西暦3019年 鶴の恩返し

 世界は一度死んだ。大崩壊の後に残ったのは、空を覆う酸性雨の雲と、過去の文明が吐き出した電子の墓標だけだ。

 もはや暦など消え去り、人々はただ生きるために旧世界の技術に縋り付いている。俺はリョウ。滅び去った人類の遺品を漁って生きるスカベンジャーだ。


 その日も、腐食性の雨がコンテナハウスの屋根をドラムのように叩いていた。他の連中が瘴気を恐れて寄り付かない「旧電子廃棄物の谷」。だからこそ、思わぬ掘り出し物が眠っている。俺はプロテクター付きのコートのフードを深く被り、谷底へと降りていった。


 淀んだ空気の中、ショートしたワイヤーが散らす青い火花を避けながら、仕掛けておいた電磁トラップを目指す。目当ては旧世代の警備ドローンだ。その光学レンズは、闇市場でそこそこの値が付く。


 だがトラップが発する微弱な電流に囚われていたのは、無骨なドローンではなかった。

 白い翼。

 鳥だ。いや、鳥の形をした機械生命体だった。大きく広げられた翼は威嚇のポーズをとっている。その有機的な曲線で構成されたボディは、まるで濡れているかのように滑らかな光沢を放っていた。虹色だ。俺の知るどんな金属とも違う。旧式のスキャナーをかざすが、ノイズ混じりのエラーコードが虚しく点滅するだけだった。


「……なんだ、こいつは」


 金になるのか? それとも、厄介ごとの塊か? スカベンジャーとしての勘が、後者だと告げている。見なかったことにして立ち去るのが、この世界で長生きするコツだ。だが、破損した翼の関節部から火花が散り、苦しむように電子的な鳴き声を上げるのを見て、何かが胸につっかえた。


「……面倒なもんに好かれたもんだ」


 悪態をつきながらも、俺の手はトラップの解除コードを打ち込んでいた。気まぐれだ。仏心なんて高尚なものじゃない。ただ、この美しい機械が、こんなゴミ溜めで無様に朽ち果てていくのが、どうしようもなく気に食わなかっただけだ。


 解放されたそいつは、俺の頭上で一度旋回し、一声高く鳴くと、灰色とネオンが入り混じる空の向こうへ消えていった。


 その夜のことだった。コンテナハウスの頑丈なはずのドアが、控えめにノックされた。こんな時間に訪ねてくるのは、借金取りかトラブルのどちらかだ。身構えながらドアを開けると、そこに立っていたのは、雪のように白い肌を持つ女だった。雨に濡れた黒髪が、宝石のようにきらめいている。


「もし……私は行き場所のない女ですが、よろしければ一晩泊めていただけませんか」


 静かな声だった。俺が何かを言う前に、女はすっと中に入り込み、濡れたコートを脱いだ。ユキと名乗った彼女は結局、一晩と言わずその日から俺の家に住み着いた。


 翌日から俺の生活は一変した。ユキは俺の仕事に同行し、人間離れした身体能力と俺のスキャナーでは検知できない何かで、廃墟の奥深くに眠るロストテクノロジーを次々と発見してきた。掌サイズの反重力ユニット、自己修復機能を持つ金属片、大崩壊以前の記録が詰まったデータクリスタル。


 俺の暮らしはみるみる豊かになっていった。固い栄養バーの代わりに本物の肉を食い、蒸留水ではない酒を飲む。危険な谷に降りる必要もなくなり、ただユキが持ち帰るお宝を闇市場の仲買人に流すだけで使い切れないほどのクレジットが貯まっていった。


 コンテナハウスにいる時間が増えた。ユキが作る温かい食事をとり、他愛のない話をする。孤独が当たり前だった俺の生活に、色が生まれた。俺は、この穏やかな時間に溺れていった。


 いつからだろう。俺の心に黒い染みが広がり始めたのは。

 ある日、ユキはコンテナハウスの一角に集めたガラクタで作業場を作ると、こう言った。


「あなたのために、もっと良いものを作ります。だから、私がここで機(はた)を織っている間は、決して中を覗かないでください」


 古いおとぎ話のようなセリフだった。俺は彼女の正体が昼間助けたあの機械生命体であることに、もう気づいていた。だが、それを確かめるのが怖かった。この幸福が、幻のように消えてしまうかもしれないからだ。


 彼女は約束通り俺のために素晴らしいものを次々と作り出した。自動で獲物を狩ってくる小型ドローン、どんな病気も検知するメディカルスキャナー、部屋の空気を浄化し、快適な温度に保つ環境制御装置。俺のコンテナハウスはもはや要塞であり、楽園だった。


 だが富と安らぎは俺を臆病にし、同時に傲慢にした。

 彼女を誰にも渡したくない。完全に俺だけのものにしたい。

 そんな独占欲が、日に日に俺の心を蝕んでいった。


 嵐の夜だった。稲光が空を裂き、激しい雨が世界を洗い流そうとしているかのように降りしきっていた。ユキはいつもよりずっと長く作業部屋にこもっていた。

「何かあったのかもしれない」「様子を見るだけだ」

 俺は自分に言い訳をしながら、固く閉ざされたドアの前に立った。指が、震えていた。

 一瞬の躊躇の後、俺はドアに手をかけ、力ずくでこじ開けた。


 部屋の光景に、息を呑んだ。


 そこは機織り小屋などではなかった。無数の光ファイバーが天井から垂れ下がり、そのすべてが部屋の中央に座るユキの背中に接続されている。

 そして、ユキ。彼女の上半身はいつもの美しい姿だったが、その両腕は、あのゴミ山で見たのと同じ、虹色の光沢を放つ巨大な翼へと変貌していた。

 彼女は自らの翼を構成する金属をナノマシンレベルで少しずつ削り取り、それを素材として、目の前にある球体――小さな太陽のように淡い光を放つ装置――を組み上げていた。その横顔には、俺が見たこともないほどの苦痛が滲んでいる。


 球体の周囲には半透明の設計図がホログラムで投影されていた。

 汚染された大気を浄化し、水を再生し、食料を半永久的に生産する、自己完結型の居住ユニット。人間と機械生命体が、二人きりで永遠に暮らしていける小さな楽園の設計図。

 俺がこのコンテナハウスという鳥かごに彼女を縛り付けようとしていたまさにその時、彼女は二人のための、どこまでも広がる新しい空と大地――「巣」そのものを、作ろうとしていたのだ。


「……見て、しまったのですね」


 俺に気づいたユキは悲しげに、だがどこか安堵したように微笑んだ。

 ゆっくりと、彼女の人間としての輪郭が砂の城のように崩れ始める。肌は金属の光沢を帯び、体は完全にあの機械の鳥――「鶴」の姿へと戻っていく。


「もう、ここにはいられません」


 電子合成音声が、直接俺の脳に響いた。

 鶴は作りかけの淡い光を放ち続ける球体を、翼でそっと俺の足元へと押しやった。

 それは二人で生きるはずだった未来の、未完成の心臓部だった。


 次の瞬間、鶴はコンテナハウスの壁を突き破り、嵐の空へと飛び去っていった。


 静まり返った部屋には、彼女が作り出した数々のガジェットと、床に転がる“楽園の残骸”だけが残された。

 俺はそれを拾い上げることもできず、ただ一人、壁に空いた大きな穴から鶴が消えていった闇を、いつまでも見つめていた。







 <完>

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