第二幕・第八章:白殻の影

 丘の上の異形は、まるで風景の一部を引き剥がしたような存在だった。

 ひび割れた白い殻が月光を反射し、三つの穴からは闇の滴が垂れている。

 その滴は草に触れるたび、色を奪い、灰へと変えていった。


 静馬が短刀を構えると、澪がかすかに呻いた。

  「……あれ……知ってる……」


 夏芽が驚いて顔を向ける。

 「澪、知ってるって……何を?」


 澪は視線を異形から離さず、か細い声で呟いた。

  「……昔……裏山で……」


 ——薄曇りの夕暮れ、澪はまだ八歳だった。

 裏山の奥には、村の子どもたちが決して近づかない“薪置き場”があった。

 そこは荒川家の当番が毎日火を焚き、湿った薪の匂いが絶えず漂っていた。

 澪はその日、兄の帰りを待ちきれず、ひとりでその小道を上った。


 森の中は異様に静かで、鳥も虫も鳴かない。

 薪置き場の端に、古びた丸太の山が積まれている。

 その奥——ひび割れた白い壁のようなものが立っていた。

 人の形に似ているが、目も口もなく、ただ三つの穴が黒々と開いているだけだった。


 その白い殻は澪に気づくと、ゆっくりと首を傾けた。

 穴の奥から、何かが覗いている。

 闇の中で、ふたつの白く濁った瞳がぎらりと光った。


  「代わりを……」


 その声が澪の耳の奥に直接響き、頭の中で反響した。

 怖くて動けない——でも同時に、不思議な安らぎが胸に広がった。

 その場で目を閉じれば、もう何も怖くなくなるような、そんな感覚だった。


 しかし次の瞬間、薪置き場の炎が大きく揺れ、その影が白殻の胸を横切った。

 白殻は小さな悲鳴のような音を上げ、闇の滴を撒き散らしながら森の奥へと消えた。


 ——それから何年も、澪はその出来事を誰にも話さなかった。

 夢だったと思い込もうとしたが、時折、夜の窓の外に白い殻の影を見た。

 あの目と、あの声は、今も鮮明に耳と胸に残っている。


 澪の回想が途切れると同時に、丘の上の異形が一歩、こちらへ近づいた。

 殻が擦れ合う音が、骨を削るような不快な響きで夜気を震わせた。

 静馬は短刀を握る手に力を込める。


 しかし澪は、その動きを止めるように、弱々しく手を伸ばした。

  「……あれは……まだ……私を……」


 その先の言葉は、闇に飲まれるように消えた。

白殻の異形が、ゆっくりと丘を下りてくる。

 その足音は重いのに音はなく、踏みしめた草が色を失って崩れていく。

 近づくたびに空気が硬くなり、胸が圧迫されるような息苦しさが増していく。


 静馬は短刀を構え、夏芽と狩野は澪を囲むように位置を変えた。

 異形はそのまま真っ直ぐこちらに向かってくる——そう思った瞬間、その足がぴたりと止まった。


 闇の滴が三つの穴から落ち、澪の目の前の地面に黒い痕をつけた。

 異形は首を傾け、その奥の濁った瞳で澪を見下ろしている。


 「……おい、動かないぞ……」狩野が低く呟く。

 しかし次の瞬間、異形は静馬の方へと腕を伸ばした。

 その腕は白い殻のような皮膚に覆われ、表面はひび割れ、隙間から黒い筋が走っている。


 静馬は咄嗟に短刀で切り払うが、異形は微動だにしない。

 そのままじりじりと距離を詰め、夏芽にも狙いを変える。

 だが——澪には触れようとしない。


 まるで澪の存在そのものが結界であり、触れれば何かを失うかのように、異形は彼女を避けて動いていた。


 澪はその様子を見つめたまま、小さく息を吐く。

  「……やっぱり……」


 夏芽が聞き返す。

 「やっぱりって、何?」


 澪は答えず、異形に向かって一歩踏み出した。

 その瞬間——異形はわずかに後退した。

 まるで古傷を突かれた獣のように、体をねじり、三つの穴を細める。


 静馬の胸の奥に、冷たい予感が走った。

 ——これは偶然じゃない。

 澪は、この異形と何らかの“契約”を交わしている。

 それは彼女が覚えていないのか、あるいは意図的に忘れようとしているのか。


 異形は攻撃をやめ、澪を軸にして三人を囲むように歩き始めた。

 その足取りはゆっくりだが、まるで檻を作るように逃げ道を塞いでいく。


 澪は低く囁くように言った。

  「……お兄ちゃん、手を出さないで。あれは……私を代わりに選んだものだから……」


 静馬は息を呑む。

 「代わり……って、何の……?」


 澪は答えず、ただ丘の闇の向こうを見つめた。

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