こぶとり双雄伝 -鬼神譚-

 ◇ 鬼神の残滓


 平安の都は絢爛たる光と底知れぬ闇が織りなす綾錦であった。日輪のもとでは雅楽が流れ貴族たちが恋歌を詠む一方、月光が差さぬ路地裏では、人のならぬもの、すなわち「あやかし」が蠢いていた。


 その闇を祓うのが、陰陽寮に籍を置く若き俊英、安倍セイメイの役目であった。彼の名はその異形の貌(かんばせ)と共に、都中に知れ渡っている。右の頬に赤子の頭ほどもあろうかという、奇妙なこぶ。それは彼の祖先がかつて都を滅ぼさんとした鬼神を、ただ一人で討ち滅ぼした証として得た力の源泉であった。


「セイメイ様! 南の朱雀大路に、牛鬼の一群が!」


 伝令の悲鳴にも似た声を受け、セイメイは静かに頷く。彼は戦場と化した大路に立つと、右頬のこぶにそっと手を添えた。


「往ね、我が神威」


 呟きと共に、こぶは彼の頬から離れ、漆黒の円盤となって夜空を疾駆する。それはあたかも意志を持つ月のごとく、唸りを上げて牛鬼の眉間を撃ち抜いた。一体を砕いたこぶは勢いを殺すことなく跳弾し、隣の牛鬼の角を砕き、さらにその奥の個体の巨体を穿つ。縦横無尽に闇を切り裂き阿鼻叫喚の巷を作り出したこぶは、血飛沫の尾を引きながら流麗な円軌道を描いて再びセイメイの手に戻る。彼は何事もなかったかのように、それを元の頬へと収めた。


 跳弾する神威のこぶ。戻りし力の象徴。都の民は彼を英雄と讃え、その武勇を畏れた。セイメイは、ただ黙して闇を祓い続ける。それが、この大いなる力を得た者の宿命だと信じて。



 ◇ 凶兆の宴


 ある満月の夜。内裏に呼ばれたセイメイは、帝より直々の勅命を受けた。


「玄武門の東、今は廃寺となった羅生寺にて、鬼が出るとの報せ。近隣の民が幾人も喰われたという。セイメイ、汝が力をもって速やかにこれを討ち果たせ」


 セイメイは深く頭を垂れ、勅命を拝する。だが、彼の胸にはこれまで感じたことのない微かな不安の澱が沈んでいた。満月がやけに赤く、血の色を湛えているように見えたのだ。


 一人、羅生寺へと赴く。朽ち果てた山門をくぐり、雑草に覆われた境内を進む。本堂であったろう建物の奥、月光が差し込む僅かな空間に、それは佇んでいた。


 人ではない。セイメイがこれまで討ってきた「あやかし」とも違う。それは、凝縮された怨念と、神代の時代から続くかのような、圧倒的な威圧感を放つ「鬼」であった。


「……来たか。鬼殺しの末代。フン、小童ではないか」


 地を揺るがすような声。セイメイは怯むことなく、即座にこぶを解き放つ。全霊を込めた一撃。神速で飛翔したこぶは、鬼の喉笛めがけて突き進む。


 だが。


 鬼はこともなげにその手を差し出しセイメイの神威を、まるで鞠でも受け止めるかのように、易々と掴み取ってしまった。


「なっ……!?」


 初めて見る光景に、セイメイの思考が凍りつく。鬼はその手の中にあるこぶを慈しむように眺め、そして言った。


「ふむ。懐かしい気配よ。我が同胞を屠り、その力の欠片を玩具にしておったか。……これは、返してもらうぞ」


 鬼の言葉の意味を理解する間もなく、その姿は揺らぎ、こぶと共に闇の中へと溶けるように消え去った。後に残されたのは、己の無力さを噛みしめるセイメイと、無情に照らす満月の光だけだった。



 ◇ 虚ろなる魂、蘇りし絆


 力の源泉であるこぶを失ったセイメイの失墜は、あまりにも早かった。鬼を取り逃がした責を問われ、陰陽寮の役職を剥奪され、都からも追放された。昨日までの英雄は、一夜にしてただの人となり、いや、人以下の存在として蔑まれた。


 彼は羅城門の崩れた石垣に寄りかかり、降りしきる冷たい雨に打たれながら、ただ虚空を見つめていた。頬にはこぶがあった場所が、ぽっかりと虚ろな窪みとなって残っている。力と共に彼の魂までが、あの鬼に抉り取られてしまったかのようだった。


 民の賞賛も、帝の信頼も、全てはあのこぶがあったからこそ。それを失った自分に、何が残っているというのか。雨水が頬の窪みを伝い、涙のように流れ落ちていく。


 その時、雨音に混じり静かな足音が近づいてきた。


「無様なものだな、安倍セイメイ」


 見上げると、そこに一人の男が立っていた。黒々とした狩衣を纏い、その両の頬には、セイメイが持っていたものとよく似たこぶが、二つ、不気味に鎮座していた。


「……誰だ、貴様は」

「我が名は、芦屋ドウマン」


 ドウマン。その名に、セイメイは眉をひそめる。安倍家と陰陽の技を競い、常にその座を狙ってきた宿敵の一族。


「かつて、貴様の祖先は鬼神を討ち、その力の残滓である『神威のこぶ』を手に入れた。それに焦がれ、妬んだ我が祖先は、禁忌とされる邪法に手を染めた。鬼神の骸より、その呪われた残滓を我が身に取り込んだのだ。それが、この『呪いのこぶ』よ」


 ドウマンは自らの頬のこぶを指し示し、自嘲するように笑う。


「我ら芦屋の一族は代々この呪いを力に変えるため、血の滲むような研鑽を積んできた。すべてはいつか貴様ら安倍家を超え、真の陰陽の守護となるため。だというのに……」


 ドウマンの目が、鋭くセイメイを射抜く。


「なんだ、その腑抜けた顔は。俺が、俺達が、生涯をかけて超えようとした壁が、その程度であったとはな」


「……だからどうした。もはや俺にこぶはない。力もない。関係のないことだ」


 セイメイは、力なく吐き捨てる。だが、ドウマンは静かに首を横に振った。


「関係なくはない」


 ドウマンはやおら懐から短刀を取り出すと、自らの左頬にあるこぶを、躊躇いなく抉り取った。血が噴き出すのも構わず、彼はその呪われた肉塊をセイメイの前に差し出す。


「昔、どちらの祖先が正しかったかなど、今はどうでもいい。……ただ、俺は貴様に憧れていた。都の闇を、たった一つの神威で切り裂くその姿に。俺が、生涯かけても届かぬかもしれぬ、その輝きに」


 ドウマンの声は雨音に負けぬほど、強く、熱を帯びていた。


「立て、セイメイ。俺の憧れを、こんな所で終わらせるな」


 差し出された、禍々しい気を放つ呪いのこぶ。それは、セイメイが失った神威とは似ても似つかぬ、重く、冷たい塊だった。しかしそれを握るドウマンの掌は、確かに熱かった。


「あの鬼を、退治しにいくぞ」


 セイメイは、ドウマンの瞳を見つめた。そこには憎悪でも侮蔑でもなく、ただ純粋な、好敵手への敬意と信頼の光が宿っていた。


 失われた光が、再びセイメイの目に灯る。彼はゆっくりと立ち上がり、震える手でドウマンが差し出したこぶを受け取った。


 かくして、光の神威を失った英雄と、闇の呪いを背負い続けた宿敵は手を握り合った。二つのこぶが月光に照らされるとき、平安の都に新たな伝説が刻まれるであろう。






 <完>

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