カオス・シンギュラリティ

岩井ヨルアキ

第一章 そして少女は、黄金の夢を見る

  ①


 焼け焦げた背景。熱を持った瓦礫。そして黄金。

 周りには誰もいない。血と、肉が、焼けたようなにおいがするだけ。

 残ったのは黄金を纏った自分だけだった。この灼熱の風景にただ一人、自分だけが残った。

 いや、違った。

 もう一人残っていた。自分とは違う。おとこのこが一人、残っていた。

 よかった。

 あなたはのこってくれたんだね。

 あなたがいなくならないでよかった。

 あなたは、すごくだいじなひとだから。

 左手に映し出されている黄金の紋章。その手を伸ばそうとした。

 しかし。

『近づくな! 化け物‼』


「ッ!」

 バッ、と目を覚ました少女。アリアス・セイラス。

(またあの夢……)

 四月四日。

 この春の時期になると見てしまうあの夢には辟易へきえきする。決まって最後はあの言葉で締められ、そして目覚める。心臓は痛い程鼓動し、寝汗が付きまとっている。

 しかし体内時計はその実、正確であるようで、もう起きる時間でもあった。

 アリアスは気分を変える意味でもカーテンを開ける。

 太陽は既に昇り始め、イギリスのランディルを照らし始めていた。

 その都市の一角にある、少し大きな一軒家。そこでアリアスは同居人と一緒に暮らしている。

 窓を開けて、気分を変えるために空を見上げながら軽く伸び、深呼吸。

 整った顔立ちと、出る所は出て、締まるところは締まっている理想的な体型、腰まで伸びている艶のある栗色ブルネットの長髪は、朝日が差し込むことで更に彼女を魅力的に映していた。

 アリアスはクローゼットから制服を取り出し、素早く着替えに入る。

 水色と紺が混ざり合った上着、そしてスカートを着用して、

(ええっと……あった!)

 先日なんとなく買ったシルバーのブローチを付ける。

 その後下の階に降りて、ダイニングルームのキッチンに移動。冷蔵庫から野菜と、昨日作っておいたゆで卵を取り出し、簡単にカット。

 皿にカットした野菜とたまごを盛りつけ、軽くドレッシングを振るう。ちょうどよくチンッ、とトースターから焼き上がった食パンが飛び出てきた。

「よし」

 手短に作った簡単な朝食だが、こんなものだろう。机に出来立ての料理を並べる。

 次に、家の同居人の部屋へ向かった。その人はよく夜更かしをする。だから朝は目覚めが悪い。そして二度寝したがる。

「ディアキ、朝ですよ」

 勝手知ったるその部屋に、ノックせずに入る。そして、部屋のベッドで未だ寝ている少年の名を呼んだ。

「ディアキ、朝食が出来てますから、冷めないうちに食べてほしいのですけど……」

 すやすやと寝息を立てている彼の肩を、アリアスは揺する。

「んぁ……んぉおお……おはよー……」

 孤児院からの幼なじみ、ディアキ・スライグ。青みがかかったような黒髪を揺らし、半覚醒状態となって、彼はノロノロと起き上がった。

「ほら、簡単ですけど朝食が出来てますよ」

「ぁああ、着替えたらすぐに行くー……」

「って言って大体二度寝するじゃないですか。私の言葉ちゃんと聞こえてます?」

「聞こえてる、聞こえてるー……」

「……、」

 立ち上がりはしたが、ここで自分が部屋を後にすれば彼は絶対に二度寝するだろう。

「ふふっ」

 そんないつもの同居人に対し笑みを浮かべてしまう。

「そうだ、ディアキ。私、試してみたいことがあるんです」

「んぁ?」

 コクンコクンと舵を切っている彼の手を引いてベッドから少し遠ざけ、アリアスはベッドとディアキに間の位置に移動する。

「ディアキ」

 手を伸ばす。そのまま。

 片腕と、襟首をつかみ、背負い投げ!

「起きなさい!」

「おぼぐはぁ⁉」

 ディアキ、起床。


  ◆


「おかしいだろ。なんで二度寝対策が背負い投げなんだよ。むしろ二度寝チャレンジだろ」

 朝食を摂り、学校までの通学路を二人は歩いていた。ディアキは今朝の待遇について未だ不満のよう。

「まだ言いますか。ちゃんと起きないディアキが悪いんでしょう? それにベッドがある方へ投げたじゃないですか」

「そんなことで大丈夫判定されてたまるか。あと恐怖。半分寝てる状態であんな勢いあることされるのは純粋に恐怖だよ」

 ぼやくディアキの声を、アリアスは聞き流す。

 ランディルは、イギリスを構成する構成国の一つ、ウェールズの西南端に位置する都市である。

 十九世紀頃に石炭の輸出港で繁栄し、現在でも工業都市として発展している。

 一方で、古代の建造物も大切に保存されており、街並みの中心は美しい草原と古城が広がり、観光スポットにもなっていた。

 アリアスとディアキがこの都市で二人で一緒に暮らすようになってから、約二年が経過している。

 元々二人は孤児院住まいだったが、ある人物が二人を引き取り、後見人になるという話がきた。

 アリアスたちは会ったこともなければ、会話したこともない正体不明の足長おじさん。その人は養育費という名の莫大な財産を提示してきたのだ。

 無論怪しいと思ったが、後見人と被保護者間の契約書類にはアリアスたちの立場を極力尊重するような有利条件が記載されていた。また有事の際には顧問弁護士が割って入れるように締結されている。こちらもアリアス側の完璧な味方として。

 何かを要求することもなく、そのまま二人が成人すれば後見人の契約を切っても構わないという。しかも資産は置いてくれた状態で。

 あまりにも良いことづくしな条件だったため、結局アリアスたちはその足長おじさんと一度も顔合わせをすることもなく、そのまま引き取られ、ランディルに引っ越すこととなった。

