第7話
トロルの巨大な棍棒が、地響きと共に振り下ろされる。
そのすさまじい重さと速さは、当たれば城の壁すら砕く威力を持っていた。
誰もが息を飲む中で、ボルツさんは一歩も引かない。
彼は獣のような雄叫びを上げると、全身の力を込めて巨大な盾を棍棒の進む道に割り込ませた。
「うおおおおおおっ!」
ゴッと、骨まで響く鈍い音が戦場に鳴り響いた。
ものすごい衝撃が、ボルツさんの全身を襲う。
彼の足元の大地は砕け、大きな体がきしむのが遠くからでもはっきりと分かった。
しかし、彼は倒れない。
膝を折り、歯を食いしばりながらも、確かにトロルの全力の一撃を受け止めてみせたのだ。
「ボルツさんっ!」
後ろから、若い兵士の悲鳴に近い声が上がる。
だが、本人自身は揺るぎない声で答えた。
「ぐっ、心配するな小僧ども。こいつの動きは、俺が止める!」
盾を押し返すトロルの力に耐えながら、ボルツさんが叫んだ。
その言葉が、合図だった。
今まで彼の影に隠れるように動いていたレオさんたちが、一斉に周りへ散らばる。
「よし、今だ。私はボルツさんの左を助ける!」
「僕は右から行くよ、ゴブリンどもを近づけるな!」
「分かった、背後は任せてくれ!」
彼らは、私が教えたアサーションの技術を使っていた。
お互いの役割と意思を、一瞬ではっきりと伝え合う。
『お前はあっちへ行け』ではなく、『私はここを助ける』と話す。
その主語の違いが、彼らを駒ではなく主体的に動く一つのチームへと変えていた。
レオさんともう一人の素早い兵士が、まるで風のようにトロルの横を駆け抜ける。
その速さに、トロルの巨体はまったくついていけていない。
二本の剣が、ほとんど同時にトロルの太いアキレス腱に深く突き立てられた。
「ギィイイイイアアアアッ!」
今まで聞いたこともないような、高い悲鳴が上がる。
トロルが苦しさに体勢を崩し、ボルツさんを押し潰そうとしていた力が弱まった。
「好機だ、ボルツ!」
城壁の上から、ギデオンさんの声が飛ぶ。
ボルツさんは最後の力を振り絞り、盾でトロルの膝を内側から打ち砕いた。
巨大な体が、ゆっくりとこちら側へ傾いてくる。
それは、ほんの数秒間の決定的な隙だった。
「ダリウス、今だ。やれ!」
アシュトン様の命令が響き渡る。
それまで他のオークたちと戦っていたダリウスさんが、待ってましたとばかりに駆け込んできた。
「いっちょ上がりだ、このデクノボウがっ!」
ダリウスさんの巨大な戦斧が、傾いたトロルの首筋に吸い込まれるように叩き込まれた。
地を揺るがす大きな音と共に、トロルの巨体が地面に崩れ落ちる。
一瞬の静けさの後、次の瞬間、騎士団から爆発的な歓声が上がった。
「「「うおおおおおおおおっ、やったぞ!」」」
「トロルを倒したぞ!」
「すげえ、俺たちは勝てるぞ!」
大将だったトロルが倒されたことで、魔物の群れのまとまりが明らかに乱れ始めた。
あれほど整っていた動きが止まり、ただ目の前の敵に襲いかかるだけの集団へと変わっていく。
戦いの流れは、完全にこちらに傾いた。
私は城壁の上で、思わず安心のため息を漏らす。
しかし、勝利のために支払ったものは決して小さくなかった。
トロルを倒したボルツさんたちのチームは、喜びの輪の中心にいた。
だが、ボルツさん自身は左腕をだらりと下げ、苦しそうに顔を歪めている。
トロルの一撃を受け止めた盾を持つ腕が、限界を超えていたのだ。
他にも、トロルが倒れる時に巻き込まれた者や、乱戦の中で傷を負った兵士たちが次々と地面に膝をつき始めていた。
「負傷者を下がらせろ、救護所へ運ぶんだ!」
ギデオンさんの指示で、動ける兵士たちが負傷した仲間を担ぎ城の中へと運び込んでいく。
私も急いで城壁を降り、広間に作った臨時の救護所へと向かった。
広間は、すでに野戦病院のような様子を見せている。
私が指示しておいた通り、女性たちが湯や清潔な布を用意し運び込まれてくる負傷者たちの手当を始めていた。
