第十七話 人々の選択
絶対的な静寂が、無限に広がる光の回廊を支配していた。
それは、死そのものが持つ静けさだった。
リアム・ブレイドの体は、書庫の壁とも言うべき光の集合体に叩きつけられたまま、ぐったりと動かない。
口元から零れた血が光の粒子に触れて音もなく霧散し、その生命の灯火が今にも消え入りそうに揺らめいていることだけが生々しく伝わってきた。
彼の喉元には、過去の自分自身の幻影――「リアムの影」が振るう白銀の剣の切っ先が、冷たく突きつけられている。
「リアムさん……」
アリアの唇から漏れた声は、音になる前に掻き消えた。
全身が恐怖で凍りつき、指一本動かすことができない。
隣でリィナが彼女を庇うように杖を構えているが、その顔にも深い絶望の色が浮かんでいた。
あれは、リアム自身の、それも一切の迷いも弱さも持たなかった全盛期の剣技。
自分たちがどう足掻こうと、届くはずがなかった。
「言ったはずだ。お前は弱くなった、と」
「影」の冷徹な声が、敗北の宣告のように響き渡る。
その声はリアム自身のものと寸分違わないが、そこには魂の温もりが一切感じられなかった。
「仲間を守りたいという意志が、お前の剣に迷いを生んだ。その迷いが、お前の死を招く。結局、お前は何も守れはしない。かつての俺のように、全てを斬り捨てる覚悟なき者に、剣を握る資格はない」
その言葉は、リアムだけでなく、アリアの心をも鋭く抉った。
リアムを立ち直らせたはずの自分の言葉が、彼を弱らせ、死地に追いやったというのか。
自分の愛が、彼の剣を鈍らせる毒だったというのか。
そのあまりに残酷な現実に、アリアの視界が涙で滲んでいく。
「フハハハハ!見事!実に見事な結末だ!」
空間全体から、元・院長の狂気に満ちた哄笑が響き渡った。
「愛が英雄を殺す!絆が勇者を砕く!これこそが、私が創り出す新たな物語の序章に相応しい!不完全な真実が、いかに脆く、愚かしいものであるか、その身をもって証明してくれたな、リアム・ブレイド!」
違う。
アリアは心の内で絶叫した。
リアムの強さは、誰かを守りたいという想いから生まれるはずだ。
彼の優しさは、決して弱さなどではない。
それを、この世界で自分だけは知っている。
だとしたら、何が間違っている?
何が足りない?
その時、アリアは気づいた。
目の前の「影」を形作り、その存在をこの場に繋ぎ止めている力の正体に。
それは、元・院長の力だけではない。
「疾風のリアムは友を裏切った卑劣な悪役である」――そう信じ込まされている、大陸中の数え切れないほどの人々の、歪んだ認識そのものだ。
人々の集合的無意識が、「リアムの影」という最強の絶望を、この「万象の書庫」に召喚し、その存在を支えているのだ。
リアム一人がどれだけ強くなろうと、世界そのものが彼を「悪」と断じている限り、この「影」を打ち破ることはできない。
ならば。
リアム一人を救うのではない。
世界そのものを、救わなければ。
「リィナさん」
アリアの声は、震えていたが、そこには確かな意志の光が宿っていた。
「リアムさんを救う方法が、一つだけあります。でも、それはとても危険な賭けです」
「…聞かせて、アリアさん」
リィナは、アリアの瞳の中に、絶望とは違う色の光が灯ったのを見逃さなかった。
「『リアムの影』を支えているのは、偽りの歴史を信じる、大陸中の人々の心です。その心を、私たちが、今ここで、真実へと還すんです」
「正気なの…?そんなこと、どうやって…」
リィナの言葉はもっともだった。
だが、アリアは諦めなかった。
「ここは、世界の記憶そのものが集まる場所です。物理的な法則よりも、魂や意識の繋がりの方が、強く作用するはずです。リィナさんの『大地の声を聞く力』なら、この記憶の奔流を『大地』と見立てて、大陸中の人々の心に繋がる『意識の地脈』のようなものを見つけ出せるかもしれません!」
「意識の地脈……」
リィナは息を呑んだ。
あまりにも荒唐無稽な発想。
だが、この常識が一切通用しない神話の空間においては、それこそが唯一の理に適った答えなのかもしれない。
「そして、リィナさんが道を繋いでくれたなら、私が、その道を通って、人々の心に直接、本当の記憶を届けます。私たちがこれまで見てきた、リアムさんの本当の姿を、忘れられてしまった英雄たちの本当の戦いを、伝えるんです!」
それは、一歩間違えれば、二人の精神が膨大な情報の奔流に飲み込まれ、二度と戻れなくなるという、文字通り魂を賭けた最後の策だった。
リィナは、迷わなかった。
彼女はアリアの肩に力強く手を置くと、固い決意を目に宿して頷いた。
「やりましょう。リアムさんが命懸けで稼いでくれたこの時間を、無駄にはしない」
二人は、倒れるリアムと、彼を見下ろす「影」から数歩下がり、背中合わせに立った。
元・院長は、二人の不可解な行動を嘲笑って見ていた。
もはや抵抗する力も残っておらず、死を前にした最後の祈りか何かだとでも思ったのだろう。
リィナは樫の杖を光の床に突き立て、深く目を閉じた。
意識を、無限に広がる光の粒子――
聞こえてくるのは、無数の魂の叫びだった。
喜び、怒り、悲しみ、憎悪。ありとあらゆる感情が濁流となって渦を巻き、彼女の精神を飲み込もうとする。
あまりの奔流に、一瞬意識が遠のきかけた。
(しっかりしなさい、私…!)