 ついでに孤児院にいた頃の勉学は通信講座であったが、引っ越しと同時に転入という形で学校へ直接通うことにもなった。

 それが約二年前の話。

 アリアスたちの家から学校へ向けて少し歩くと、同じデザインの住宅建築が並ぶ、所謂テラスハウス街へと入る。

 そこを通り抜けると、学校や裁判所がある行政地区だ。住宅や店などの密集した建物が少なくなり、視界が開ける。青天が気持ちよく吹き抜けていた。

 やがてアリアスたちの通う学校が見えてくる。やや古びた見た目の、良く言えば歴史を感じるほどの奥ゆかしさを感じる校舎が。

「ランディル・セカンダリースクール」。通称「ランディルスクール」

 セカンダリースクールとは中学校という意味で、十一歳から、十六歳までが通う教育施設だ。

 アリアスたちの学年は今年で卒業であり、その期間もあと四ヶ月程。

 だが、卒業後もアリアスとディアキ、あと多くのクラスメイトは、ランディル・セカンダリースクールに附属している高等教育のシックス・フォーム・カレッジに進学することになっているので、そんなに感慨深くもなっていない。

 強いて言うなら、今アリアスが着用してる水色と紺の制服が着れなくなることか。アリアスはこの制服のデザインが気に入っていたので、そこは少し残念である。

 校舎が近づき、アリアスたちと同じように制服を着た生徒たちが周りに集まってきた。

 チラチラと、周りの学生たちはアリアスに時折視線を向けている。もう一年以上は見てきた同級生たちも、一回はこっちを振り向いてしまう。それくらい彼女の容姿は魅力的なのだろう。

 だが当のアリアスはその状況にまったく気づいていない。

 注目を浴びていると伝えても「そんなことないでしょう」と笑って返すだけ。

 その笑みでさえ、多くの男性の心を射止めてしまうことを彼女は知らない。

「見てくださいディアキ。ミーミルがまた何かやってますよ」

 校門を抜け、その先の校舎の玄関前。小さな噴水と、簡易的な花壇が周囲に添えられているその場所には。

 生徒たちにとっては、見慣れたモノが浮かんでいた。

 水。

 水が浮かんでいる。

 しかもクマのような可愛らしいマスコットの形にかたどられていた。

 水のクマは周りにいる数人の女子高生たちを眺めるように、首を左右に回して、愛くるしく手を振ってくる。途端に黄色い声援が送られてきた。

「まだまだいくよー! 是非見ていってねー!」

 ミーミル・ルーフェ。アリアスとディアキと同じクラスであり、友人でもある。

 アリアスとは対照的に活発そうな短髪。制服をやや着崩して着用するのが、彼女のスタイルである。

 水のクマから少し離れた場所にいるミーミルは、両手を広げ。

 その手から、水が現れた。

 現れた水は集合し、形を変え、今度は猫のようなマスコットに。

 ミーミルは更に水を出現させ、犬を。次にライオン。トラ。

 やがて可愛らしい小さな水の動物たちが、生徒たちの前に溢れかえる。

「あいかわらず器用だな」

 ディアキはその光景に対し、特に驚いた様子はない。彼だけではない。ミーミルが平然と行っているその事象に、興味本位で立ち止まって見ることはあっても、大きく驚愕する人はここにはいない。

ESPイーエスピー』。

 それは彼女の持っている『異能』の総称であった。そしてESPを身に宿した人間は『ESP使い』と呼称される。

 ミーミルのように『水』を操るESPもあれば、炎や風、あるいは概念すら操るものもあるらしい。

 世界人口から見たらごく一握りの数ではあるが、世界中にESP使いは存在する。そしてアリアスが通う学校にも、ミーミルを除いてもう一人、ESP使いが在籍しているらしい。

 女子生徒たちを中心に、受けのいい声援を貰うミーミルを見て、アリアスは和やかに笑う。

「あいかわずサービス精神旺盛ですよね」

「でもまた教師たちに小言言われるぞ」

「また貴様かルーフェー!」

 そんなことを言ってる間に当の教師が現れた。ここ最近は問題児たちにより、余計な心労と眼の下の隈を増やすことになった不良系熱血教師グランが。

「ゲ、まず」

 ミーミルは全速力で向かってくる教員の声を聞くと、途端に水の動物たちを限りなく上空に上げていった。

 ぱんっ!

