第13話

偵察兵からの報告は、私たちが最も恐れていた内容だった。

執務室の重い扉を開けると、アシュトン様とギデオンさんが地図を広げている。

二人はとても難しい顔をしていて、部屋の空気は戦いの前のように張り詰めていた。


「リリアーナか」

私に気づいたアシュトン様が、静かに顔を上げた。

その灰色の瞳には、領主としての厳しい光が宿っている。

でも同時に、私を心配する優しさも混じっていた。


私は不安がる子供たちのことを、侍女のエマに任せてきた。

そして、まっすぐにアシュトン様の元へと歩み寄る。


「報告は、聞きました」

「ああ、どうやら本当の戦いは、これかららしいな」

アシュトン様は、疲れたように大きなため息をついた。

偵察兵が、改めて詳しい報告を始める。


「はっ。うわさの魔術師たちが目撃された森の奥に、奇妙な広場がありました」

「そこには、石を組んで作られた祭壇のようなものがあったのです」

「そして祭壇の中央には、あの蛇の紋章がはっきりと刻まれていました」


偵察兵はごくりと唾を飲み込み、言葉を続けた。


「さらに周りには、燃えかすや動物の骨が散らばっていました。何かの儀式が行われた跡で、間違いありません」

その報告だけでも、十分に不気味なものだった。

だが、彼が本当に伝えたかったのは、その先のことらしい。


「そして祭壇のすぐ横の木に、これが突き立てられていました」

彼が恐る恐る差し出したのは、一本の短剣だった。

それは、王都の騎士たちが使う、どこにでもあるようなものだ。

しかし、問題はその持ち手の部分に刻まれた紋章にあった。


エルミート王家の、獅子の紋章。

それは、間違いなく私の父や兄たちが使うものだった。


「これは」

アシュトン様の声が、低くうなる。

部屋の温度が、急に下がったように感じられた。

ギデオンさんがその短剣を手に取り、苦々しく吐き捨てる。


「王都の連中か。やはり、奴らが裏で糸を引いていたということか」

「あの魔術師たちは、王家が雇ったならず者だったと」

ダリウスさんが、怒りでこぶしを震わせた。


「ふざけやがって。俺たちを辺境に追いやって、魔物と戦わせるだけでは足りないのか」

「こんな汚いことまでしやがるとは、絶対に許せねえぞ」

騎士たちの怒りは、当たり前のことだった。


私も、胸の中に冷たい怒りが湧いてくるのを感じる。

あの家族なら、本当にやりかねない。

自分たちの体面のためなら、辺境の民が何人死のうと何とも思わないだろう。

特に兄である第一王子は、私をこの土地に追いやった本人だ。

彼が、私の嫁ぎ先を混乱させようとしても、何の不思議もない。


だが、私はどこかおかしいと感じていた。

あの兄が、こんなに手の込んだ計画を立てられるだろうか。

彼のやり方は、いつももっと直接的で、単純なはずだ。

それに、あの蛇の紋章と王家の紋章。

二つの繋がりの見せ方が、あまりにわざとらしい。

まるで、私たちにそう思わせようとしているようだった。


アシュトン様は、怒りに震える部下たちとは違い、冷静に考え込んでいた。

彼は、私の視線に気づくと、問いかけるように私を見る。


「リリアーナ、君はどう思う」

「はい。王家が関わっている可能性は、否定できません」

「ですが、少しだけ、納得できない点があります」


「というと、どういうことだ」

「これは、あまりにも分かりやすすぎる証拠です」

「まるで、犯人は王家ですよと、わざわざ教えてくれているかのようです」

「もし本当に王家が黒幕なら、こんな証拠を残すでしょうか。もっとうまく、自分たちの関与を隠すはずです」


私の言葉に、ギデオンさんたちがはっとしたように顔を見合わせた。


「つまり、これは罠だと。我々と王都を、対立させるための」

「はい。その可能性も、考えられるのではないでしょうか」

「あの蛇の紋章を持つ本当の黒幕が、王家を利用しているのかもしれません」

「あるいは、王家の中の誰かが、個人的に彼らと手を組んでいるか」


どちらにしても、事態はより複雑で、厄介なものになった。

