第6話 THE VISITOR

 家のベルが再び鳴った。家の中はがらんとしていて、建物全体が意気消沈しているようだった。ジョセフィンは力なく窓の外を眺めていて、ベルの音を聞いても立ち上がらない。そんな様子を見た夫が妻の代わりに玄関に出た。するとそこには、軍服姿の青年が立っていた。痩せ、帽子を胸に抱くその姿は、長旅の果てのように疲れ切っている。 


「どなたかね?」


 息が詰まったかのように青年は立ち尽くしている。その時、ジョセフィンは玄関を見た。そして、そこに立つ青年をはじめは力無く見つめていたが、しばらくして、思いついたように、「とりあえずお入りなさいな」と言った。


 青年はうつむき加減に玄関に入り、ジョセフィンに促されるまま、リビングに入った。そして、失礼のない程度に、というように少しばかりキョロキョロと家の中を見回していた。そして、ジョセフィンに勧められて、ソファに案内される。


「突然押しかけて、すみません」


青年はそう言うと、しばらく押し黙った。


「俺は、あ、いや、僕は…、ピーター…息子さんと同じ部隊にいた者です。これを…」


そう言って、一枚の写真を差し出した。そこには、13歳くらいのピーターとジョセフィン、ジョセフィンの夫が写っていた。家族写真だった。


「息子さんの最後を伝えたくて…来たんです」


それから、ピーターの壕での様子や、壕が砲撃を受け、崩れたこと、ピーターが巻き込まれたこと、そして、


 「…息子さんは、最期に“母さん”と……そう呼んで…」


 青年はそう言い、息を詰まらせ、沈黙した。


 どのくらいの時間が経っただろうか。その沈黙を破ったのはジョセフィンだった。


「そう…」


まだ若い目の前の青年の苦しみを労るように、ジョセフィンはそっと呟いた。そして、自分の座っていたソファから立ち上がると、そっと青年の手を握り、優しくハグをした。—彼が泣いていたからだった。ジョセフィンは、泣かなかった。ただ、目の前にいる青年を静かに抱きしめ、背中をさすっていた。


「ありがとうございます」


しばらくして落ち着いたのか、青年はそろそろ暇をすると二人に告げた。そしてソファから立ち上がる。


玄関に立つと、彼は深々とお辞儀をした。そして帽子を被り、二人に背中を向けようとした。


「また来てね」


立ち去ろうとする青年に、ジョセフィンは思わずそう声をかけた。それは、またピーターの話を聞きたかったのかもしれないし、戦争で傷ついた青年を気遣う気持ちだったのかもしれない。


 青年は、また深くお辞儀をして、去っていった。


 どちらにせよ、彼女には、彼がきっともう来ないであろうことは分かっていた。



***



 夕刻、青年が帰った後、少し秋の匂いのする風を感じながら、ジョセフィンは、青年の言った、ピーターの最期の言葉の続きを必死に探していた。

 

 ――母さん、助けて 


 ――母さん、会いたい


 ――母さん、ありがとう


 ――母さん、ごめんね


 あの子は、最後に私に何を言いたかったのだろう。当てはまりそうな言葉を思い浮かべるほどに、胸が潰れていく。しかし、答えはもう、誰にも分からない。なぜなら、—彼はもうこの世にいないのだから。


 気がつけば彼女は椅子に崩れ落ち、両手で顔を覆っていた。涙がとめどなく溢れ、嗚咽が喉を震わせる。


「ピーター…私のピーター…」


少しずつ日が傾き、地はすっかり濃くなった。ジョセフィンは止まりそうもない涙を拭うこともせず、しばらくそこで泣いていた。



***


 それから数日経った。青年の訪問をきっかけに、ジョセフィンには涙に明け暮れる毎日が訪れた。ただの紙切れだけでは湧かなかった実感が—否、信じたくなかった事実を、ありありと突き付けられたのだ。


「ピーター…」


夜の帳、眠れぬジョセフィンは、キッチンからの暗い窓の外を眺めながら呟いた。ふと、青年の言葉を思い出す。


–––ピーターに聞いたんです。帰ったら何を一番最初に飲みたいかって。


–––母さんの作ったレモネードが飲みたい–––


 ジョセフィンは唇を引き結び、顔を歪めた。また涙が出そうになるのを堪えた。テーブルに目をやると、昼間切りかけたレモンがある。レモネードを作ろうとしたのだ。だが、できなかった。それを見つけたジョセフィンは、今、その理由が分かった。もう、レモネードを飲んでいるあの子を見ることはできないのだ。ジョセフィンは潰れそうな胸を叩いた。しかし何をしても、この胸の苦しみは消えてくれそうになかった。


それからだった。キッチンには、レモンもレモネードも見なくなった。


ジョセフィンはレモネードを作るのをやめた。

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