 両手を合わせると空に上がっていった動物たちは勢いよく弾け、霧を発生、グランの視界は奪われた。

「ぬおっ⁉」

 霧はすぐに晴れたが、その一瞬の間にミーミルは姿を消えていた。

 おぉー。パチパチパチパチ。

 顛末を見ていた周りの生徒たちはマジックでも見せられたかのように関心すると、教師であるグランがいるにも関わらず、拍手をしたり褒め称えたりしている。

 グランは諦めたのか、肩を落として走ってきた道を引き返す。

「ホント器用だな。しかしアイツ大丈夫か? ESPの使い過ぎで中退とかにならなきゃいいが」

「ミーミルは直接人に迷惑かけているわけじゃありませんし、その辺りは大丈夫なんじゃないですか?」

「でもねぇ、反省文とかレポートとか書かされるんだよ」

「うぉっ!」

 ディアキとアリアスの間に、ミーミルは何事も無いように並んでいた。

「ミーミル、驚かさないでくださいよ」

「や、おふたりさん」

「動物つくったり、霧を発生させて目くらましとか、また一段と腕をあげたな」

「えへへへ、日々精進してるからねー。さ、教室に向かいましょー!」

 ウキウキ気分で歩き出すミーミルの肩にポンっ、と手の平が置かれる。

「ん? どうしたの、アリア、ス……」

「ルーフェ。再三私は忠告したんだがな」

 その手の先には、先程の不良系熱血教師が青筋をたてながらも笑顔を浮かべていた。

「な、なぜ。引き返したはずじゃ」

「私も、日々精進するハメになったもんだから。変な知恵がついたんだよ。一度引き返すフリをすればノコノコ顔を出すと思ったんだ、コンガキャァアー!」

「いやぁあー! 本性出てるぅうー!」

「ククク、貴様の大好きな職員室に連れてってやる。セイラス、ホームルームは少し遅れるぞ」

「え、あ、はい。わかりました」

「助けてぇえー! いいのかぁあー⁉ ホームルームが遅れるぞぉおー!」

 乞うているのか、脅しているのか。そんなミーミルが引きずられて行くのを、ディアキは傍目で見ながら、

「グランも大変だな……」

 呟く。それが耳に入ったのか、グランはミーミルの後ろ首を掴みながら眼の下の隈を大きく広げて、今度はディアキを射抜いた。

「時にスライグ、私が出しておいた課題はやってきたんだろうな?」

「あ」

 グランの顔が器用にも笑顔のまま歪む。ディアキもまた、問題児の一人なのである。

「まぁいい、どうせ後でお前の為に暇をつくってやろうと思っていた。楽しみに待ってろよ」

「待ってくれ! レポートだろ! わかってるよ! 時間までには終わらせとくから!」

「貴様のことだから適当なこと書いて出しただけにするんだろうが。その場で採点してやるからな、ククク……」

 そして今度こそ引き返していく。ミーミルを引きずりながら。

「何なんだよアイツ!」

「自業自得です」

 チャイムが鳴り響いた。


  ②


 昼休憩。教材用のタブレット端末とキーボードを借りて、空き教室で今日中に提出するレポートに悩むディアキ。隣にはミーミルが反省文を書いており、アリアスは二人を見守っている。ちなみに昼食はサンドイッチで軽く済ませた。

「『適当なことを書くのは許さん』って言いながらテーマがざっくばらんとし過ぎなんだよ! 何だよ〝ESPイーエスピーについて〟って!」

「グラン先生はわざとテーマを曖昧にしたんですよ。方向性自体はディアキのやりたいように。結構ギリギリの妥協点ですよ」

「でも、ESPってよくわかってないんだろ、ぶっちゃけ」 

 科学が発達した現代でも未だESPについて何の解明も出来ていない。

 そもそもの出生率もかなり低く、また同じ系統のESPでも人によって強弱があるなどの違いもある。

 そしてその理由に血筋や遺伝的なものは全くなく、出自すら未だ不明である。

「ミーミル、ESP使いとしてなんかないのかよ?」

「えー、そんなのないよ。うぅ、前回の反省文を書いた時にコピペ編集がバレたから、同じ手は通用しないし。こっちも何書けばいいのか。助けてアリアスぅ」

「私、反省文書いたことないですから、戦力外ですよ」

 離席しようと、アリアスは席を立つ。

「どこへ行くつもりだ。オレたちの課題が完成するまで、オマエも離脱することは許されないんだぞ!」

「そーだそーだ!」

「すごい理不尽な話ですね……。すぐ戻りますよ」


 そうしてアリアスが向かったのは手洗い場だった。しかし、用を足すわけでもなく、鏡の前で自分とにらめっこしている。

「うーん」

 シルバーのブローチを付けた自分の格好を、色んな角度で見つめてみて。

「似合っていないんでしょうか?」

 つい先日、たまたま雑貨商で見つけたブローチ。 

 手頃な値段で、可愛らしく丸みのあるデザインだったので思い切って購入した。

 そして今日付けてみたのだが、ディアキもミーミルも特に言及はない。割とセンスには自信があったので、無反応なのが少し寂しかった。

 鏡と数秒立ち合い、ため息。

(私が気に入っているから、別にいいんですけど)

