至高の一杯
「なんで買い取れねえんだよ!!」
男の怒声が、昼下がりの冒険者ギルドに響き渡った。鑑定カウンターに身を乗り出した男は興奮で顔を真っ赤にし、鑑定師に詰め寄っている。机の上にはいかにも年季の入った、くたびれた革製のバッグが一つ。
「何度鑑定しても結果は変わりません。これは『次元収納袋』とは言えません、強いて言うなら『次元劣化袋』……アーティファクトとしては致命的な欠陥品です」
まるで聞き飽きた説法を繰り返す僧侶のように、鑑定師は静かに告げた。その言葉に、遠巻きに見ていた冒険者たちがヒソヒソと声を立てる。
次元収納袋。見た目を遥かに超える容量を持ち、中に入れたものの重さを感じさせず、さらに時間を停止させることで鮮度を永遠に保つという、冒険者垂涎の魔法のアイテム。神だか悪魔だかに作られたと言われる、まさしく伝説級のアーティファクトだ。
だが、男が持ち込んだこのバッグは収納こそできるものの、中に入れたものの時間を恐るべき速度で進めて劣化させるという呪われた代物だった。
「収納物の鮮度を保つ魔法こそ、この手のアイテムの価値なんです。それが失われているばかりか、積極的に劣化させるなど……こういった『呪い』の道具を買い取ることはできません」
鑑定師の冷たい言葉が男に絶望の判決を突きつけた。彼の様子を俺はカウンターから少し離れた席で、ニヤニヤしながら見ていた。──哀れな異世界人め。お前らにはこの「劣化」という言葉の、本当の価値がわからない。
俺はゆっくりと立ち上がり、男と鑑定師の間に割って入った。
「そのバッグ、俺が買い取ろう」
男は驚いた顔で俺を見上げ、鑑定師は「おやめなさい」とばかりに眉をひそめる。だが、俺は気にしない。俺は転生者なのだ。数多のファンタジー小説を読破し、セオリーを知り尽くした俺にとって、この状況はまさに物語の始まりを告げる合図だった。
一見すれば欠陥品や外れスキル。それを独自の視点で活用し、莫大な富を築く。これこそが、転生者系小説における成り上がりの王道だ。
なけなしの金──いや、この世界に来てから稼いだ全財産をテーブルに叩きつけると、男は「金を返せと言っても無駄だぞ!」と金貨をひったくり、足早にギルドを去っていった。鑑定師も他の冒険者も、物好きを見る目で俺に呆れた視線を送っている。その視線を背中に浴びながら、心の内で俺はほくそ笑んだ。見ていろ。すぐに、お前たちがひれ伏すほどの成功者になってやる。
宿屋の一室に戻った俺は祝杯の準備を始めた。もちろん、用意したのは一番安い、酸っぱいだけの安物ワインだ。入れたものを劣化させる呪われた袋に、なぜワインを入れるのか。それは、「劣化」が必ずしも価値を下げるとは限らない唯一の魔法、「熟成」に繋がるからだ。
転生前の人生では、安酒を啜りながら上司の靴を舐めるような毎日だった。だが、この知識があれば、俺はあっという間に世界の頂点に立てる!
俺は高鳴る胸を抑えながら、ワインボトルをバッグにそっと滑り込ませた。その瞬間、バッグの革の表面にまるで焼き印のような天秤の紋章が一瞬だけ赤く浮かび上がったのを、俺は見逃さなかった。
数時間後。期待とわずかな不安が入り混じる中、恐る恐るバッグに手を入れる。指先に触れたのは、ひんやりとしたガラスの感触。引きずり出したボトルは、ラベルが黄ばんで古び、コルクはしっとりと黒ずんで、まるで何十年、いや、何百年もの歳月を経たかのような威厳を放っていた。
「やった……!」
歓喜の声を上げ、震える手でコルクを抜く。ポン、という小気味よい音とともに、部屋中に芳醇で複雑な、官能的なまでの香りが満ち満ちていく。グラスに注がれた液体は、安物のそれとは似ても似つかぬ、深紅の宝石色をしていた。
一口、含む。舌の上で、果実の甘みと酸味、そして長い年月だけが生み出すことのできる複雑な渋みと香りが、幾重にも重なって花開く。これは間違いない。王侯貴族ですら滅多に口にできない、極上のヴィンテージワインだ!
俺は満面の笑みでグラスを掲げ、勝利の美酒に酔いしれた。と、その時、突如として部屋の空気が凍りついた。
「……おやおや、飲んでしまったのですね」
背後から、氷のように冷たい声がした。振り返ると、そこには漆黒のスーツを完璧に着こなした、背中に蝙蝠のような翼を持つ青白い肌の男が、いつの間にか立っていた。彼は俺の手の中のワイングラスを一瞥し、口の端を歪める。
「ではその上がった価値から換算して、相応の税をお支払いいただかないと」
「税……だと?」
「ええ。しかし大したものではございません――ワインが熟成に要した時間の、たった20%ですよ」
悪魔――徴税官が指を鳴らした瞬間、俺は絶叫した。ワイングラスを持つ俺の手が、みるみるうちに水分を失い、乾いた樹皮のように皺だらけになっていく。視界が急速に霞み、膝から力が抜けて床に崩れ落ちた。舌の上に残っていた極上のワインの味は、自分の命そのものが溶け出していく感覚に変わっていた。意識が、薄れていく──。
◇
翌朝。日も高くなった頃に客室のドアが強くノックされる。
「お客さん! いつまで寝てるんだい! とっととシーツ替えさせとくれ!
… …ちっ、返事なしかい。悪いけど入るよ!」
舌打ちをしながら部屋に入ってきた女将は、床に広がったまるで人の形のような赤黒い染みを見て顔をしかめる。
「まったく、こんな上等なワインを床にこぼすなんて罰当たりな。……これじゃ染み抜きの代金を後で請求しないといけないね」
そうぶつぶつ言いながら、女将は空になったボトルと、一つだけポツンと残された、埃をかぶったグラスを片付け始める。
しかしその後、男がその街に姿を見せることは二度となかった。
<完>
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