路 金色の星―京海物語(青木家サーガ第2作)
光闇居士
プロローグ:父の背中が見た路
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この物語はフィックションである。
登場する人物・団体・名称などは架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。
この物語を通して実際の人物・団体・名称の印象に影響を与える意図はありません。
また特定の個人・組織・概念を否定・肯定する意図もありません。
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プロローグ:父の背中が見た路
(語り手:息子・張義成)
私の母、京海(ジンハイ)という女性の魂を理解しようとするとき、私はいつも、ある一つの情景に立ち返る。それは、彼女がまだ四歳だった、1954年の晩秋の一日。母自身は、その日のことを決して多くは語らない。ただ、断片的な記憶のきらめきとして、あるいは悪夢の残滓として、時折私の前でこぼすだけだ。その欠片を繋ぎ合わせ、物語の形に仕上げてくれたのは、皮肉にも、彼女を生涯にわたって苦しめることになる養祖母その人だった。
だから、これから語るのは、私が直接見た光景ではない。だが、母の人生という名の長大な物語を、この世で誰よりも深く敬愛する息子として読んできた私には、その日の風の匂いや土の色、そして彼女の小さな背中が感じていたであろう、世界の重さまでがありありと想像できるのだ。
物語の始まりは、上海郊外にあった孤児院の、錆びついた鉄門の前だった。かつて西洋の宣教師たちが建てたというそのレンガ造りの建物は、すでに壁のあちこちに「新中国を建設せよ」という赤いスローガンが塗りたくられていた。古い時代の慈愛と、新しい時代の熱狂が、ちぐはぐに同居する場所。それが、私の母が物心ついて最初に知った世界だった。
その日、門の前に一人の男が立っていた。人民服をきっちりと着こなし、その実直そうな顔には、任務を遂行する兵士のような硬さがあった。男の名は王建国。私の祖父であり、京海の養父となった人物だ。彼は孤児院の院長から書類を受け取り、判を押し、そして門の内側から駆け寄ってきた小さな少女の前に、ゆっくりと屈んだ。それが母だった。
「この同志が、お前の新しい爸爸(パパ)だよ」
院長の言葉は、まるで遠い世界の響きのように聞こえたに違いない。母の視線は、王建国ではなく、彼女のすぐ後ろにぴったりと寄り添い、その服の裾を固く握りしめている、もう一人の少女に注がれていたからだ。その子の名は、明(ミン)。母が孤児院で過ごした時間のすべてを分かち合った、姉妹であり、半身ともいえる存在だった。
別れの時が来たことを、子供ながらに悟っていたのだろう。明は何も言わず、ただ大きな瞳から涙をこぼしていた。母は泣かなかった。彼女は、自分の首にかかっていた、赤い糸で結んだだけの小さな木彫りの小鳥の飾りを外し、それを明の首にかけてやった。代わりに、明は自分のポケットから、すべすべになった小石を一つ取り出し、母の手の中にそっと握らせた。それは、二人が交わした、声にならない誓いの儀式だった。
「行くぞ」
祖父が低い声で促した。彼は母をひょいと抱き上げた。その腕はがっしりとしていて、力強かった。人民解放軍の兵士として、古い社会の圧政と戦い抜いてきた男の腕だ。その腕の中で、新しい生活、本当の父母との温かい暮らしが始まるはずだった。だが、母は、祖父の胸に顔をうずめることもしなければ、前を向くこともしなかった。
彼女は、抱きかかえられたその体勢のまま、くるりと身をひねったのだ。そして、祖父の分厚い肩越しに、背後を、今まさに自分が離れようとしている世界を、じっと見つめ始めた。
鉄門の向こうで、明が小さな手を振っていた。その姿が、次第に小さくなっていく。院長の姿も、古びたレンガの建物も、すべてがゆっくりと遠ざかっていく。祖父・王建国は、一言も発さず、ただひたすらに歩き始めた。上海の市街地にある彼の家まで、何十キロという道のりを、この小さな少女を抱いて歩き通すつもりらしかった。
その道は、暗かった、と後に母は語ったことがある。物理的な暗さではない。道の両脇には、収穫を終えて枯れた茎だけが残る畑がどこまでも広がり、灰色がかった冬空が重く垂れ込めていた。時折吹き抜ける風が、乾いた土埃を巻き上げ、カサカサと音を立てる。聞こえるのは、その風の音と、祖父の規則正しい足音、そして彼の背中から伝わってくる、ドッドッドッという力強い心臓の鼓動だけ。
それは、彼女が初めて感じる「父」という存在の、揺るぎない生命の音だった。温かく、頼もしいはずの音。だが、その音を聞きながら、彼女の瞳は、ただひたすら後ろに向けられていた。
なぜ、彼女は前を向かなかったのか。四歳の子供が、これから始まる輝かしい未来よりも、失われゆく過去を選んだのはなぜか。
それは、恐怖だったのだと私は思う。目を逸らしてしまえば、前を向いてしまえば、明の姿が、孤児院という自分の拠り所が、この世界から完全に消滅してしまう。見つめ続けること。それが、彼女にできる唯一の抵抗であり、喪失という巨大な暴力に対する、ささやかな反逆だったのだ。泣きもせず、叫びもせず、ただ網膜に焼き付けるように、失われていくものを見つめ続ける。その行為が、彼女の今後の人生における、戦い方の原型となった。
祖父の背中は、新しい世界への乗り物だった。しかし、彼女はその乗り物の上で、過去へと視線を固定している。この「後ろを向きながら、前へと運ばれていく」という矛盾した状態こそ、彼女の魂のあり方を正確に物語っている。
道は、どこまでも続いていた。まるで世界の果てまで続くかのような、単調で、終わりの見えない道。祖父の背中の温もりは、やがて彼女自身の体温と混じり合い、どちらのものか分からなくなっていく。彼女は、この温もりが「家族」なのだと理解しようとしただろう。与えられる食事、雨風をしのげる屋根。それは孤児院では得られなかった「幸福」の形のはずだった。
だが、彼女の心は暗かった。この道の先に待つのが、どんなに明るい未来だと大人たちに言われようとも、彼女は今、自分の半身を道の向こうに置き去りにしてきたのだ。その喪失感は、彼女の心の奥深くに、決して消えることのない小さな空洞を作った。
やがて、遠ざかる景色の中に、明の姿は豆粒よりも小さくなり、ついには見えなくなった。孤児院の建物も、地平線の向こうに溶けていった。もう、見つめるべきものは何もなかった。それでも、母は後ろを向き続けていたという。そこにはもう何もない、ただ荒涼とした道が続いているだけの風景を、まるで何か大切なものを見守るかのように。
この日、祖父の背中に揺られながら、後ろ向きに見た何もない道の風景。それが、私の愛する母・京海の人格を形成した、最初の、そして最も決定的な心象風景だった。
彼女の生涯にわたる太陽のような明るさは、この日に知った世界の暗さの裏返しだ。彼女の鋼のような強さは、この日に経験した引き裂かれるような別離を、二度と繰り返すまいという誓いから生まれたのだ。母は決して後ろを振り向かない女性になった。だが、その瞳の奥には、常にあの日の道が、そして道の向こうに消えていった親友の姿が、決して消えることのない幻影として、宿り続けていた。
私は、そんな母の息子であることを、心から誇りに思う。そして、母がその人生をかけて守り抜いてきたものの意味を、その強さと明るさの根源にある哀しみを、誰よりも深く理解する者でありたいと、切に願っているのだ。
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