第25話 空亡、目を開く
夜明け前、風が一度だけ――やめた。
港町マールの屋根瓦は冷え、祠(ほこら)の札は紙鳴りをやめて、ただ在る。灯台の旗は布の重さを思い出し、逆回りもせず、順回りもせず、棒の影だけが薄く伸びた。浅瀬の“下の昼”は瞬かない。ことのはたの花は閉じたまま、根のほうだけが拍を持っている。
「……来る」
星降りの魔女リュミエールは、息を吸う前に言った。
月詠の魔女カナタは、砂時計の鎖を短く握って「うん」とだけ。粒は落ちているのに、音がしない。音がしないのに、落ちているのが分かる。
祠の前で、老婆がいつもより小さな声で言った。
「札は動かさないよ。――『夢の拍』『水の頁』『薄い傘』『風の梯子』の順は固定。今日は、札ではなく、目を動かす日だ」
「目?」
「うん。空の目だよ」
老婆は“間の辞典(まのじてん)”を一度だけ叩く。拍が屋根へ、屋根から港へ、港から浅瀬へ。……返礼がない。返礼がないのは、拒絶ではない。見ているからだ。
「ふり向かない」
カナタが囁き、札の裏を胸の内側で撫でた。『ふり向かない』は欄干の名。欄干を掴めれば、人は見下ろさないで済む。
◇
町は歩かない。歩かないで、座る。
広場には“水の椅子”が三脚、灯台の踊り場にはもう三脚。風の梯子の途中に紙が一枚ずつ座り、空の畝(うね)は三本とも「止めかけ」のまま呼吸だけを続ける。
レトは笛を持ったまま吹かない。四音の前の、息の居場所を確かめている。
マリーナは蜂蜜少なめの平パンを焼き、噛む回数を指で見せながら、今日は声を使わない。声を使わないほうが、拍が濁らない。
合図も祝詞もない。代わりに、祠の札の影が、ほんのわずかに背丈を増やした。札は動かない。影だけが、伸びる。
「灯台へ」
「うん」
二人は並んで石段を上がった。石の冷たさが膝で止まる。止まるところが、今日の高さ。上がりすぎない。下りすぎない。途中に椅子を置くための高さ。
踊り場に着いたとき、空が開いた。
雲ではない。風ではない。
上の昼と下の昼のまぶたが、音のないまま上下に割れた。
割れ目に、目。
黒ではない。色でもない。
世界の数え方が、こちらを見た。
『――みえる』
声はない。だが、町全体の骨が一度にうなずいた。
うなずいた骨は、怖がらない。怖がらないのに、柔らかい。柔らかいのに、折れない。
「空亡(そらな)」
リュミエールが言った。
名乗りではない。呼びかけでもない。
位置の確認だ。
そこにいる。こちらも、ここにいる。
『――たべない。きかない。みる。』
「見る?」
『みる。“なら”、きこえる。』
カナタの喉がひとつ鳴った。
“なら”が生まれている。
昨日、梯子の途中で命令からこぼれた“なら”。
選べる合図。
空亡は“なら”を覚えた。
覚えた“なら”が、目になった。
「位置を揃える。……リュミエール」
「うん」
星降りの魔女は、杖を横に置き、撫でる光の準備をする。
星糸三本――《たなそら》《夢の拍》《港の朝》。
砂糸三本――《止めかけ》《位相ずらし》《嫌い》。
六本を束ね、笑いを結び目の代わりに刺す。笑いは声ではない。居場所の確信を刺す手つき。
「目をまっすぐに」
リュミエールの声は小さい。小さいのに、空が瞬きを覚える。
瞬きは、合図ではない。礼儀だ。
見る側と見られる側の距離の礼儀。
『……まばたき。』
「うん。眠りと目覚めの間にだけある拍」
『はく。』
「拍」
『――わたし、よめない。』
カナタの砂が、ふっとやわらいだ。
読まないで聴く。読めないまま座る。
それが、ここまでの旅で学んだこと。