敵は、ただの魔物の群れでもなければ、王家そのものでもない。

もっと底の知れない、悪意を持った何者かなのだ。


アシュトン様は、深くうなずいた。


「リリアーナの言う通りだ。怒りに任せて王都へ兵を向けるのは、敵の思うつぼかもしれん」

「今は、落ち着いて状況を分析し、足元を固める時だ」

「ギデオン、森の警戒をさらに強めろ。敵は、まだ近くに隠れている可能性が高い」


「はっ、承知いたしました」

「ダリウスとレオは、騎士団の訓練を続けろ」

「いつ、どんな事態になっても対応できるように、連携をさらに磨き上げるんだ」


「お任せください」

「いつでも、出られます」

アシュトン様が、迷いなく指示を飛ばしていく。

その姿には、もう以前のような不安は見られなかった。

頼もしい、真の領主の姿がそこにあった。


指示を受けた騎士たちが、次々と部屋を出ていく。

執務室には、私とアシュトン様の二人だけが残された。

彼は、疲れたように椅子の背もたれに体を預ける。


「すまない。また、君にまで重い荷物を背負わせてしまった」

「いいえ。私は、あなたのパートナーですから当然です」

私は彼の隣に立ち、その肩にそっと手を置いた。


「それよりも、アシュトン様。私からも、一つ提案があります」

「なんだ」

「敵の狙いが私たちの心を乱すことなら、私たちはこれまで以上に心の守りを固める必要があります」

「騎士団だけでなく、領民全体の心を、です」


「領民の、心か」

「はい。戦いの恐怖は、兵士だけでなく、子供や女性たちの心にも深い影を落としています」

「その不安や恐怖をそのままにすれば、そこが敵の新たな標的になりかねません」

「まずは、最も心が傷つきやすい、子供たちの手当てを優先させてください」


私の提案に、アシュトン様は迷いなく頷いた。


「分かった。それも、君に全て任せる」

「必要なものは、何でも言ってくれ」

「ありがとうございます」


その日から、私は寺子屋での活動を、さらに本格的にした。

読み書きを教えるだけでなく、子供たち一人ひとりと向き合う時間を大切にする。

特に、前の戦いで親を亡くした孤児たちの心の傷は、とても深いものだった。


私は、一つの試みを始めた。

言葉でうまく気持ちを表現できない子供たちのために、砂の入った箱と小さなおもちゃを用意したのだ。

これは、前の世界で箱庭療法と呼ばれていた、心の治療法の一つだった。

子供たちは、砂の上に、自分の心の中にある世界を自由に表現する。

その箱庭を見ることで、私は、彼らの心の奥にある言葉にならない叫びを読み解こうとした。


ほとんどの子供たちは、最初は戸惑いながらも、次第にその作業に夢中になっていく。

家や木、動物の人形を並べ、自分だけの物語を作り上げていった。

その箱庭は、彼らの心の状態を、驚くほど正直に映し出していた。


しかし、一人だけ、どうしても心を開かない少年がいた。

彼の名前は、トム。十歳になる、口数の少ない少年だ。

彼は、数年前の戦いで、両親を目の前でオークに殺されたという。

それ以来、彼は、一切の感情を表に出さなくなった。

笑うことも、泣くことも、怒ることさえもなかった。


彼は、箱庭療法にも、全く興味を示さなかった。

ただ、部屋の隅で、膝を抱えて座っているだけ。

他の子供たちが、楽しそうに遊んでいるのを、ぼんやりした目で見つめている。

彼の心は、厚い氷の壁で、固く閉ざされてしまっていた。


無理に何かをさせることは、できない。

私は、ただ彼のそばに座り、静かに語りかけるだけの日々を続けた。


「トム。今日は、良いお天気ね」

「お外で、ひなたぼっこでもしたら、気持ちが良いかもしれないわ」

彼は、答えなかった。

それでも、私は毎日、彼の元へ通い続けた。

あなたを、見捨ててはいない。

いつでも、あなたの話を聞く準備ができている。

その気持ちを、送り続けることだけが、私にできる全てだった。


そんなある日、私がいつものように寺子屋へ向かうと、珍しくトムが机で何かを描いていた。

木炭で、羊皮紙に、夢中になって何かを描きつけている。

