ、努めて優しい声で話しかけた。
「あなた方の脱税については、鮫島による脅迫の事実と、その悪質性の低さを考慮し、刑事告発は見送ります。後日、税務署の指示に従い、速やかに修正申告を行ってください」
「は……はい……」
「それから、借金の件ですが、奴らが逮捕されれば無効になる可能性が高い。専門の弁護士を紹介しましょう。……そして、この『湯けむりの郷』ですが、再建の道はあります」
「え……?」
「あなた方が知らなかっただけだ。このような歴史的価値のあるダンジョンには、国からの補助金制度や、『ダンジョン観光特区』としての税制優遇措置がある。やり方次第で、この里はもう一度、客を呼び戻せる」
俺の言葉に、三人の顔にみるみる生気が戻っていく。それは、絶望の淵から見えた一筋の希望の光だった。
父親が、深く、深く頭を下げる。
「私たちは……間違っておりました。里を守るという言い訳で、一番大事なものを見失っていた……。法を犯し、娘を苦しめて……本当に、愚かでした」
「お父さん……」
ユキさんが、両親の手をぎゅっと握りしめた。その瞳には、もう涙はなかった。代わりに、強い意志の光が宿っている。
「もう一度、やってみようよ、お父さん、お母さん。今度は、正しいやり方で。ここを、昔みたいにたくさんの人が笑ってくれる場所に、もう一度するの!」
その言葉に、父親と母親も力強く頷いた。もう、この家族は大丈夫だろう。俺はその光景を静かに見守っていた。
やがてダンジョンの外からサイレンの音が聞こえ始め、地元の警察官たちがなだれ込んでくる。俺は身分証を提示し、鮫島たちを引き渡した。あっけないほど静かな幕切れだった。
◇
翌日。すべての手続きを終え俺がこの里を去ろうとすると、すっかり元気を取り戻したユキさん一家が見送ってくれた。
「蓮見さん。本当に、何とお礼を言ったらいいか……」
父親が、深々と頭を下げる。その隣で、母親が小さな桐箱をそっと差し出してきた。
「あの、これ……」
俺が戸惑っていると、ユキさんが説明してくれた。
「ショーウィンドウに飾ってある大きな石は、これからも里の守り神様として、私たちが大切にしていきます。これは……父が先代……つまり私のおじいちゃんから受け継いだものなんです」
桐箱の中には、子指の先ほどの、小さな石が鎮座していた。小石サイズだが、不純物が一切ない、透き通るような乳白色。内部から淡い光を放っているかのように、とても綺麗だ。
「このダンジョンができて、一番最初に採れた『湯の花石』だそうです。おじいちゃんの形見で……。でも、父と母と話したんです。蓮見さんは、この里の、そして私たちの心の恩人だから。一番大切なものを、受け取ってほしいって」
「いえ……そんなわけにはいきません。私は職務を果たしただけですから」
固辞する俺に、三人はもう一度、深々と頭を下げた。その真心を受け取らないことは、彼らの誇りを踏みにじることになる――そう思い、俺は恭しく桐箱を受け取った。
一家に別れを告げ一人になった俺は、ポケットの中のほのかに温かい石の感触を確かめる。
そして踵を返し、もう一度あの露天風呂へと向かった。ショーウィンドウの奥では、大きな守り神の石が以前よりも誇らしげに輝いているように映る。
さて、と。
……もうひとっ風呂だけ浴びて、騒がしい休暇の締めといくか。
(第一話 了)
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