「読めなくていい。……空。あなたが見るなら、私たちは座る」
『すわる?』
「うん。昔、あなたは“見られてばかり”で、座る場所がなかった」
空の目が、ほんの少し、湿る。
湿りは涙ではない。
湿りは、見ることの重さ。
重さは、椅子で受けられる。
◇
町が一斉に座り直す。
広場の水の椅子、灯台の椅子、梯子の紙の椅子。
それぞれがそれぞれの高さで、同じ拍に腰を落とす。
レトは笛を吹かない。吹かないで、息を渡す。
マリーナは噛む回数だけを掲げ、子どもたちは数えないで笑う。
祠の札は動かない。影だけが、肩に触れる高さを保つ。
空の目が、町を見る。
見ると、聞こえる。
聞こえると、食べないで済む。
『――みえる。きこえる。
すこし、うたえる。』
空亡が、歌の形を思い出した。
歌は命令ではない。
歌は、休符で呼吸する。
「返礼を」
リュミエールは鈴を鳴らさずに振り、胸の内で二音。
カナタは砂を薄く敷き、空の目の周りに『薄い傘』の影をわずかに広げる。
傘は弾かない。やわらげる。
やわらげられた目は、焦らない。
『もっと、みる。
――みらせて。』
危うい言葉。
“見させて”は、列に近い。
列は命令に似る。
命令は、町に似合わない。
「順序」
カナタの声が杭になる。
嫌いは杭。杭は道。道は未来。
未来は、名にできる。
「“見る”は先じゃない。座るが先」
『……すわる、が、さき。
なら、みる。』
“なら”が、もう一つ生まれた。
“なら”は橋だ。
橋は、落ちない。
◇
そのとき、灯台の石が鳴った。
低く、深く、長く。
海の底の破れた鐘――《ひかりのしずみ》が、返礼を送る。
空の目は海の返礼を見る。
見るから、聞こえる。
聞こえるから、食べない。
『――ひかり、しずむ。
しずむひかり、すき。』
空亡が「好き」を言った。
好きは、初めての杭になった。
嫌いは杭。好きも杭。
杭は道。
道は未来。
未来は、名にできる。
「なら、空。
あなたの“好き”の椅子を、空の畝に置こう」
『いす。』
「座面は《浮き》。脚は《嫌い》。背もたれは《笑いの影》」
『……“ふりむかない”は、らんかん。』
「覚えたね」
空の畝に、目に見えない椅子が増える。
椅子が増えると、空は見下ろさない。
見下ろさない空は、町より少しだけ高い。
その“少し”が、礼儀。
◇
風の梯子の上で、紙が一枚、揺れた。
アオイの返礼紙だ。
紙は読めない。読まれない。
座るための紙。
紙は紙のまま、座り続ける。
空の目が、紙を見る。
見るだけ。
読むのではない。
読まないから、燃えない。
『かみは、すわる。
すわるなら、うたえる。』
空亡の声が、低くなった。
低さは、昔を踏みつけにしない高さ。
町が一度だけ、背伸びをやめる。
やめるのに、縮まない。
縮まないで、座る。
◇
それでも、世界は試す。
北北東の谷――空亡の谷が、影の鈴を二度、返した。
高さが違う。
ひとつは今の高さ。
ひとつは昔の高さ。
高さがずれると、橋がたわむ。
「合図杭、増設」
「うん。空に一本。海に一本。町に一本」
カナタが短い《嫌い》を三度置く。
杭は見えないのに、掴める。
掴める杭があると、たわみは踊りに変わる。
リュミエールは星糸で「未来の座」の位置を薄く撫でた。
未来を“視る”のではない。
未来に座る場所を、いま薄く温める。
温めすぎない。未来は“いまの熱”で焦げやすい。
「リュミエール」
「うん、分かってる」
彼女は星盤の蓋を閉めた。
未来の映像は使わない。
未来は、椅子で迎える。
◇
空の目が、細くなる。
笑っている。