エマも、薬草をすり潰しながら必死に働いている。
その顔はすすで汚れているが、瞳には強い光があった。
「リリアーナ様!」
私を見つけたエマが、駆け寄ってきた。
「ボルツさんが、ひどい怪我を!」
彼女が指差す先には、椅子に座らされ数人の女性に囲まれているボルツさんの姿があった。
彼の左腕は、鎧の上からでも分かるほど不自然な方向に曲がっている。
おそらく、骨が折れているのだろう。
私は、彼の隣に膝をついた。
「ボルツさん、聞こえますか?」
「あぁ姫様か、面目ねえ。このザマだ」
彼は額に脂汗を浮かべながらも、弱々しく笑ってみせる。
「いいえ、あなたは英雄です。あなたが体を張ってくれたおかげで、私たちは勝つ機会を掴むことができました」
私は、彼の汚れた手をそっと握った。
その手は、ごつごつとしていてたくさんの傷があった。
「本当に、ありがとうございます」
「もったいねえ、お言葉だ」
ボルツさんの目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
私は、治療にあたっている女性に尋ねた。
「骨は、おそらく折れていますね。今は、これ以上悪化させないように添え木をして固定するのが一番です」
残念ながら、この城に腕の良い治癒師はいない。
だが、骨つぎの知識がある老人がいると聞いていた。
彼が来るまで、応急処置を施さなければならない。
「ボルツさん、痛むでしょうが。少しだけ、我慢してくださいね」
私はそう言うと、布と木の板を使って彼の腕を慎重に固定していく。
前の世界で得た知識が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
ボルツさんは、歯を食いしばって痛みに耐えている。
その額には、汗が玉のように浮かんでいた。
「妻や子供に、みっともねえ顔は見せらんねえからな」
「ええ、あなたは故郷に胸を張って帰れますよ。家族の、そしてこの領地の誇りです」
私の言葉に、彼は何度も頷いた。
私はボルツさんだけでなく、運び込まれてくる他の負傷者たち一人ひとりにも声をかけて回る。
矢傷を負った若い兵士は、死の恐怖に怯えてずっと震えていた。
「怖かったでしょう、無理もありません。私も、とても怖いですから」
私は彼の恐怖を否定せず、ただ寄り添った。
そして、彼の震える手を握りゆっくりと呼吸するように促す。
安心したのか、彼は次第に落ち着きを取り戻していった。
別の兵士は、仲間をかばって背中に深い傷を負っていた。
彼は自分のことよりも、前線に残してきた仲間のことを心配している。
「あなたは、とても勇敢でしたね。仲間を思う、その優しい心があなたを強くしたのです」
「あなたの仲間は、きっと大丈夫。彼らも、あなたが無事であることを願っていますよ」
私は彼の行動を褒め、その心にある仲間への想いを認めた。
体の傷は、薬や治癒術で治せるかもしれない。
でも、心の傷は言葉でしか癒やすことができないのだ。
戦場で負った恐怖や罪悪感は、心の深い傷として彼らを長く苦しめるだろう。
だからこそ、今この瞬間の手当てが何よりも重要だった。
傷ついた彼らの心を、少しでも軽くすること。
それが、今の私にできる最も大切な後ろからの支援だった。
救護所での活動が一段落した頃、不意にアシュトン様が広間に入ってきた。
彼の鎧は、魔物の返り血で赤黒く染まっている。
その姿は、まるで伝説で語られる鬼神のようだった。
しかし、その灰色の瞳は驚くほど穏やかだ。
負傷者たちに寄り添う私の姿を、じっと見つめている。
広間にいた兵士や女性たちが、一斉に彼に頭を下げる。
彼はそれに手で応えると、まっすぐに私の元へと歩み寄ってきた。
「リリアーナ」
「アシュトン様、戦況は?」
「ああ、トロルを失い敵のまとまりは完全に崩れた。今、ダリウスたちが残党を片付けている。もうすぐ終わるだろう」