 なんか一言欲しかった感じはする。

 手洗い場を後にして、二人が待っている空き教室へ戻るために移動していると、

「アリアス・セイラスさん!」

 突然大きな声で誰かに呼び止められた。

「はい?」

 声の主は同じ学年のレイバウ。ハンドボールクラブのエースであり、この学校では有名人である。

 女子受けする茶髪の爽やかなイケメンで、体格もガッシリとしている。フィールドに立てば鬼気迫る勢いでゴールに剛速球を放ち、チームを勝利に導いてきた。

 そんな彼が、アリアスに熱烈な視線を向けている。

「私に何か用でしょうか?」

「率直に言おう、付き合ってくれ!」

「はい⁉」

 鬼気迫る勢いで。

「いや、なんでですか⁉」

「君を愛しているんだ!」

「無理です!」

「なぜだ!」

「いやいやいや! 私、貴方のことは名前くらいしか知りませんし!」

「僕はファンクラブにだって入っているぞ!」

「ファンクラブ⁉」

 まず自分のファンクラブが出来ているのか⁉

「ちょっと待ったぁあー!」

「なんか面白い話してるよねぇ!」

 どこからともなくディアキとミーミルが、この場所が廊下であるにも関わらずダッシュで割り込んでくる。

「君たちはアリアスファンクラブの親衛隊!」

「そんなポジションだったんですか⁉」

 ビシィ! という擬音が似合いそうな勢いでディアキはレイバウを指差す。

「レイバウ! アンタとアリアスを付き合わせるわけにはいかない!」

「なんだと⁉ 同棲しているからってそんなこと言える立場なのか君は!」

「当たり前だ! アンタにアリアスはやらない。オレにはコイツが必要なんだ!」

「なに?」

「ちょっ、ディアキ⁉」

 それはディアキにしては珍しい、かなり真剣な表情での台詞だった。

 顔の温度が上昇していくのを感じる。

 そして小さい頃からの付き合いだからこそわかる。ディアキはいつになく真剣だと。その眼はまるで「離さない」と言うようにアリアスを捉え、

「アリアス!」

「は、はい⁉」

「レポートが片付かない、助けて!」

「「……、」」

 一気に冷めた。ついでに聞いてみる。

「ちなみに二人ともレポートや反省分は結局どうなったんですか」

「「三行までは書けた」」

「感想文にすらなりませんよ……」

 レイバウはディアキに対し、指を差し返す。

「はっきりしたなディアキくん。僕ならアリアスさんを困らせるようなことはしない!」

 ディアキは負けじと。

「残念だったな! アリアスはちょっと世話が焼けるくらいの男が好みなんだよ!」

「リアルにありそうな誤解を招かないでください」

 そこへミーミルが、「ふっ、なるほど。おーけーおーけー。二人とも落ち着きたまえ」とディアキとレイバウの間に入り込んだ。

「二人の気持ちはよぉーくわかったよ。だけどここでアリアスに答えを強要するのはよくない。アリアスだって答えづらいだろうしね」

「いえ、さっきお断りしましたけど」

「ならば!」

「聞こえてます?」

「二人にはアリアスと付き合う権利と学校生活を賭けて対決してもらおう!」


  ◆


《というわけで、始まりました! アリアス・セイラスと付き合うのは誰だ⁉ 大観衆の前でドッチボール対決ぅ!》

『うぉおおおおーー‼』

 あれよあれよと時間と噂は流れ、放課後の体育館。多くの生徒たちが集まり、入りきれなかった人たちも体育館の外や教室でカメラ配信を見ながら、SNSのコメントを盛り上がらせている。

 それ程の人数が注目しているその中心に、ディアキとレイバウは立っていた。

(なんでこんなことに……)

 実況席という、コートの次に目立ちそうな場所で座らされているアリアスは、思わず手で顔を覆う。まさか自分が原因で、こんなお祭り騒ぎが発生するとは。しかもほぼ全校生徒に知られてしまった。

《司会を務めますのはワタクシ、アリアスの大親友ミーミル・ルーフェでございます》

 隣でマイク片手にポーズを決めて盛り上がっている元凶。

《解説には非常勤のイケメン教師レンリー先生をお迎えしております!》

《フフフ、面白い試合を期待している》

《さらにおまけとしてグラン先生も椅子に張り付けの状態で来てくれました!》

《こんなバカ騒ぎしている場合か貴様ら! 課題はどうした課題は⁉ 何をしているレンリー先生! この縄をほどけ!》

《さぁ、そしてフィールドに立ち、アリアスとのお付き合い権を争うのはこの二人! 一人は英国のスポーツ界を担っていく将来の天才、レイバウ!》

『レイバウ様ァア!』

『きゃぁあかっこいいぃーー!』

 主に女子からの沸き上がる黄色い声援。

《そしてもう一人はアリアスと同じ家に住んでいるラッキーボーイ、ディアキ!》

『くたばれぇえーー!』

『変われぇえーー!』

 主に男子からの嫉妬と欲望の声。

 盛り上がりを見せるバカ騒ぎに、アリアスのため息はむなしくも吸収される。 

 フィールドの中央。ディアキとレイバウは互いに睨み合っている。

「ファンクラブの親衛隊とはいえ容赦しないよ。今日でその親衛隊の座も、アリアスさんの隣も、僕のものにさせてもらう!」

「させねよ。オレの食生活と学校生活が終わっちまうからな」

 ルールは普通にドッチボール。

 内野に立つのは互いに一人ずつ、ディアキとレイバウ。どちらかがボールを当てられ、アウトになった時点で当てた人物の勝利。

 そして外野には、二人が呼び込んだ助っ人が立っている。

 ディアキ側に同じクラスであり、アリアスファンクラブの一桁会員ショーン(報酬は、アリアスの寝顔写真)

 レイバウ側に美術のミニスカ教師マリー(好みは、若くて肉体美のある男性)

《フフフ、負ければアリアスと付き合う権利を失うと同時に、明日から生徒全員にその事実を周知されながら学校生活を送っていくわけだな》

《まさに学校晒しものデスゲーム!》

((うわぁ……))

 もはやアリアスとグランは、心の中でドン引きするしかなかった。

 向かい合って中央に立っている二人の間に、ボールを持った生徒が審判として現れる。 

 ゲームはジャンプボールから開幕する。しかし、ボールを掴んだ瞬間即座に投げられると、相手側が避けるスキがあまりにもなさすぎるので(というか興覚めしてしまうので)両者が一度地面に足を着いてから、ボールは投げられるようになる。

《審判も到着しました! それでは両者、準備はよろしいでしょうか!?》

 ディアキ、レイバウは頷き、

《それでは、ゲームスタート!》

 審判がボールを高く舞い上げる。同時、二人も跳躍した。そのジャンプ力は互いにほぼ互角。

 だが、ボールの軌道が中央からやや逸れてしまい、結果。

《ボールを手にしたのかレイバウ! 早くもゲームセットなるか⁉》

「おい! ボールがそっち側に流れたぞ!」

 ディアキは態勢を取りながら抗議する。レイバウはやれやれといった感じで、

「おいおい審判だって人間なんだ。ボールが多少逸れるくらいあるだろう」

《ちなみに審判はハンドボールクラブ副キャプテン、マックスさんです》

「思っきしグルじゃねぇかおいコラァー!」

 怒号が響くが、悲しいかな誰も異を唱えることはなく。そうなればゲームは止めようがない。

 一対一のドッチボールでは、相手のボールを避けるのでは意味がないだろう。外野にボールが渡り、レイバウにボールが戻ってしまう。つまり、彼の剛速球を受け止めるしかない。

