第5話 海賊との初交戦――白い航跡は血を拒む
舷をぶつける――舵輪の下で私の脈が跳ね、〈ホワイト・ウェイク〉の船腹が低く唸った。
海は一瞬、呼吸を止める。次の瞬間、波が甲板を叩き、白い飛沫がひと筋、空に爪痕を残した。
「左舷、身構え!」
ユーグの声が木の骨組みに通って響く。剣を抜いた金属音が、曇天の色に混ざった。
だが私は、彼の肩越しに小さく首を振る。
「殺さない。――白い航跡に血は要らない」
ユーグは刃先だけをわずかに下げ、頷いた。
彼の目は昔から、私の無茶に合わせて“角度”を調整することに慣れている。
角度さえ合えば、同じ方向を向ける。
正面から迫る小舟のひとつ――艫で舵を取る男が、歯を剥き出しにして吠えた。帆も旗もない、低い黒の腹。櫂のリズムは揃っている。雇われの腕だ。
私は舵をさらに切る。船首がわずかに跳ね、〈ホワイト・ウェイク〉の白い側面が、敵の舳先をすべらせる角度に入った。
「……今!」
クォートの空の袖が立ち、少年たちが麻の網を持ち上げた。
ミレイが塩水の樽を蹴り、甲板に転がして縁まで転がす。
エルドは星筒を脇に置き、短い棒に細い綱を通して網の端を留めた。
ロザンヌは手帳を閉じ、香炉の向こうでセリーヌが静かに立ち上がる。
ぶつからない――すべらせる。
敵の舳先がこちらの船腹をなで、火花が出ない代わりに、水の花が一輪、はじけた。
同時に、網が空を渡る。麻目の影が海面と小舟をまとめて覆い、櫂の動きが途端に鈍る。
ミレイの塩水が、火消しのように彼らの足元と握り手に降りかかる。
塩はすべる。海の水より重い。
握った手から力が抜け、櫂が舟底に落ちた音が続いた。
「舳先、右!」
私は舵を切り戻し、次の小舟の横腹に“風”をぶつける角度を作る。
〈ホワイト・ウェイク〉の帆が悲鳴のように鳴き、風が一瞬、味方の匂いを濃くした。
白い航跡が音もなく伸び、その細さの分だけ鋭かった。
小舟は“舳先のない方向”へ押し出され、互いに接触して自滅する。
「右舷、投げ縄!」
ユーグの号令で、少年たちの腕が一斉に走る。
リースの縄が、敵舟の艫柱に見事な輪でかかる。
ピコは失敗したが、次の瞬間にはタバルが助けに入って二重に絡めた。
シアは網の裾に石袋を結んで重しにし、足元で結び目を確かめる。
「……いい子だ」
ミレイがその頭に拳ほどのやさしさで触れ、すぐに鍋の柄に持ち替えた。
鍋は棍棒にはならないが、匂いを武器に変える。
ミレイが鍋の蓋をわずかに開くたび、塩とハーブと煮えた魚の匂いが、海賊にとって「家ではない匂い」を運んだ。
家の匂いは、武器をからっぽにする。
最初の小舟が横倒しになった。
男たちは海に落ちる寸前で縁にしがみつく。
ユーグが剣の柄で指をはたき、櫂を落とさせる。刃を使わない。
その動きは冷徹で、そして誰よりも速い。
彼にとって殺さない選択は、殺すより難しいからこそ、美しかった。
「アリアナ、後ろ!」
ロザンヌの声。
甲板に飛び上がってきた影がひとつ。濡れた腕、錆びた短剣。
私の背に向けて突きが伸びる前に、銀の煙がその線にかぶさった。
香炉――セリーヌの香が、黒い金属の匂いを鈍くした。
刃は空気を切り、私の髪を一本だけ連れ去って甲板に突き刺さった。
次の瞬間、ユーグの足が男の手首を踏み、短剣が板を叩いて転がる。
セリーヌの目が一瞬、冷たく光った。
「刃は、祈りより重い。……けれど、届かない刃は羽根になる」
彼女の言葉の意味を、男は理解しなかった。
理解しないまま、縛られた。
