第8話 自由への欲求

翌朝。

眠りは浅く、何度も目を覚ましたせいで体が重い。

けれど、会社は待ってくれない。


エントランスの自動ドアが開いた瞬間、蛍光灯の白々しい光に昨日の夜の記憶が逆流してくる。


ギャルとの再会、バーでの惨劇、駅でまさかの遭遇、同居人の炒飯と裸エプロン。


夢だったんじゃないかと思うほど、全部が現実感を失っていた。


どうか夢であってくれとさえ思う。


「せーんぱい!おはようございます♪」


既にキャパオーバーな俺に関係なく、背後から軽い調子の声が飛んでくる。

うちの会社の元気印、宮沢 恵美だ。


相変わらず彼女が話しかけている時は、周りの男性社員からの刺さるような視線が痛い。


黒髪のショートヘアで、ぱっちりとした丸い目で、人懐っこさを感じさせる。笑うとタレ目っぽくなって可愛さはまず小動物フェイス。


少しきつそうなブラウスやカーディガン。胸元がつい強調されてしまうタイプで、本人はそこまで意識していないが、男たちは悩殺されている。


さらに、天真爛漫で甘え上手で人懐っこいという理想的な後輩像を体現している。

彼女の人気は必然なのかもしれない。

今や正統派美人の安藤さんもあわせて、うちの会社の人気女子社員2トップだ。


彼女が入社して1年。

研修を終えてから同じチームになり、関わることが多くなり、ずっとこの調子だからさすがに慣れたけど。


「朝から元気すぎるって、宮沢さん」

「先輩がテンション低いだけですって」


悪びれもなく笑って、彼女は俺の横をすり抜けてエレベーターのボタンを押す。

振り返った笑顔が、反射的に眩しく見えてしまう。


……元気印、か。

こういう子が職場に一人いるだけで、空気が良くなるんだよな。


「よーし今日も頑張りましょう!」


……いや、実際に元気になってるのかもしれない。

この底抜けの明るさを目の当たりにすると、心が少しだけ軽くなる気がする。


「朝からテンション高すぎると周りに迷惑だよ」

「えー、でも先輩。会社って暗いより明るい方が良くないですか?」

「正論すぎて返せねぇ……」


エレベーターが到着し、俺たちは中に乗り込んだ。


昼休み。

例によって俺は宮沢さんと机を挟んでいた。


今日は外に行ってるのか、安藤さんとは顔を合わせていない。

久しぶりに平穏に過ごしている気がする。

例によって俺は宮沢さんと机を挟んでいた。


「先輩、それ何弁当ですか?」

「コンビニのチキン南蛮」

「またですか!偏ってますよ、栄養!」

「放っとけ」


ご飯にチキン南蛮にたくあん。最高だろうが。

そのはずなのに、宮沢さんのお気に召さなかったようで、文句を言いながら、彼女は自分の弁当に入っていた卵焼きを差し出してくる。


「なんですのん?」

「食べてください!」

「なんで?」

「栄養補給です!先輩の弁当バランス終わってるじゃないですか!黄色と茶色しかないんですよ?」

「卵焼きも黄色なのでは……」

「細かいことは気にしない!」


仕方なく、チキン南蛮の横に置かれた卵焼きを口に入れた。

ほんのり甘いたまごの中にほうれん草が入っている。甘さとしょっぱさのバランスが絶妙だ。

これは……


「……うまいな」

「でしょ!」

「自分で作ったのか?」

「もちろん!私、料理得意なんです!」


フフンと得意げに語る。

確かにこの腕前であれば、得意と言われても反論の余地がない。

今すぐ嫁に行ってもなにも問題ないだろう。


得意げに笑う宮沢さんを前に、なんとなく言葉が止まる。


女性の目線からはどう思うか、客観的な意見がしりたい。

そんな考えからか、気づけば口が勝手に動いていた。


「なぁ、宮沢さん」

「はい?」

「浮気って、どう思う?」

「したんですか?されたんですか」

「してもされてもない!」


浮気について聞かれた時のテンプレートでもあんのか。

冷ややかな目線を送ってくる宮沢さんに、真っ向から否定する


「……で、宮沢さんはどう思うんだ?」

「私は絶対許せないですね!」


即答だった。

顔には笑みがあるのに、言葉はきっぱりと鋭い。


「だって浮気って、好きって言ってくれた気持ちを裏切ることでしょ? それやられたら、もう一緒にいられないです」

「……なるほど」

「でもまぁ……」


と、いかにも純粋でまっすぐな意見を言った後、彼女は少し視線を落とす。


「人によっては、好きすぎて許しちゃう人もいるんだろうなって思います」


小声で呟いたその一言に、胸の奥がわずかにざわつく。

健二の言ってた“損したと思った時点で負け”と、どこか通じてる気がしたからだ。


「でも私は絶対イヤですけどね!あとあれです、

“バレなきゃいい”とか言う人いますけど、私は無理ですね」


「無理?」


「だって、バレなきゃいいって、それもう相手を“バカにしてる”じゃないですか。そういうの一番ムカつきます」


彼女の言葉はシンプルだが、真正面からの拒絶だった。