「やってみせればいいんだろ!」

 構えるディアキ。

「覚悟はできたか、喰らうがいい!」

 レイバウがその剛腕を振るう。

 そして投げられたボールは、およそ人から放たれる速球ではなく、まるでトラックが突っ込んでくるかのような圧があった。

「っ⁉」

 ディアキは反射的に横に身体を反らして、ギリギリ避けることが出来た。

 バビュン! と、まるで風の砲弾のような衝撃が、横を通り過ぎる。

 そしてその球はマリー教師に近づくにつれ、弱まり、彼女の手にスポッと収まった。

「ちょっと待て⁉ 何だアレは⁉」

 それを見ていた実況席のアリアスは思わず立ち上がる。

《あれはもしかして、『ESP』ですか⁉》

《そうです! レイバウはこの学校に三人といないESP使いの一人なのです!》

「えぇえええー⁉」

《フフフ、なるほどおそらくは『風』のESPか。そのチカラを利用したシュートだったのだな。しかもマリー先生に届く時には減速させるように調整している、と》

《いや、なりふり構わなさすぎるだろう》

 レンリー非常勤教師の解説に、縄を解くのを諦めたグランだけがひっそりと突っ込んだ。

 ボールを取ったマリー教師は「レイバウく~ん、受け取って~」と妙に艶めかしい声で山なりのパスを送った。

 レイバウはボールを受け取る。

「言っただろう、ディアキくん。僕がボールを手にしたら、君に勝ち目はないと」

「いやいやいやさすがにそれはダメだろ!」

「ルール説明の時に『ESPを使ってはいけない』という文言があったかね?」

「スポーツの理念としてアウトだろうが! まさかオマエ、試合でもESPでイカサマを……」

「何をバカなことを。試合ではそんなイカサマができないよう、監視用のデバイスを付けているし。そもそも、そんなスポーツマンシップに反するようなことをするわけないだろう!」

「状況見て喋れてる⁉」

「喰らえ、愛の真心ラブ・シュート!」

 そして放たれる風のチカラを纏ったボール。ディアキはまたも本能に従い、なんとか避ける。 

 そしてマリー教師の手に届く頃にはスポッと収まる。彼女が山なりにボールを投げ、レイバウが受け取る。先程の繰り返しだ。

「ずるい! それでいいのかハンドボールクラブエース! 今のアンタを見て周りはきっと失望しているぞ!」

 周りの反応は、

「きゃぁあー! 風に揺れるレイバウ様カッコイイ!」

「ステキィイーー!」

「やれ! そのESPで奴に制裁を喰らわせろぉおーー!」

「今だけはアンタを応援するぜレイバウさんよぉ!」

 この有様。

《……ここの生徒って、みんなテンション高いですよね》

 もはや一周回って冷静になってくるアリアス。

「なんでこんなろくでなし生徒を放っておいたんだよバカ教師グラァアン!」

《私に八つ当たりするな、ろくでなし生徒の代表がぁ!》

「愛の真心ラブ・シュート!」

「うおっ⁉」

 向ってくるボールが、もはや高速で放たれる鉄球のように思えてきた。

「きゃあ~ん、レイバウ君の風でスカートが翻っちゃう~」

「なに⁉」

『なに⁉』

 ディアキ含めた男子の視線は全てマリー教師へと注がれ、カメラ配信を見ている生徒たちも必死にズームする。

 女子はそんな光景を見て一言。

『けっ』

《レイバウ! 顔です! 顔を狙ってください!》

《あの、アリアス。ドッチボールのルールでは顔に当たるのはセーフ判定なんだよ?》

《だからでしょう⁉ 反則でないのなら、何十発とディアキの顔面にボールを当てても問題ありません!》

《あ、はい》

 マリー教師の投げる山なりのボールは、またもレイバウの元へ戻っていく。

 ディアキは苦し紛れに笑う。

「ふ、今度はオレの集中力を削ぐ作戦か。やるじゃねぇか」

「いやそんな作戦はっ、ないっ!」

 言いながら、レイバウはまたも風のチカラを乗せたボールを投げる。

「甘い! どれだけ速くても軌道が読めれば!」

 ディアキは私生活に置いて普段使うことのない並外れた動体視力で、ボールの弾道から外れてみせる。しかし、レイバウは笑みを浮かべていた。

 ボールはやや不可思議な程にカーブを描き、軌道を変えてディアキの方へ襲い掛かってきた。

「っ⁉」

 ディアキは咄嗟に身体を捻り、わざと姿勢を崩してギリギリのところでボールを回避した。ボールはそのまま観衆として壁際に立っている男子生徒の顔に直撃。

 実況席のレンリー教師は冷静に解説する。

《ほう、ESPで弾道すらも変えてみせるか、フフフ》

「いよいよ反則だろそれは!」

 尻もちをついたディアキは審判に抗議の声を上げるが、やはりディアキ以外異を唱える者はいない。

 マリー教師は艶めかしく身体を揺らしながら、顔面直撃を喰らった男子生徒の元へ行き、ミニスカートから大胆に太ももを覗かせながらボールを受け取った。男子生徒は鼻血を垂らしているが、それはレイバウのボールを顔面で受け止めたからか、はたまた。

 一方。

(驚いたな。ディアキくん、アレすら避けるとは思わなかったよ)

 レイバウはディアキの身のこなしには内心驚いていた。先程の「軌道を変えるボール」は初見ではまず見破れないはずだ。しかしそれを避けられた。クラブ活動に入っているわけでも、ESPを持っているわけでもない彼によって。もはや卓越した反射神経の持ち主であることを認めざるをえない。