私がそっと近づいても、彼は全く気づかないようだった。

私は彼の邪魔をしないように、少し離れた場所からその様子を見守る。


彼が描いていたのは、森の絵だった。

黒く、不気味な木々が、天に向かって伸びている。

そして、その森の中心には、奇妙な祭壇のようなものが描かれていた。

祭壇の上には、あの蛇の紋章。

その周りには、黒い服を着た人影が、何人も立っていた。

その光景は、先日、偵察兵が報告したものと驚くほどよく似ている。


まさか、彼は。

私は、思わず息を呑んだ。

トムは、両親が殺された日、森の中で何かを見てしまったのかもしれない。

その恐怖の記憶が、彼の心を閉ざし、言葉を奪ってしまったのだ。

私は、ゆっくりと彼の隣に膝をついた。


「トム。この絵は、何を描いたの」

できるだけ、優しい声で尋ねる。

私の声に、トムははっと我に返ったように、びくりと肩を震わせた。

そして、自分が描いた絵を見ると、恐怖に顔をゆがませる。

彼は、羊皮紙をぐしゃぐしゃに丸めてしまった。


「違う、違うんだ」

「見てない、僕は何も見てない」

彼は、そうつぶやくと、再び部屋の隅へ駆け寄った。

そして、頭を抱えてうずくまってしまう。

体が、小さく震えていた。

記憶のふたが少しだけ開いて、彼は、再び恐怖の渦に飲み込まれてしまったようだ。

これ以上、彼を追いつめるのは危険だ。

私は、その日は何も聞かなかった。

ただ、彼の背中を優しくなで続けることしかできなかった。


一方、城の外では、ハンスさんの指導による農業改革が、順調に進んでいた。

騎士団と領民たちの協力のおかげで、温室の骨組みが、早くも完成したのだ。

ガラスの代わりに、特殊な油を染み込ませた、光を通す丈夫な紙が張られている。

中には、地面の熱を利用した温水パイプが通され、冬でも作物を育てられるようになっていた。

スノー・ウィートの畑も、見渡す限り広がっている。

まだ小さな芽が出たばかりだが、その光景は領民たちに確かな希望を与えていた。

ハンスさんも、最初は愛想が悪かった。

でも、兵士たちの真面目な働きぶりに、次第に心を開いていった。

今では、訓練の合間に農作業を手伝うダリウスさんたちに、農業の基礎を熱心に教えている。


「いいか、土の声を聞くんだ」

「作物はな、愛情をかけた分だけ、正直にこたえてくれるもんだ」

その口調はぶっきらぼうだが、そこには確かな愛情がこもっていた。

彼は、この土地と、ここに生きる人々を、心の底から愛しているのだ。


その日の夕方、私は執務室で、アシュトン様にトムのことを報告した。


「そうか。あの子は、何かを知っているのか」

アシュトン様は、厳しい顔で腕を組む。

「はい。ですが、無理に聞き出すことはできません」

「彼の心が、壊れてしまう可能性があります」


「ああ、分かっている。君のやり方で、あの子の心を癒やしてやってくれ」

「時間は、かかるかもしれんがな」

「はい」

アシュトン様は立ち上がると、窓の外に広がる領地の景色を眺めた。

夕日に照らされた畑が、黄金色に輝いている。


「畑も、人の心も、同じなのかもしれんな」

「根気強く、愛情をかけて育てなければ、豊かな実りは得られない」

彼はそう言うと、こちらに振り返り、穏やかに微笑んだ。

「君という、最高の育て手がいてくれて、俺は本当に幸運だ」

その優しい言葉に、私の胸は温かいもので満たされた。


謎の敵、王家の思惑、そして閉ざされた少年の心。

問題は、まだ山積みだ。

でも、この人と一緒なら、きっと乗り越えていける。


トムが丸めて捨てた羊皮紙を、私はそっと拾い上げた。

しわくちゃの紙を丁寧に広げると、そこには不気味な祭壇の絵が再び現れる。

その絵の隅に、何か小さなものが描かれていることに、私は気づいた。

それは月のようでもあり、太陽のようにも見える。

黒く塗りつぶされた不吉な円から、私は目が離せなかった。

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