第三の小舟が一度だけ接近し、甲板の縁に鉤を投げてきた。
鉤は〈ホワイト・ウェイク〉の手すりを噛み、船体同士が結びつきかける。
クォートが空の袖を翻して駆け、鉤の綱に“釘抜き”を差し入れ、てこの原理で金属を外す。
金具が外れ、鉤は海に落ちた。
クォートはそのまま手すりを撫でる。
「木はやさしく扱え。怒らせるな」
荒い呼吸の音が重なり、海面に浮いた櫂がぶつかって小さく鳴った。
私は舵輪をゆっくり戻す。
風が背中を押す角度を作り、船首が敵の集団の外へと抜ける。
そのとき、敵の小舟の一つから、赤い布が掲げられた。
降伏の色。
海賊にも、その手順は染み込んでいる。
「受けるか?」
ユーグが訊く。
「受ける。――受けて、聞く」
縄を垂らして引き上げたのは、髭に塩が白く結ばれた男だった。年齢は四十代半ば。目に底がある。
彼は甲板に膝をつき、手を頭の後ろで組む。
「船長を呼べと言われりゃ呼ぶが、ここにいるのは俺だ。舵は回せるが、命綱は自分で持ってる」
「誰の命で来たの?」
私は問う。
男は口を開きかけて閉じ、目の端を細くした。
「命令じゃねえ。金だ。汚いのは札束で、海じゃねえ」
「じゃあ、誰が払ったのかしら」
男は肩をすくめる。
「帳面に名はねえ。桟橋の陰で袋が渡る。それだけだ。王都の商会のひとつ。たぶんな」
ロザンヌが一歩、前に出る。
「どの商会?」
男は首を振る。
「言ったろ。名はねえ。だが、言葉はあった。“航路を高く売りすぎるな。王都に敵を増やすな”。――桟橋で、そう言った」
胸の内側で、昼に読んだ紙片の文が、冷たい指でなぞられる。
同じ言葉。
“地図が一枚、消えた”――あれは脅しではなく、手続きの報告だ。
「人は殺してないわね?」
私は甲板を見渡し、確認する。
どの目も、血の色を映していない。
白い航跡は、白いままだ。
「あなたの舟を返す」
私は言い、ユーグに目で告げる。
男の縄が緩み、舷側まで連れていかれる。
ただし、彼は小舟に降りる前に、こちらに何かを投げた。
布包みが私の足元に落ちる。
小さく、薄い。
それは、紙だった。
油紙にくるまれた、古い海図の一角。
端は破られ、線が途中で途切れている。
だが、そこに描かれた記号――灯台の印と潮の矢印――は、私たちが王都で図に起こしたものと似ていた。
似ていたが、違う。
灯台の位置が、半刻分だけ“ずれて”いる。
「……何これ」
私が問うと、男は肩越しに吐き捨てた。
「“あぶり出し”だとよ。地図は盗めるが、星は盗めねえ。だから、星を間違わせる。灯台の火を半刻ずらせば、舟は岩に当たる」
背筋に冷たいものが這い上がった。
海は、正直だ。だからこそ、間違いは残酷だ。
灯台は、信頼そのものだ。
信頼が、意図的に“ずらされる”。
「誰が……」
ロザンヌの声が、低くなる。
男は首を振るだけだった。
「俺の舟は、潮しか信じない」
彼は縄を解かれ、小舟に戻る。
〈ホワイト・ウェイク〉がわずかに距離を取ると、三隻はバラバラに散っていった。
追わない。
追えば、負ける。ここでの勝ちは、血と引き換えではない。
甲板に、風だけが残った。
セリーヌが香炉の火を低くし、煙を薄くする。
ミレイは鍋の蓋をほんの少し開け、匂いが戦いの匂いを追い出すのを待った。
エルドは古い海図の切片を受け取り、星図と重ねる。
ロザンヌは手帳を開いたまま、書かない。
ユーグは剣を納め、舷側に片足をかけた。
「……“半刻ずれ”」
エルドが唸った。
「星は嘘をつかないが、火は人に従う。灯台の番が買収されれば、できなくはない。だが――」
