第14話 煙草の煙は心をぼやけさせる

玄関を開けても、家の中は静まり返っている。

健二は……やっぱりいないらしい。部屋着のままソファでゲームしてる姿を想像していたが、その影すらなかった。


「……ふぅ」


靴を脱ぎ、無意識にため息がこぼれる。

リビングの空気は、昼間の熱をまだ閉じ込めていて、外よりもじっとりと重たい。


バッグを椅子に投げ出し、その足でベランダに出た。

夕方の風がまだ少しぬるく、頬を撫でていく。


そこで取り出したのは、新箱のタバコ。

何か普段とは違うことがやりたくなって、帰り道のコンビニで買ってしまった。

別に吸うのは初めてではないが、随分久しぶりだ。


箱を開けると、銀紙に包まれた白い筒が整然と並んでいる。

その均一さが妙に無機質で、逆に心を落ち着けるような気もした。


一本を抜き取り、口にくわえる。

カチリとライターを弾くと、小さな炎が心細げに揺れた。


火を移すと、じゅっと乾いた音が鳴り、先端が赤く染まる。

肺に煙を入れると、すぐに苦みが喉を焼き、胸の奥が熱を持った。


ゆっくりと吐き出した白い煙が、夕方の空に溶けていく。

消えていくさまを見ていると、自分の心のざわめきまで一緒に散っていくような錯覚に包まれた。


だが、次の瞬間に残るのは、煙のにおいとわずかな苦さだけだ。

気持ちが軽くなるわけでも、答えが見つかるわけでもない。


「なにやってんだろう」


自嘲の笑みが漏れる。

普段の自分なら手を伸ばさないはずの箱を握りしめている。

それだけ今日の出来事は、心に重くのしかかっていた。


指先でタバコを軽く弾くと、灰がぽとりと落ちた。

コンクリートの床に散るその欠片は、なんだか自分の心のかけらみたいに見える。


こういう時間タバコでしかできないかもしれないな。

普段なら気恥ずかしい自分を見つめ直す行為も、喫煙している間は何も気にせずできる気がする。


火先が短くなっていくのを見ていると、妙に焦燥感が募った。

吸うたびに減っていく時間を、ただ黙って見ているしかない。


「……結局、俺って何にもできてないよな」


声に出した瞬間、ベランダの空気に吸い込まれて消えていく。

まるで煙と同じだ。

残るのは匂いと苦さだけ――決して甘さはない。


最後の一口を強く吸い込み、肺の奥に押し込んでから、ゆっくり吐き出した。

白い煙が宙に漂い、形を保てずに散っていく。

それを見届けると同時に、指先の赤もじゅっと消えた。


小さな音とともに闇に溶ける光。

その刹那、正寿の胸に広がったのは、妙な空虚さだった。



最後の一口を深く吸い込み、肺の奥に煙を押し込んだ。

しばらく溜めてから、ゆっくりと吐き出す。

白い筋が夜の気配に溶けて消えていくのを見届けると、正寿は小さく息を吐いた。


火のついた先端を灰皿に押し付ける。

じゅっと短い音がして、赤が完全に闇に沈む。

同時に、胸のざわつきもいくらか鎮まった気がした。


「……よし」


自分に聞かせるように呟いて、立ち上がる。

タバコの箱をポケットにしまい込むと、それ以上手を伸ばす気にはならなかった。

一本で十分だ。

今の自分には、これが一区切りになる。


タバコの箱をポケットに押し込み、部屋へ戻ると、リビングは相変わらず静まり返っている。


テレビのリモコンも、健二のスニーカーも、置きっぱなしになった飲みかけの缶も――何一つなかった。


いつも自分が家を空けるときは、しっかり片付けていくんだよな。

綺麗になった部屋は、人の気配が消えた部屋は、こんなにも広く、こんなにも空虚なものなのかと毎回思わされる。


ソファに腰を下ろし、背もたれに沈み込む。

自然と、古野沢梨里の顔が浮かんだ。

あの強がるような笑みも、言葉を失って小さくなった背中も。

彼女の沈黙が、自分の胸にまだ重く居座っている。


「……してないよ」


そう言った彼女の声が、耳の奥で鮮明に蘇る。

後悔なんてしていないと断言できる彼女の強さに、救われたのは自分の方だった。


その強さと脆さの両方を、どう受け止めていいのか。

答えを出せぬまま、天井を見上げる。


静けさの中で、

タバコのにおいだけがまだ漂っていた。

ソファに沈み込み、ただ天井を見上げていた。

時計の針の音だけが、やけに耳につく。


スマホはテーブルの上に置いたまま。

画面を点ける気にもならなかった。通知の光が一度だけ点滅したが、指先は動かない。

誰とも話したくなかった。声を交わした瞬間に、さっきの光景がまた蘇ってしまう気がしたから。


テレビもつけない。

部屋の中は静かで、外を走る車の音だけが遠くで響いている。

音のない空間は、広いはずなのに、妙に狭く感じた。


目を閉じれば、古野沢さんの強がった笑顔と、桃子さんの震える指先が交互に浮かんでくる。

どちらも忘れようとしても、簡単に頭から追い出せるものではない。


眠れる気がしない。ベッドに入ったところで、きっとまた目を閉じた途端に彼女たちの顔が浮かんでくる。

じゃあ、このまま朝までこうしているのか。

ソファに沈み、ただ考え、何もできずに夜を過ごすのか。


「……情けねえな」


笑うでもなく、吐き捨てるように呟く。

けれど、その言葉に反論する気力はなかった。


窓の外を見れば、遠くで走る車のライトが一瞬だけ部屋を横切り、また消える。

その光の移ろいに合わせるように、自分の思考も浮かんでは消えていった。


気づけば何も考えない時間が流れ、ただ呼吸の音だけがやけに大きく響いている。

誰とも話さず、一人で黙って過ごす夜。

それが、今日という日の締めくくりになっていた。

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