彼女は、リアムの苦悶の表情と、アリアの信じる瞳を思い浮かべ、精神を奮い立たせる。
物理的な大地の、岩盤を流れ、水脈を潤す清らかな歌ではない。
これは、もっと混沌として、もっと巨大な、魂の歌だ。
だが、どんなに混沌としていても、そこには必ず「流れ」があるはず。
リィナは、ノイズの奥にある、微かな繋がりを探し続けた。
同じ時代に生き、同じ空気を吸い、同じ物語を信じている者たちの間に存在する、見えない共感の糸。
それは、蜘蛛の糸よりも細く、しかし決して切れることのない、魂のネットワーク。
「……見つけた」
どれほどの時間が経っただろうか。
リィナの額に、玉のような汗が浮かんでいた。
彼女は、ついに濁流の底に流れる、巨大な意識の奔流――「意識の地脈」を手繰り当てることに成功したのだ。
「アリアさん、今です!」
その言葉を合図に、アリアもまた、祈るように目を閉じた。
彼女はリィナの背中にそっと手を触れる。リィناが繋いだ魂のネットワークに、アリアは自らの共感能力の全てを乗せた。
彼女が送るのは、単なる
五感で感じる、鮮烈な「記憶の断片」そのものだった。
――神を僭称した賢者アルドゥスとの決戦。降りしきる雨の中、泥と血にまみれながら、それでも仲間を信じて剣を振るうリアムの姿。
――戦いが終わり、荒れ果てた大地を、名もなき人々が鍬を手に、歯を食いしばりながら耕していく姿。小さな種を植え、芽吹きを喜び、ささやかな収穫に涙する、復興の日々の記憶。
――そして、アリアがリアムの魂の奥底で見た、あの光景。致命傷を負い、故郷の家族への想いを託して死んでいく若い兵士を、リアムが強く抱きしめ、「お前の愛した者たちは、俺がこの命に代えても守ってやる」と天に誓う、魂の叫び。
痛みを伴うが、温かい、本物の記憶の奔流が、リィナが繋いだ道を通り、大陸全土へと、光の速度で流れ込んでいった。
◇
エレジア王国最北端の町、ホワイトリッジ。
酒場「氷牙亭」では、鉱夫たちがいつものように、吟遊詩人が残していった「グレイウォール卿と裏切りの疾風」の一節を、酔いに任せて大声で歌っていた。
「卑怯者め!お前がガレス様を裏切った罪、この聖剣で償わせてくれる!」
一番の大声で歌っていた体格のいい鉱夫が、ぴたりと歌うのをやめた。
「…どうした?」
仲間が訝しげに声をかける。
男は、自分の胸に手を当て、困惑した表情を浮かべていた。
「…いや…なんだか…今、すごく悲しい夢を見たような…」
彼の脳裏に、会ったこともないはずの、若い兵士の顔が浮かんでいた。
雨に打たれながら、誰かに何かを託して、安らかに死んでいく、そんな光景だった。
それは、酒場の他の客たちも同じだった。
あれほど熱狂していた偽りの英雄譚が、急に色褪せて、空虚なものに感じられた。
代わりに、胸の奥から込み上げてくるのは、自分たちの祖父や、そのまた祖父の世代が、この厳しい土地でどれだけ苦労して生きてきたかという、忘れかけていた誇りと痛みだった。
王都の広場。
子供たちが、木の棒を剣に見立てて、英雄ごっこに興じている。
「我こそは、真の英雄、グレイウォール卿なり!」
「ふん、この裏切り者のリアム様が、闇に葬ってやる!」
リアム役の少年が、勝ち誇ったように木の棒を振り上げた、その瞬間。
彼の動きが、不意に止まった。
彼の小さな頭の中に、断片的な映像が流れ込んできたのだ。
自分と同じくらいの歳の少年が、傷だらけになりながら、必死に誰かを守ろうとしている。
その瞳は、とても悲しくて、でも、すごく強かった。
「…やめた」
少年は、ぽつりと呟くと、持っていた木の棒を地面に落とした。
「どうしたんだよ、一番いいところなのに!」
グレイウォール卿役の少年が不満そうに言う。
「…だって…なんだか…リアムって奴、本当は、悪者じゃないような気がする」
その言葉に、周りの子供たちも顔を見合わせた。
彼らの心にもまた、同じような、説明のできない温かい記憶の欠片が流れ込んでいたからだ。
西方の交易都市リューベック。
大陸中の衛兵たちの詰め所。
貴族のサロン。
同じ現象が、大陸の至る所で、同時に起きていた。
人々は、頭の中に流れ込んできた「もう一つの歴史」に混乱した。
甘美で、心地よく、自分たちを肯定してくれる「偽りの物語」。
それに対して、流れ込んできた記憶は、痛みに満ちていた。
そこには、目を背けたくなるような犠牲があり、英雄たちの過ちがあり、そして何より、自分たち自身の祖先が経験した、苦難の道のりがあった。
だが、その記憶には、確かな「温もり」があった。
それは、誰かに与えられた安寧ではなく、自分たちの手で未来を掴み取ってきたという、揺るぎない誇りの記憶だった。
人々は、戸惑いながらも、自らの意志で、選択した。
「そうだ…俺たちの親父は、英雄様なんかに頼らず、この腕一本で、荒れ地を畑に変えたんだ…」
「おばあちゃんが言ってたわ…。戦争が終わった後、食べるものがなくても、隣近所で分け合って、みんなで生き延びたんだって…」
「ガレス様も、リアム様も…本当は、俺たちのために戦ってくれていたんじゃないか…?」
偽りの歴史という名の厚い氷が、大陸の至る所で、音を立てて砕けていく。
人々は、痛みを伴うが、確かに自分たちが生きてきた証である「真実」の記憶を、自らの意志で受け入れ始めたのだ。
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