笑いは声ではない。
笑いは、ここに居られる確信の形。
『――わたし、たべない。
わたし、きく。
わたし、みる。
でも、しずまない。』
「しずまない?」
『しずむのは、ひかり。
わたしは、まばたき。』
世界中の“瞬き”が、同時に揃うのを、町が聴いた。
港の水面が一度だけ大きく呼吸し、浅瀬の“下の昼”が長めに瞬いた。
祠の札の影が、肩から背中に降りて、姿勢を整える。
「空亡。――目を開いたね」
『うん。
めを、あけた』
言葉に、幼さが混ざっていた。
幼さは、弱さではない。
幼さは、“学べる”の形だ。
「なら、今日はここまで」
『?』
「“開けっぱなし”は、無礼。
閉じられる日は、開けられる。
選べることが、だいじょうぶ」
カナタが『風の梯子』の欄干を撫で、目に見えない戸を引きかける。
完全には閉めない。
止めかけ。
止めかけは、今の形。
『――わかった。
わたし、まばたきする。』
空の目が、ゆっくり閉じ、ゆっくり開く。
そのあいだ、町は息を合わせ、椅子はきしまず、風は礼儀を思い出す。
◇
朝が来た。
灯台の旗が逆回りを一度だけして、すぐ順に戻る。
レトが四音を吹く。二つの間は広い。
マリーナは蜂蜜少なめの平パンをちぎって子どもに渡し、「噛め、噛め、噛め」。
アオイは紙束を抱えて、梯子の段に座り、後ろを見ないで手を振った。
ことのはたの花が開き、空の畝が三本とも薄く光る。
海の底の破れた鐘が、遠くで笑う。
北北東の谷が、影の鈴を一音だけ返す。
すべてが、ひとつの拍で呼吸していた。
「辞典」
「うん」
祠の前で、老婆が“間の辞典”の新しい頁を受け取る。
墨の細い字で、今日の名が増える。
『空の目:見る→聞こえる→食べない。まばたきは礼儀』
『座るが先:“見る”の前に椅子。だいじょうぶは場所』
『“なら”の橋:命令からこぼれた選択の合図』
『未来の座:視ないで温める。焦がさない』
『開けっぱなしは無礼:閉じられる日は開けられる』
老婆は頁を軽く叩く。拍が屋根へ、屋根から港へ、港から浅瀬へ。下の昼がうなずく。
順序は靴紐。結び直しは日課。
◇
日中、町は働く。働くのに、急がない。
急がないのに、止まらない。
止まらないのに、座れる。
座れるのに、登らない。
――矛盾のようで、拍にとっては当然だ。
空はときどきまばたきをする。
するたび、影の鈴が一音だけ返る。
返る音は、命令に似ない。
似ない音は、育つ。
◇
夕刻。
灯台の上で、二人は並んで座った。
話さない。
言葉は、今日は足しすぎないほうがいい。
見る側も、見られる側も、覚えたてなのだから。
「リュミエール」
「なに」
「夜は嫌い」
「夜は嫌い。――でも、まばたきする夜は少し好き」
「うん。座れる夜」
二人は同じ高さで笑い、鈴を鳴らさずに振った。
港の水面が呼吸し、浅瀬の“下の昼”が瞬く。
海が低く返礼を送り、空が薄くまばたきを返す。
世界は、生きている。
「明日、“未来の座”をもう一段、温めよう。
……視ないで、置く」
「うん。“好き”の椅子も一脚、空へ。
空亡の“好き”は、杭になる」
「順序、守る」
夜が来る。
黒は昨日よりも薄い刺繍で覆われ、刺繍は今日の出来事をなぞる。
空の目。まばたき。座るが先。ならの橋。未来の座。
――どれも、終わりの準備ではなく、続きの礼儀だった。
夜は嫌い。
けれど、まばたきする夜は、もう怖くない。
怖くない夜は、縫える。
縫えるなら、明日がある。
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