「王家の印で運用される灯台よ」
ロザンヌが言う。
「番は王家の誓約で縛られている」
「誓約は、腹をふくらませない」
ミレイが静かに言った。
「子どもに食わせるのは、誓いじゃない。硬いパンだよ」
私の手の中で、油紙が弱い音を立てた。
薄い。
こんな薄さで、人の命を左右する。
「戻る」
私は舵輪に手を置き、決める。
「湾で採った証左と、この“ずれ”を王都に持ち帰る。灯台の番の名簿を洗って、半刻の空白を潰す」
「敵は、王都の中にいるかもしれない」
ロザンヌの声は氷の温度だった。
「いるでしょう。だから、戻る」
セリーヌが香炉を抱え、私の視線を受け止めた。
「祈りを、王都でも」
「祈りは甲板でも廊下でも同じ。あなたの祈りに合わせて、舵の角度を変える」
彼女は微笑んだが、その笑みの奥に、どこか決意の黒い点が沈んでいた。
帰路につく。
風は出航時より気まぐれで、私たちの船を、まるで港町の噂のように左右へ揺らした。
けれど、揺らぎの幅は読める。
エルドが星を拾い、クォートが舵の“遊び”を詰め、ユーグが甲板の人の流れを整え、ミレイが腹時計を鳴らして恐怖を追い払い、ロザンヌが紙の上に目に見えない針を立て、セリーヌが煙で心拍を均す。
夜――
私は甲板の中央で、短い儀式をした。
船の名を、全員で呼ぶ。
〈ホワイト・ウェイク〉。
名前を呼べば、船は少しだけ、人間に寄ってくる。
人間が船に寄っていけないときでも、名だけは歩み寄る。
「アリアナ」
ユーグが寄ってきて、小声で言う。
「さっき言った“白い航跡に血は要らない”。――あれは、いつまで守る?」
「守るために戦うときが来る。きっと来る。それでも、最初の航跡は白のまま残したいの。伝説は最初の線から決まる」
「伝説、ね」
彼は目の端で笑った。
「おまえの伝説の中で、俺は何だ?」
「舷側に片足をかけてくれる人。倒れそうなとき、舵がもう半分だけ回るようにしてくれる人」
「……悪くない役だ」
彼の手が舵輪に重なる。
重さが半分になるわけではない。
けれど、滑りは良くなる。
◇◇◇
王都に着くと、港の空はいつもより低く感じられた。
海図の切片が懐の中で薄く温かくなり、今にも消えそうな蝋燭みたいに頼りない光を帯びる。
埠頭では、王城の使いと商会の使いが同時に待っていた。
ロザンヌが手を上げる。
「監察官権限で、提出物は先に王城へ」
商会の男が渋い顔をする。
「連合の名誉に関わる」
「名誉は、灯台の火が消えても灯るのですか?」
ロザンヌの声は、冷たさよりも先に“痛み”を含んでいた。
商会の男は口を閉じた。
王城の石床は相変わらず海より冷たかったが、今回は冷たさが“味方”のように感じられた。
私は海図の切片を王の前に差し出す。
文官がそれを受け、王子レオンハルトが身を乗り出す。
「半刻……ずれ?」
「灯台の番が“買われて”いる可能性。あるいは、運用表の偽造」
ロザンヌが簡潔に補足する。
「“価格”の次に狙われるのは、“信用”です。王都の灯台に疑いが生まれれば、航路は死にます」
王の目が、初めて、海を遠くから見る者の目を離れた。
近くを見る目。
「番の名を洗う。監察官、手配は?」
「すでに」
ロザンヌは一礼した。
「ただし――」
「ただし?」
王子が促す。
「王都の内側だけを疑っては、見落とします。商会、地方の有力者、あるいは“聖の名”を用いる者。――いずれも、灯台に手を出し得る」
セリーヌが静かに一歩進み、香炉を胸の前で横にした。祈りの形ではない。“誓い”の形だ。