健二の「欲だから仕方ない」という達観とも違う。

「相手を大事にしてないから許せない」――その一点に尽きる。


「なるほど、すごい参考になった。ありがとう」

「何ですか、参考って。やっぱり先輩、浮気してるなんですか?」

「してねぇって、知り合いがちょっとさ……」

「言い訳にしか聞こえないんですけど〜、怪しい〜」


無邪気に笑う宮沢さんを見て、さっきまで胸に絡みついていた重さが、少しだけ和らいでいく。


……健二の屁理屈も、宮沢さんの正論も、どっちも本当なんだろう。


人間そんなに真面目に生きていないし、相手のことを考えない奴もごまんといる。してはいけないことをしてしまう。そんな矛盾の中で揺れてるんだ。


その揺れからは、なかなか逃げられそうにない。


「じゃあ、今は彼女いないんですか?」


宮沢さんはお弁当箱のふたを閉じながら、わざとらしく首をかしげる。


「……いない」

「ほんとに?」

「ほんとに」


じっと見つめられる。

からかってるんだろうけど、その目はどこか探るようでもある。


「へぇ〜、意外ですね」

「意外ってなんだよ」

「だって先輩、優しいし頼りがいあるし。普通にモテそうなのに」


なんで、そんなに評価が高いのだろうと一瞬思ったが、これあれだな、占いと一緒でなんとなく誰にでも当てはまるようなこと言ってるだけだな。


お世辞で言ってくれているのだろう。

優しい子だ。


「買いかぶりすぎだ。それでモテたら苦労しないって」


言いながら、視線を逸らす。

ほんの少しだけ、胸の奥を突かれる感覚があった

まだ、恋愛の話で矛が自分に向くと、心が苦しくなる。


「まぁ、でも安心しました」

「何がだよ」

「だって彼女いるのに、浮気について調査してたら、めちゃくちゃ怪しいですもん」

「調査ってなんだよ」

「ふふっ、なんでもないです」


彼女はまた、子どもみたいに笑った。

その明るさに、昨日の夜のざらついた記憶がほんの少しだけ遠ざかっていく。


「さぁさぁ、じゃあ午後も頑張りましょー!」


えいえいおー!と拳を掲げた。

あんまり、1人でやらんだろ、それ。

かといって、一緒にやりましょうとか言われたら困るし、絶対に嫌だけど。



退勤のチャイムが鳴る。

いつもなら「やっと終わった」と肩の力が抜けるはずなのに、今日は妙に疲労感が重い。


昨日の疲れが抜けきれず、1日を過ごしてしまった。

唯一の救いは、安藤さんと顔を合わせなかったことぐらいか。


帰り道、涼しさが心地よくなってきた。

電車に揺られ、最寄り駅を出て歩き出したところで、ポケットの中のスマホが震えた。


画面を見て、思わず足が止まる。

──古野沢 梨里。


「どうした?」


無視してしまうと、あとで何が待っているか怖いので、とりあえず応答する。


『あ、証人さん?今大丈夫?』

「今仕事終わって帰るところだけど……」

『そう…。よかったよかった』

「なんだよ、よかったよかったって」

『え、だって証人さん、社会人だから忙しいでしょ。つかまんないかなーって思って』

「つかまえなくていいだろ。俺、虫じゃないんだから」

『なによ、それ』


電話口で小さく笑う声が聞こえる。

けれど、その後に少し間があった。


『ねえ、今から会えない?』

「……会う?」

『うん。ちょっと話したいことあんの』


からかう調子でも、勢い任せのノリでもない。

妙に落ち着いたトーンに、俺は眉をひそめた。


「場所は?」

『駅前のカフェ。まだ開いてるとこあるから』

「……わかった」


通話を切ると、どっとため息が漏れる。

昨日の今日で何を話すつもりだ。

けれど――行かないという選択肢は、俺にはなかった。


指定されたカフェにつ着くと、

テーブル席に一際目立った金髪少女がすぐ目についた。


その美貌からは、

「あの子可愛くね?」

「一人かな、声かけてみる?」


などと、暇を持て余したであろう大学生たちが、ちらちらと見ている。


──君たちやめときなさい。鼻が曲がっってしまうよ。雀荘にでも行っておきなさい。


と言いたくはなるが、

完全にやばい人になってしまうので、その横を通り過ぎて、彼女のもとへ行く。


「来たのね」

「君が呼び出したんだろ……」


彼女の正面に腰を下ろすと、すでに頼んでいたらしい半分に減ったアイスティーのグラスを、ストローでくるくる回していた。


少し待たせてしまったかもしれないが、仕事だったので許して欲しい。


今日の古野沢さんは何かが違う。

見た目はギャルだが、ギャルっぽい軽さはなく、視線はテーブルに落ちている。


昨日はお酒も入っていたし、印象が変わるのは当たり前ではあるか。

とりあえず、コーヒーを頼んで話を聞くとしよう。



「で、話って?」

「……桃子さんに会う日、決まった」

「もう?早くね?」

「次の土曜。14時に中央駅にレストっていうカフェで集合だって」