 しかしディアキからしても、レイバウの猛攻には現状打開策が見当たらない。

 やはりあの球を普通の人間が受け止めるのは無理があるような気がする、と。

 更にいえば、受け止めたとして『風』のESP使いであるレイバウに自分のボールが届くのだろうか。

「安心したまえ、ディアキくん」

 ふと、マリー教師から再びボールを手にしたレイバウから声を掛けられる。

「見た感じ途轍もない速度を叩き出しているように思えるだろうが、ちゃんと人が受け止めれる速度だ」

 風のチカラでボールをくるくると回しながら。

「加えて、君がボールを受け止め、僕に向かって投げるときに、例えば逆風を吹かせ勢いを殺すとか、風で障壁を作るとか、そんなことをするつもりもない。さすがに試合にならないからね」

「……、」

 つまり、レイバウが風のESPを使うときはボールを投げるときだけ、ということか。

 なるほど、腐ってもスポーツクラブエース。ギリギリフェアプレイ精神は残っていたようだ。

 意を決して、構えを取る。

「いいだろう、来やがれESP使い!」

「どうやら覚悟が決まったようだね」

 レイバウは爽やかに笑い、

「よほどアリアスさんを渡したくないらしい。君と彼女の関係がすごく羨ましいよ」

 実況席ではミーミルがアリアスを肘で小突いており、アリアスはそっぽ向いている。

 レイバウは笑みを引っ込ませ、試合の顔へ。

「ならばここからが本当の一騎打ちだ!」

 次の一球は、事態を大きく進める。

 実況室のレンリー非常勤教師はその様子を見て、

《フフフ、アリアス。君の彼氏が決まる瞬間かもしれないぞ》

《いえ、どちらが勝っても後でちゃんと断》

「ラァアアアアアアブ・シュウゥウウウウウト‼」

「ゴォオオオオオッド・キィイイパァアアアアアアア‼」

 放たれる愛の真心を、ディアキは神の技(即席)をもって真正面から受け止める。

『おぉーー⁉』

 生徒たちも、実況のミーミルも、その光景に釘付けにされた。

 ディアキが踏ん張ってボールを勝ち取るか、踏ん張りが効かず、そのまま直撃となりアウトになるか。

 レイバウはアリアスと付き合うことになるのか。

 結果。

《ディアキ、ボールを受け止めたぁ!》

 両手でしっかりボールを受け切り、ディアキは立っていた。

《フフフ、ディアキの度胸勝ちというところか》

 その雄姿を一番近くで見たレイバウの顔は、いっそ清々しく。

「……よく受け止めたね、しかし勝負はまだ決していない」

「ああ、今度はこっちの番だ。行くぞ――!」


 ◆


 夕暮れ時。アリアスとディアキはランディルの行政地区を歩いていた。この地区は遊んだり、飲み食いする店が少ないため、人混みは落ち着いている。チラホラ見える人達も、自分たちと同じ制服の生徒だったり、スーツで仕事帰りの大人が多い。

 二人はゆっくり帰路につきながら、

「いやー、なんとかなるもんだな」

「なんとかなってませんよもう!」

 ドッチボール対決に決着がついてはや数十分。 

 試合の結果は、ディアキの勝利。

 レイバウのボールを受け止めたディアキ。反撃として放った渾身の投球をレイバウは受け止めるでもなく、避けるでもなく、甘んじてその身に受けたのだった。

 曰く「ESPを使ってまで挑んだ勝負。君が倒れなかった時点で僕が負けたようなものさ」 

 彼はアリアスを見ながら呟く、「少なくとも彼女は認めてくれないだろう」《いえ、勝っても負けても認めませんが》「君の勝ちだ、ディアキくん」そうしてレイバウは哀愁を漂わせて去ったのだった。

 こうして呆気なく幕は終了。集まっていた生徒たちも散り散りに帰っていく。

 ちなみに縄を解かれたグラン教師にディアキとミーミルは呆気なく捕まり説教を喰らうのだが、しかしレポートや反省文の期限を来週まで延ばしてもらうことに成功するのであった。