その言葉に、広間にいた全員から安心のため息とすすり泣きが漏れた。
勝ったのだ、私たちは。
この、絶望的だと思われた戦いに。
「そうですか、良かった」
私も、全身の力が抜けていくのを感じた。
アシュトン様は私の目の前に立つと、深く、深く頭を下げる。
「ありがとう、君がいなければこの戦いは勝てなかった。俺は、また同じ過ちを繰り返し全てを失うところだった」
その声は、感謝と自分自身への後悔が入り混じった、複雑な響きを持っていた。
「あなたは、何も間違ってはいません。あなたは、最後まで諦めずに皆を率いて戦い抜きました。それは、あなた自身の力です」
「いいや違う、俺に前を向く勇気をくれたのは君だ」
「騎士団に、信頼という力を与えたのも君だ。そして、この城にいる全ての人々を一つの心にしたのも」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
その灰色の瞳には、今まで見たことのない熱い光が宿っている。
「君は、この辺境のそして俺の光だ。リリアーナ」
彼のまっすぐな言葉に、私はどう返していいか分からずただ頬を染めることしかできなかった。
その時、ダリウスさんが血相を変えて広間に駆け込んできた。
「アシュトン様、大変です!」
そのただならぬ様子に、緩みかけていた空気が再び張り詰める。
「どうしたダリウス、残党の片付けは終わったのではないのか?」
「それが、敵の後ろから新たな一団が現れました! 数は多くありませんが、様子がおかしいのです!」
「おかしい、とはどういうことだ?」
「なんというか、魔術を使うようなのです。こちらの兵士たちが、次々と混乱し始めて!」
魔術、それも兵士たちを混乱させるような特殊なもの。
私は、胸騒ぎを覚えた。
ただの魔物の群れではなかったというのか。
この襲撃の裏には、何かを操る知的な存在がいるのかもしれない。
アシュトン様はすぐに表情を引き締め、ダリウスさんに命じた。
「すぐに状況を確認する、お前は部隊をまとめ直し城門の守りを固めろ! 決して油断するな!」
「はっ!」
ダリウスさんが、走り去っていく。
アシュトン様は、私に向き直った。
「すまない、どうやらまだ戦いは終わりそうにない」
「ええ、承知しています。私も、城壁へ向かいます」
「危険だ」
「いいえ、敵が魔術を使うというのならなおさらです。もしかしたら、私にできることがあるかもしれません」
私の決意が固いことを見て取ると、アシュトン様は何も言わずに頷いた。
私達は、再び城壁の上へと急ぐ。
城壁から見下ろすと、戦場の様子はすっかり変わっていた。
数は減ってはいるものの、残った魔物たちは奇妙な動きを見せている。
その中心にいるのは、黒いローブを着た数人の人影だった。
あれが、ダリウスさんの言っていた魔術を使う者たちだろう。
彼らが杖を振るうたび、こちらの騎士たちの動きが目に見えておかしくなっていく。
ある者は何もない場所に向かって剣を振り回し、またある者は頭を抱えてその場にうずくまってしまっている。
「これは、幻術か。精神への攻撃の仲間か!」
ギデオンさんが、悔しそうに歯を噛む。
物理的な攻撃ではない、目に見えない心の隙間に入り込むいやらしい攻撃だ。
心に傷を抱える兵士たちにとって、それは何よりもやっかいな敵だった。
「レオ、しっかりしろ!」
ダリウスさんの声が、聞こえる。
見ると、レオさんがまるで亡霊でも見たかのように顔を真っ青にして立ち尽くしていた。
彼の目には、何が映っているのだろうか。
おそらくは、彼が最も恐れているもの。
あの戦場で失った、親友の姿かもしれない。
このままでは、せっかく取り戻したやる気とチームワークが内側から崩されてしまう。
私は、すぐに行動を開始した。
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