俺の反応はスルーされて、場所と日時だけ業務的に伝えられた。

中央駅だったらここから1駅だな。


それにしても、昨日の今日でずいぶんと早い。

響子さんが速攻で動いてくれたのだろう。

さすが、見た目通りデキる女って感じがする。


「一応聞くけど、予定空いてるよね?」

「大丈夫、開けとく」


断る返事を許さない圧みたいなものを感じる。

俺が首を横に振る未来は、どうしても想像できなかった。


「よかった。じゃ、決まりね」


古野沢さんはようやくストローを口に咥え、アイスティーをひと口。そのタイミングで俺のコーヒーも運ばれてきた。


横顔に妙な緊張が走っているのがわかる。

桃子さんに事実を突きつけることの重さを自覚しているのだろう。

それでも踏み出そうとしている。


俺にできることはあるのだろうか。

巻き込まれた身ではあるが、自分の正しいと思うことを逃げずにやろうとしている彼女をサポートしたい。


運ばれてきたコーヒを一口飲んで落ち着く。


「……なぁ」


一息ついて切り出したはずなのに、喉のなにか張り付いている感覚がある。

コーヒーでは喉の渇きはとれなかったみたいだ。


「俺は当日、何をすればいい?」


変に我を出して場をかき回すのが一番の悪手なのはわかってる。

ただ、念の為になにか俺にできることがあるか聞いておきたかった。


古野沢さんは、ストローを口から外してこちらを見る。

その瞳は、思った以上に真剣だった。


「証人さんは、そこにいるだけでいいの。あたしが桃子さんに言う。そのとき、ちゃんと“見てた人”がいるって証明になるから」


「……そうか」


ただいるだけ。

けど、それは“逃げないで一緒に立ち会う”ってことだ。

大げさかもしれないが、妙に重たい役目に思える。


「安心した」


古野沢さんが、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「一人だったら怖くて死ぬかと思ってた」


思わず、胸が詰まった。

ギャルっぽい外見の裏にある、等身大の弱さがにじみ出ていた。


目元はアイラインできっちり縁取られているのに、その奥は不安げに泳ぎ、時折こちらにすがるように視線をよこす。


──そりゃ、怖いよな。


強がって笑っていても、心臓が喉から飛び出しそうなくらい緊張していてもおかしくない。

桃子さんに真実を突きつけることが、どれほど重いことか分かっているから。


俺の胸の奥まで、その震えが伝染してくる。

呼吸が浅くなって、自分まで一緒に緊張しているのが嫌でもわかる。


普通なら、黙ってればいい。他人のことなんか知ったこっちゃない。となる人も多いだろう。

こんなこと伝えてもしょうがない。となっても仕方ない、気持ちはわかる。


だけど、彼女は踏み出すのだ。


健二が言っていた、

『浮気されたやつが“自分は損した”って思うから余計辛ぇんだよ。別に人としてのの価値が下がったわけじゃないだろ?悪いのは裏切ったやつで、被害者が負けたみたいな顔するの、なんか違うだろ』


宮沢さんが言っっていた、

『だって、バレなきゃいいって、それもう相手を“バカにしてる”じゃないですか。そういうの一番ムカつきます』


二人の言葉は、浮気が間違いなく悪だということ再認識させくれた。


宮沢さんがもう一つ言っていた『好きだったら許す人もいる』というのも、確かにそういう人もいるかもしれない。


ただ、許すというのは相手の浮気を知ったうえで、許すか許さないか決めるという話で、知らなければそれさえもできないのだ。


今はあの鼻曲がりくんが自分の欲望のまま、好き勝手にやって、桃子さんも傷つけようとして、さらには古野沢さんも傷つけようとした。


結果的に、

シャイニング・ウィザードを食らうという天罰は下りているが、別に許されたわけではない。

許すかどうかを決めるのは、神様じゃない。桃子さんだからだ。


桃子さんがどういった選択肢をとるかは分からない。

ただ、この事実を知る権利はある。


もしかしたら、知りたくない事実なのかもしれない。

だけど、浮気を知らない状態でも、ステイルで人目もはばからず、彼女は泣いていたのだ。

溜まっているものが、相当あったとしか考えられない。


鼻曲がりくんに対し、他の女性の影を感じて、不安になっているのも、浮気をしていてほしくない気持ちがあるからだ。


伝えることで、悩んでいる桃子さんの助けになるのなら、俺はできることはやるたい。


「まぁあれだ、できる限りサポートはする。だから、あんまり気負いすぎるなよ」

「……ありがとう……ちょっと楽になった」


古野沢さんが、ほんの少しだけ表情を緩めた。

俺の薄いフォローでさえ、助けになるなら今は御の字だ。


ふと上を見て、頭を冷静にする。

不安はもちろんあるが、考えてももう無駄だ。


──決戦の日は近い。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る