「明日から、どんな顔して登校すればいいんですか」

 一緒に歩いているアリアスは憤懣やるかたないという感じ。対するディアキはそんなに気にしていない。あの学校のバカ騒ぎなど、よくある光景なのだから。

「それでさ、アリアス。レポートの件なんだが」

「手伝ってほしいって言うのでしょう?」

 妙に下手口調だったところから、アリアスは意見を先読みする。

「まぁ、いいですよ」

 苦笑しながらも承諾した。

「いいのか⁉」

「ええ。ついでにミーミルも呼んで、次の日曜日に三人で取り組みましょう。カフェで」

「え、カフェ?」

「言ってみたいところがあったんです。ケーキが美味しいって評判なんですよ。あ、私当日は財布持って行きませんので」

「あれ、人の金で休日を満喫しようとしている?」

「私、二人を助ける立場ですし?」

 言ってのける彼女は、夕焼けの光によって美しく照らされながらも、なんとも悪戯な笑みを浮かべていた。ディアキは確信する。「あぁ、今日の騒ぎの仕返しだな」と。

 そうして項垂れる彼もまた、ほのかに笑みを浮かべていた。


  ③


 ふと、夕日が差し掛かるテラスハウス街の通りの方から威圧的な喧噪がゆっくりとなだれ込んできた。

「あれは……」

 十数人の団体が、大通りを行進している。

《大規蒸発事件を忘れるな!》

ESPイーエスピー使いの規制強化を!》

《イギリスに平和を!》

 そう声を挙げる団体の胸には『ESP使いは徹底管理すべし』と書かれているプレートが掲げられている。

 ESP使いを物のように管理しろと主張するデモ活動。

「……学校の外だと、まだああいう人っているんですね」

 通り過ぎるデモ団体を見て、アリアスは感傷的に呟いた。

 アリアスたちが通っているスクールでは今回のドッチボール対決のような、イベントや楽しいことが好きな生徒が多く、教員もノリがいいため差別意識のある人間は少ない。 

 しかし、外の世界ではやはりESP使いに忌避感を持ち、差別してしまう人間は存在してしまう。

「ま、あれも世間から見れば少数派だ」

 ディアキの言うとおり、彼らの凱旋は肯定的に見られている様子はない。周りの人たちも関わり合いにならないよう、距離を置いて目を合わせないようにしていた。

 アリアスはその光景を見ながら、ある出来事を思い出していた。

「それにしても、そろそろあの事件が起きた日になるんですね」

 六年前の四月八日。その日、未曾有の大災害が起きた。

『大規模蒸発事件』

 ある街で、その中心部を飲み込むように巨大な爆炎と閃光が引き起こされ、多くの建物と人を蒸発させてしまった。

 それはイギリスの歴史に刻まれる凄惨な事件となった。ああした団体はランディルだけにいるのではない。事件があった日が近づくと、英国各地でデモ活動が行われる。政府に対して要求しているのだ、「ESP使いを許すな」と。

 しかし、事件の原因は不明。現在に至っても詳細なことはわかっていない。

 にも関わらず、デモ団体はESP使いがあの災害を起こしたものと考えているのだろう。

 その読みは的外れというわけでもない。

 ミサイルが降ってきたわけでもないのに、街単体を巻き込む程の大規模な爆発が起きるのは、ESPという異能が可能性としては大きいからだ。

 事件当時の前後、街のあらゆる監視カメラは、特におかしいものを映していなかった。なのに、大規模な爆発が発生した。

 そうした不可解なことも、ESPという未知の能力が原因だと考えることは自然な流れかもしれない。

 故に大規模蒸発〝事件〟と呼称されてしまっている。

 だが、結局は憶測に過ぎない。

 アリアスは遠巻きにデモ団体を見ながら、

(ESP使いのせいだと勝手に断言して……) 

 近代の技術発展により、ESPの反応や残滓は徐々に検知できるようになっている。

 そして事件当時、ESPを含めたあらゆるエネルギー反応は検出されなかったのだ。

 つまり本当に真相不明。容疑者も、疑わしい人もいない。そもそも人為的かどうかでさえ。

(いえ、たとえそうだとしても、他のESP使いまで悪と決めつけてしまうなんて……)

 それでも彼らはESP使いを忌避して、被害妄想でああしたことを言っている。

 それとも真相はどうでもよくて、あの凄惨な事件をプロパガンダとして利用し、民衆がESPに対して拒否感を抱くように促しているのだろうか

 アリアスはそれが悲しかった。それは、単純な正義感からの感情ではない。

 

 アリアスとディアキは『大規模蒸発事件』の被害者であり、同時に数少ない生存者だからだ。


 特にアリアスは精神的なショックにより、事件以前の記憶、自分がどう生きてきたか、両親はどんな人だったかすら、覚えていない。

 端から見れば、悲惨な運命だろう。

 だからといって誰が原因だったのかとか、ESP使いが絡んでいるのではないかとか。そしてそれが許せないなんて、そんなことは考えもしなかった。

 なぜならアリアスは、自分は幸福だと自覚しているからだ。

 運良く災害から生き残ったアリアスは、そのまま孤児院へ預けられた。当時九歳。

 そこでディアキや他の孤児たちと一緒に生活し、その日々は充足していた。

 ディアキは同い年ということもあり、二人はすぐに仲良くなった。二人で遊んで、喧嘩し、勉強し、孤児院の先生を手伝ったり、年下の子の面倒を見たりして過ごしていった。孤児院では常に笑顔が絶えなかった。

 そして、謎の足長おじさんがアリアスとディアキの二人を引き取ることになり、ランディルに引っ越して共同生活を始めて。同時に転校先となったランディルスクールでミーミルと出会い、学校で楽しいことを共有したり、出かけしたりする仲になって。

『大規模蒸発事件』が起き、記憶を失ってからの六年間。アリアスは自分が不幸だと感じたことなど一度もない。普通で、ありきたりで、幸福な日常を送ってきた。

 だからこそ、あの事件をきっかけとした悲惨さを強調したデモ活動やテレビのニュースやコメントを見ると虚しく思えてしまう。ましてそれがESP使いのせいだとか、証拠もないのに論じているのを見ていると余計に。

 同時に、確かにあの日起きたことは悲劇で、今も誰かの心に傷を残しているのも事実。デモ団体の中にはそうした人が混じっているかもしれない。

 そう考えると歯痒さも出てくる。

 デモ団体は、不満を荒げながら大通りの向こうへ消えていく。

 アリアスもこれ以上ここに浸るのはよくないと、振り切るようにディアキに顔を向けた。

「寄り道していいですか? 夕飯の買い出しに行きたいんです」

「……そうだな」

 ディアキも異を唱えない。彼もあの災害の生き残りだ。アリアスと同じようにデモ活動に思うところがあるが、ここから離れたいとも考えていたのだろう。

 アリアスが歩みを再開しようとすると、ちょうど向かい側からパーカーを羽織った青年が早歩きしてアリアスの横を通り過ぎる。

「ん?」

 何か違和感。

「あー⁉」

 アリアスの驚くような叫び声。同時に、パーカーの青年が一目散とばかりに走り出す。

 一拍おいて、アリアスも駆け出す。そして更に一拍してからディアキも二人を追いかける。

 アリアスの駆け足に、ディアキは追いつきながら、

「おい、どうしたんだよっ」

「ブローチをスラれたんです!」

 朝から制服の胸元上の部分にブローチを付けていたが、あの青年が横切った瞬間になくなっていた。

「あのシルバーのブローチ?」

「そう! って気づいてたんですか⁉」

「そりゃあ、見ればわかる位置に付けてあったし」

 そして普段だったらそんなの付けてなかったし。と内心で思っているディアキ。

「気づいてたのなら、何か言ってくれれば良かったじゃないですか! ファンクラブの親衛隊は降ろさせます!」

「ちょっと待て! アレによってどれだけオレに羨望(と嫉妬)の眼差しが集まっていたと思っている! なんの権限があってそんなことをするんだ⁉」

「御本人様だからですよ!」

 パーカーの青年との距離が徐々に広がっていく。彼がペースを上げたのではなく、アリアスのペースがもう落ち始めていた。

「そのブローチ、高かったのか?」

「それ程じゃないですけどっ! 気に入って、買ったっ、ので!」

 ディアキを綺麗に背負い投げしたりする彼女の運動神経は良い方だ。だが如何せん体育の授業くらいにしか運動しないので、瞬発力はともかく体力の方は少ない。もう息を切らしかけている。

「よしわかった。オレが行くから、そこら辺で待っててくれ」

 一段ギアを入れるように、ディアキは走力を上げた。

 遠ざかり小さくなっていくアリアスは、既に大きく肩を上下に揺らしながら、近くにあったポールに手をつくのだった。


  ◆


 パーカーの青年の専売特許はスリなのだが、追跡者との逃走も経験したことがあるのか迷うことなく細い路地や人混みの中に滑り込んでいく。

 ここら一帯の地形と道も把握済みで、速度を落とすことなく、相手の体力と思考を奪うようにジグザグに走り回っている。

 が。

(あいつ、すごいな)

 ブローチを奪った女性と一緒にいた男性。女性と似た配色の水色と紺の学生服を着ているし、クラスメイトあたりか。彼は一定の距離を維持するどころか徐々に縮めてきている。

 パーカーの青年はランディルの地元民ですら知らないような裏道を駆け、見失いやすいような舗道が雑多なところを選んでいるのだが、彼は常にこちらを補足していた。

(ここならどうだ!)

 パーカーの青年が入ったのは寂れた商店街通り。今は夕刻時、にも関わらず大半の店は開いている様子もなく、扉は閉ざされているか、シャッターが下ろされている。故に明かりのない雑多な建物に囲まれたこの一帯は既に影が溶けるような暗さとなっていた。

 ここならば視認性は更に悪くなり、相手がこちらを見失う確率は上がる。

 パーカー青年はここの道も頭に叩き込んである。後は一直線にならないように回り込みを続けていればいいだろう。

 そう思った瞬間だった。

 後ろからあり得ない速度で何かが自分の横を通り過ぎ、

「おいコラ」

 ドン! 

 正面から肩を強く叩かれ、パーカーの青年は強い衝撃を受けながら尻餅をつく。

 そこにいたのは、驚くべきことに自分と逃走劇を行っていた水色と紺の制服の男性――ディアキ・スライグだった。

「ち、ちょっと待て! オマエさっき……⁉」

 パーカーの男の後ろに彼はいたはず。

 確かに徐々に近づいてきてはいたが、一瞬で詰められる距離ではなかったのに。

 なのに彼は、今自分を追い越してきた。それも人間が出せるはずのない速力で。

(コイツ、ESP使いだったのか?)

 だとしたら聞いていない。想定外だ。

 ともかく相手がESP使いだった場合、能力によっては勝ち目どころか逃げ延びれるかどうかも怪しい。

「まったく。スリだからよかったものの、オマエ、アイツの身体に直接何かしてたらもっと容赦ないことになってたぜ?」

「わ、悪かったよ。返す! 返すから!」

 正面にいる男の怒りをこれ以上買わないようにと、丁寧にブローチを掲げる。

 彼はそれを受け取ってから、ため息。

「もういいよ。じゃあな」

 パーカーの青年は、脱兎のごとく走り去る。

 ――もっと容赦ないことになってたぜ?

 彼の言葉を聞いた時、恐怖によって背筋がぞわりとした。

 あれは学生特有のイキリではない。ESP使いだったことを加味しても、とても冗談には聞こえない。異様な雰囲気を纏っているのを感じ取った。

 元々パーカーの青年の専売特許はスリだ。それも相手に気づかれず盗み取ることができる程の犯行が可能である。ではなぜ、そんな彼がたかが女学生ごときにスリが気づかれたかといえば――、

適当にあしらう仕事じゃなかったのかよ)

 だがこれはやばい。スリとして人と状況を見てきたそれなりの勘が、あれは関わっては駄目だと判断した。

 一刻も早く、この場を去らなければ。この状況が気づかれる前に。


 ため息をつきながら、ディアキは来た道を戻っていた。

(……わざわざこんなの盗まなくても)

 アクセサリーの価値などわからないが、アリアスが「それ程でもない」と言っていたように高そうな雰囲気もない。女性受けを狙うかのようにデザインはふんわり丸く、可愛らしさを出しているくらいだ。

 ディアキは携帯端末を取り出す。アリアスにブローチを取り返したことを伝えるために。

 コール音が鳴る。走って疲れているのか、アリアスが出る気配がない。

(……いや、だとしても長くないか?)

 六コール。やがて留守番電話に切り替わる。

「……、」

 嫌な予感がした。ディアキはあのパーカーの青年を一瞬で追い抜いた時のように、弾丸の如く走り抜ける。

 アリアスと別れた場所に戻っても、彼女の行方はわからなかった。

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