「聖堂の名において、灯台の火に関わる者の調査に協力します。祭の時刻をずらした者がいないか、記録を開示する」
王は頷いた。
王子はしばし沈黙し、やがて私に視線を向ける。
「おまえは?」
「航路を続けます。――“白い航跡”で帰りました。次も、できれば白で帰りたい」
私の言葉に、王子は皮肉を浮かべなかった。
彼の目の奥で、なにか重い計算が動く音がしただけだ。
「よかろう。三度目の往還を命ずる。今度は“白で帰れ”ではなく、“帰れ”。――色は問わない」
ぞくりとした。
許しではない。
選ばされたのだ。
舵は自由だが、海は自由ではない。
◇◇◇
城を出ると、外は夕暮れだった。
石畳の上に光が薄く張り、通りの端で子どもが白い線を引いて遊んでいる。
白い線――航跡。
私はその横を通り過ぎるとき、そっと声を出さずに言った。
〈ホワイト・ウェイク〉。
埠頭に戻ると、船の舷側に、また花束が結わえてあった。
今度は白ではない。
青と、少しの赤。
血の色に、空の色を混ぜたみたいな。
「誰が?」
少年たちは顔を見合わせ、首を振る。
セリーヌが一輪を抜き取り、香炉の横に差した。
「赤は、怖れの色でもあります。でも、歩いたあとに残れば、それは強さの色になる」
ミレイが鍋を火にかけ、クォートが船腹の“傷”を指先で数える。
ユーグは舷側に片足をかけ、夜の海を遠くまで見る。
ロザンヌは手帳に短く何かを書いた後、しばらく動かなかった。
エルドは星図の端を指で押さえ、私に聞こえるか聞こえないかの声で言う。
「星は、まだずれてない」
「ええ」
「だが、人は、すぐずれる」
「だから、名で呼ぶの。灯台も、航路も、船も、人も。呼ぶたびに、位置を確かめられる」
私は甲板の真ん中に立ち、全員の顔を見た。
言葉を持たない風が、私たちの髪を一斉に撫でる。
その触り方は、優しいというより、公平だった。
「宣言するわ」
私は言った。
「“白い航跡は血を拒む”。――これは誓いじゃない。習慣にする。守れない日が来ても、翌日にまたやる。何度でも」
静けさの中で、誰かが小さく指を鳴らした。
ミレイか、クォートか、ユーグか、エルドか、ロザンヌか、セリーヌか、少年たちか。
誰でもよかった。
鳴った音は、海の上で均等にほどけ、白い線と同じくらい薄く残った。
その夜、船体の陰で、また笛の音がした。
振り向くと、桟橋の柱に小さな印が刻まれている。
半月。
半刻の記号。
そして、その横に、釘で走り書きのように刻まれた文字。
――“まだ、ずらせる”。
背中の汗が冷え、舌が塩の味を思い出した。
海は正直だ。
だから、人は正直ではいられない時に、印を刻む。
「……出航前に、灯台に行く」
私は言った。
「番の名を呼び、火の位置に私の名を――いや、船の名を結びつける」
ロザンヌが頷く。
「王命を通す。あなたの名ではなく、船の名で」
「ありがとう」
セリーヌが香炉に火を入れる。
火は小さい。
小さいが、たしかだった。
私はその火を見て、舵輪の木目を確かめるように、未来の手触りを頭の中で撫でた。
白い航跡は、夜でも見える。
見えないのは、人の心の“半刻”。
それを合わせる方法は、きっと一つじゃない。
祈りも、計算も、習慣も、角度も――
全部を舵の上に置いて、私はもう一度だけ小さく宣言した。
「帰る。――何色でも、帰る」
そして心の底で付け足す。
できれば、白で。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます