第25話 空亡、目を開く

 夜明け前、風が一度だけ――やめた。


 港町マールの屋根瓦は冷え、祠(ほこら)の札は紙鳴りをやめて、ただ在る。灯台の旗は布の重さを思い出し、逆回りもせず、順回りもせず、棒の影だけが薄く伸びた。浅瀬の“下の昼”は瞬かない。ことのはたの花は閉じたまま、根のほうだけが拍を持っている。


「……来る」


 星降りの魔女リュミエールは、息を吸う前に言った。

 月詠の魔女カナタは、砂時計の鎖を短く握って「うん」とだけ。粒は落ちているのに、音がしない。音がしないのに、落ちているのが分かる。


 祠の前で、老婆がいつもより小さな声で言った。


「札は動かさないよ。――『夢の拍』『水の頁』『薄い傘』『風の梯子』の順は固定。今日は、札ではなく、目を動かす日だ」


「目?」


「うん。空の目だよ」


 老婆は“間の辞典(まのじてん)”を一度だけ叩く。拍が屋根へ、屋根から港へ、港から浅瀬へ。……返礼がない。返礼がないのは、拒絶ではない。見ているからだ。


「ふり向かない」


 カナタが囁き、札の裏を胸の内側で撫でた。『ふり向かない』は欄干の名。欄干を掴めれば、人は見下ろさないで済む。



 町は歩かない。歩かないで、座る。

 広場には“水の椅子”が三脚、灯台の踊り場にはもう三脚。風の梯子の途中に紙が一枚ずつ座り、空の畝(うね)は三本とも「止めかけ」のまま呼吸だけを続ける。

 レトは笛を持ったまま吹かない。四音の前の、息の居場所を確かめている。


 マリーナは蜂蜜少なめの平パンを焼き、噛む回数を指で見せながら、今日は声を使わない。声を使わないほうが、拍が濁らない。


 合図も祝詞もない。代わりに、祠の札の影が、ほんのわずかに背丈を増やした。札は動かない。影だけが、伸びる。


「灯台へ」


「うん」


 二人は並んで石段を上がった。石の冷たさが膝で止まる。止まるところが、今日の高さ。上がりすぎない。下りすぎない。途中に椅子を置くための高さ。


 踊り場に着いたとき、空が開いた。


 雲ではない。風ではない。

 上の昼と下の昼のまぶたが、音のないまま上下に割れた。

 割れ目に、目。

 黒ではない。色でもない。

 世界の数え方が、こちらを見た。


『――みえる』


 声はない。だが、町全体の骨が一度にうなずいた。

 うなずいた骨は、怖がらない。怖がらないのに、柔らかい。柔らかいのに、折れない。


「空亡(そらな)」


 リュミエールが言った。

 名乗りではない。呼びかけでもない。

 位置の確認だ。

 そこにいる。こちらも、ここにいる。


『――たべない。きかない。みる。』


「見る?」


『みる。“なら”、きこえる。』


 カナタの喉がひとつ鳴った。

 “なら”が生まれている。

 昨日、梯子の途中で命令からこぼれた“なら”。

 選べる合図。

 空亡は“なら”を覚えた。

 覚えた“なら”が、目になった。


「位置を揃える。……リュミエール」


「うん」


 星降りの魔女は、杖を横に置き、撫でる光の準備をする。

 星糸三本――《たなそら》《夢の拍》《港の朝》。

 砂糸三本――《止めかけ》《位相ずらし》《嫌い》。

 六本を束ね、笑いを結び目の代わりに刺す。笑いは声ではない。居場所の確信を刺す手つき。


「目をまっすぐに」


 リュミエールの声は小さい。小さいのに、空が瞬きを覚える。

 瞬きは、合図ではない。礼儀だ。

 見る側と見られる側の距離の礼儀。


『……まばたき。』


「うん。眠りと目覚めの間にだけある拍」


『はく。』


「拍」


『――わたし、よめない。』


 カナタの砂が、ふっとやわらいだ。

 読まないで聴く。読めないまま座る。

 それが、ここまでの旅で学んだこと。


「読めなくていい。……空。あなたが見るなら、私たちは座る」


『すわる?』


「うん。昔、あなたは“見られてばかり”で、座る場所がなかった」


 空の目が、ほんの少し、湿る。

 湿りは涙ではない。

 湿りは、見ることの重さ。

 重さは、椅子で受けられる。



 町が一斉に座り直す。

 広場の水の椅子、灯台の椅子、梯子の紙の椅子。

 それぞれがそれぞれの高さで、同じ拍に腰を落とす。

 レトは笛を吹かない。吹かないで、息を渡す。

 マリーナは噛む回数だけを掲げ、子どもたちは数えないで笑う。

 祠の札は動かない。影だけが、肩に触れる高さを保つ。


 空の目が、町を見る。

 見ると、聞こえる。

 聞こえると、食べないで済む。


『――みえる。きこえる。

 すこし、うたえる。』


 空亡が、歌の形を思い出した。

 歌は命令ではない。

 歌は、休符で呼吸する。


「返礼を」


 リュミエールは鈴を鳴らさずに振り、胸の内で二音。

 カナタは砂を薄く敷き、空の目の周りに『薄い傘』の影をわずかに広げる。

 傘は弾かない。やわらげる。

 やわらげられた目は、焦らない。


『もっと、みる。

 ――みらせて。』


 危うい言葉。

 “見させて”は、列に近い。

 列は命令に似る。

 命令は、町に似合わない。


「順序」


 カナタの声が杭になる。

 嫌いは杭。杭は道。道は未来。

 未来は、名にできる。


「“見る”は先じゃない。座るが先」


『……すわる、が、さき。

 なら、みる。』


 “なら”が、もう一つ生まれた。

 “なら”は橋だ。

 橋は、落ちない。



 そのとき、灯台の石が鳴った。

 低く、深く、長く。

 海の底の破れた鐘――《ひかりのしずみ》が、返礼を送る。

 空の目は海の返礼を見る。

 見るから、聞こえる。

 聞こえるから、食べない。


『――ひかり、しずむ。

 しずむひかり、すき。』


 空亡が「好き」を言った。

 好きは、初めての杭になった。

 嫌いは杭。好きも杭。

 杭は道。

 道は未来。

 未来は、名にできる。


「なら、空。

 あなたの“好き”の椅子を、空の畝に置こう」


『いす。』


「座面は《浮き》。脚は《嫌い》。背もたれは《笑いの影》」


『……“ふりむかない”は、らんかん。』


「覚えたね」


 空の畝に、目に見えない椅子が増える。

 椅子が増えると、空は見下ろさない。

 見下ろさない空は、町より少しだけ高い。

 その“少し”が、礼儀。



 風の梯子の上で、紙が一枚、揺れた。

 アオイの返礼紙だ。

 紙は読めない。読まれない。

 座るための紙。

 紙は紙のまま、座り続ける。


 空の目が、紙を見る。

 見るだけ。

 読むのではない。

 読まないから、燃えない。


『かみは、すわる。

 すわるなら、うたえる。』


 空亡の声が、低くなった。

 低さは、昔を踏みつけにしない高さ。

 町が一度だけ、背伸びをやめる。

 やめるのに、縮まない。

 縮まないで、座る。



 それでも、世界は試す。


 北北東の谷――空亡の谷が、影の鈴を二度、返した。

 高さが違う。

 ひとつは今の高さ。

 ひとつは昔の高さ。

 高さがずれると、橋がたわむ。


「合図杭、増設」


「うん。空に一本。海に一本。町に一本」


 カナタが短い《嫌い》を三度置く。

 杭は見えないのに、掴める。

 掴める杭があると、たわみは踊りに変わる。


 リュミエールは星糸で「未来の座」の位置を薄く撫でた。

 未来を“視る”のではない。

 未来に座る場所を、いま薄く温める。

 温めすぎない。未来は“いまの熱”で焦げやすい。


「リュミエール」


「うん、分かってる」


 彼女は星盤の蓋を閉めた。

 未来の映像は使わない。

 未来は、椅子で迎える。



 空の目が、細くなる。

 笑っている。

 笑いは声ではない。

 笑いは、ここに居られる確信の形。


『――わたし、たべない。

 わたし、きく。

 わたし、みる。

 でも、しずまない。』


「しずまない?」


『しずむのは、ひかり。

 わたしは、まばたき。』


 世界中の“瞬き”が、同時に揃うのを、町が聴いた。

 港の水面が一度だけ大きく呼吸し、浅瀬の“下の昼”が長めに瞬いた。

 祠の札の影が、肩から背中に降りて、姿勢を整える。


「空亡。――目を開いたね」


『うん。

 めを、あけた』


 言葉に、幼さが混ざっていた。

 幼さは、弱さではない。

 幼さは、“学べる”の形だ。


「なら、今日はここまで」


『?』


「“開けっぱなし”は、無礼。

 閉じられる日は、開けられる。

 選べることが、だいじょうぶ」


 カナタが『風の梯子』の欄干を撫で、目に見えない戸を引きかける。

 完全には閉めない。

 止めかけ。

 止めかけは、今の形。


『――わかった。

 わたし、まばたきする。』


 空の目が、ゆっくり閉じ、ゆっくり開く。

 そのあいだ、町は息を合わせ、椅子はきしまず、風は礼儀を思い出す。



 朝が来た。

 灯台の旗が逆回りを一度だけして、すぐ順に戻る。

 レトが四音を吹く。二つの間は広い。

 マリーナは蜂蜜少なめの平パンをちぎって子どもに渡し、「噛め、噛め、噛め」。

 アオイは紙束を抱えて、梯子の段に座り、後ろを見ないで手を振った。


 ことのはたの花が開き、空の畝が三本とも薄く光る。

 海の底の破れた鐘が、遠くで笑う。

 北北東の谷が、影の鈴を一音だけ返す。

 すべてが、ひとつの拍で呼吸していた。


「辞典」


「うん」


 祠の前で、老婆が“間の辞典”の新しい頁を受け取る。

 墨の細い字で、今日の名が増える。


『空の目:見る→聞こえる→食べない。まばたきは礼儀』

『座るが先:“見る”の前に椅子。だいじょうぶは場所』

『“なら”の橋:命令からこぼれた選択の合図』

『未来の座:視ないで温める。焦がさない』

『開けっぱなしは無礼:閉じられる日は開けられる』


 老婆は頁を軽く叩く。拍が屋根へ、屋根から港へ、港から浅瀬へ。下の昼がうなずく。

 順序は靴紐。結び直しは日課。



 日中、町は働く。働くのに、急がない。

 急がないのに、止まらない。

 止まらないのに、座れる。

 座れるのに、登らない。

 ――矛盾のようで、拍にとっては当然だ。


 空はときどきまばたきをする。

 するたび、影の鈴が一音だけ返る。

 返る音は、命令に似ない。

 似ない音は、育つ。



 夕刻。

 灯台の上で、二人は並んで座った。

 話さない。

 言葉は、今日は足しすぎないほうがいい。

 見る側も、見られる側も、覚えたてなのだから。


「リュミエール」


「なに」


「夜は嫌い」


「夜は嫌い。――でも、まばたきする夜は少し好き」


「うん。座れる夜」


 二人は同じ高さで笑い、鈴を鳴らさずに振った。

 港の水面が呼吸し、浅瀬の“下の昼”が瞬く。

 海が低く返礼を送り、空が薄くまばたきを返す。

 世界は、生きている。


「明日、“未来の座”をもう一段、温めよう。

 ……視ないで、置く」


「うん。“好き”の椅子も一脚、空へ。

 空亡の“好き”は、杭になる」


「順序、守る」


 夜が来る。

 黒は昨日よりも薄い刺繍で覆われ、刺繍は今日の出来事をなぞる。

 空の目。まばたき。座るが先。ならの橋。未来の座。

 ――どれも、終わりの準備ではなく、続きの礼儀だった。


 夜は嫌い。

 けれど、まばたきする夜は、もう怖くない。

 怖くない夜は、縫える。

 縫えるなら、明日がある。

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